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No. 56  いのちある限り

先日、日本から帰った。 鼻かぜを引いたまま。 サイナス・インフェクションといって、眉間の内側、鼻の周りにある空間というのか、日本語でなんというのか、「びくう」というのか? 文字変換がでないので、なさけない。 まあ、とにかく、そこのところが痛い。 感染しているんである。 幸い、今、日本で流行っている「ノロウイルス」ではないので、胃腸は大丈夫。 時差ぼけもすこしとれてきたところ。 ということで、明日の早朝4-5時に出発して、ここから600マイル(960km)の距離にあるSanta Feという町にいく。 ニューメキシコ州にある古い町である。 コロラド州の南に位置する。 古くから住み着いたプエブロインディアンとメキシコ人の文化があり、アメリカで一番古い町である。 クリスマスは、ファロリトといって、Brown Bag(茶色の紙の袋)に砂を入れて、そのなかにろうそくをいれて点火する。 サンタフェやニューメキシコ州独特のAdobe(アドビ)という建物の作り方がある。 (興味のある人は検索してね。) そのアドビの上にずらーっと並べる。 町中がそうだ。 とても美しい。 その美しい町のなかで、トレーラーハウスに住んでいるのが、旦那の両親。 二人とも、92歳。 第一次世界大戦のころ、生まれたということである。 お父さんは、腰が痛く、もうあまり外には出たがらない。 しかし、お母さんは、この間も一人で故郷のパナマに行ってきたほど、元気。 パーティーで一晩中、踊ってしまうひとでもある。 200歳まで生きる、といっても過言ではない。  このお父さんとお母さんには、私は今まで一度も嫌な思いをさせられたことが無い。 むしろ、家族として、しっかりと受け入れてくれている。 そして、私の両親亡き後は、残された唯一の私の親でもある。 だから、子供の学校が休みのときは、出来る限り、会わせてあげたい。 こんな体調の悪い時でも、無理して行こうと思う。 92歳、いつ、何があってもおかしくない。 ご両親の命あるかぎり、心を尽くして、会いに行こう。 一人になったら、面倒を見てあげよう。 あなたの両親を敬え。 それは、あなたが、与えられた地で長く生きるためである。 クリスマスです。 アメリカにいて、日本の親と遠く離れている方、ちょっと電話して、「元気?」の一言でもかけてあげようね。 明朝、かなり早いので、今日は、この辺で

No. 55  主夫(しゅふ)、Mr. Mom

12月10日から19日、日本にいた。 野暮用と実家の母の遺品やら、私の荷物をアメリカに送るという、海外引越し屋まがいの作業であった。 引越しは、7-8回しているので、パッキングはなれたものである。 しかし、日本では、友人にあったり、いろいろな用事も飛び込んでくるから、滞在時間のすべてを荷造りにはかけられなかった。 だから、ものすごいスピードで、それこそ、「鬼」のように、荷造りをしたのであった。 やっぱ、私には頭を使わないこういった肉体作業の方があっているようで。  私の不在中、子供は近くのDay Care Centerで面倒見てもらおうかと思っていた。 そうしたら、旦那が、お金もったいないし、これが始めてじゃないから、俺が面倒みる、とかってでてくれた。 子供の面倒見の良い旦那。 安心して、出発した。 日本では、携帯をもっているので、そこに旦那から毎日電話とメールがくる。 そんなある日、「あの犬、殺す!」とのメールが・・・。 あの犬、とは、今年の初めに事故にあった13歳のぷっぷちゃんではなく、8月に我が家にきた、仔犬のぴっぴちゃんのことである。 そのやんちゃなぴっぴちゃん、池の鯉を取ろうとして池におちた。 そしてずぶぬれのまま、家にはいり、ベッドによこたわたそうだ。 もちろん、ベッドは水浸し。 さらに、石鹸を食べて、一晩中、吐いていたとか。 なんでも食べてしまうんだよね。 あの子。 さらに、子供のおもちゃやら、いろいろかじったらしい。 旦那、「君が帰るころは、もういないかもしれない」だって。 さて、帰国したのが一昨日。 顔つきから、旦那、限界だったみたいよ。 でも、帰った日の夕飯は作ってくれたのである。 それに、「密輸」した「毛蟹」を出してあげて、少しホットしたみたい。 旦那が、子供の弁当箱、洗っといてね、という。 ん???  見ると、ご飯と豚肉の焼いたのが残っていた。  旦那、子供に弁当まで作っていた!  それに、きちんと毎晩、宿題の読書をちゃんと子供たちにやらせていた。 大変だったろうに・・・・。 旦那の仕事は連邦の国家公務員で、かなりの年月努めているので、休暇が貯まっている。 だから、子供の面倒を見ながら仕事もできる。 料理も自分で出来る人である。 だから、結婚したんだが。 過去10年、日本との往来をした私にとって、普通の男性だったら、続いていなかったのではない

No. 54  落ち葉を踏みしめ、ワーズワースの詩をおもふ

前、ブログを書いたあと、なんと胃に来る風邪に子供と一緒にかかり、一週間ほど機能しない状態になっていた。 お腹は痛いし、気持ち悪いし。 子供たちはげろげろでその洗濯やら。 そんな時に、日本の盆暮れ正月のような季節が到来したアメリカ。 11月23日はサンクスギビングって言って、親戚家族一同が集まる日。 陸、空ともに、往来の多い忙しい日。  やっと調子が戻ったが、今度は、日本に野暮用で帰国する。 その準備で忙しいんだが、なんか神さんに「書け」といわれとるようなので、帰国前に、書くことにした。 ******************************************* 毎朝、森の中で祈りの時を持つようになってから、もう一年以上になる。 いつも歩く小道の上は、今は、落ち葉で一杯である。 祈りの場所へは、森の中にはいる小さな道がある。 落ち葉を踏みしめて、祈りの場所にいく。 さくさく、という音があり、雨のあとは、ぐしゅぐしゅと音を立てながら。 母は膠原病を25年以上、わずらっていた。 常用していた多くの薬があったが、そのなかの薬で骨髄をやられ、白血球が激減する症状を死までの2年間繰り返した。 一年の間に、入退院を10回近くくりかえした末、実家から2-3時間かかるところに訳あって連れてこられてしまった。 去年の10月、入院中の母の元に帰った。 自分の家から引き剥がされて、狂ってもいないのに、精神科の病棟にいれられ(そこしか受け入れ先が無かった)、周りはまともな話が出来る人間は看護婦以外にはいなかった。 母は長期入院がたたり、歩けなくなっていた。 自分が好きだった身の回りのものも一切もってこれず、ただ、一人、病室のベッドにいた。 母は、私が死ぬのはここかねぇ、とぽつんと言った。 奇跡的なことが起こり、普通では起こらないことが起こった。 婦長さんが独自の判断で、私は母の病室に泊まって良い、ということになった。 海外から遥々来た人でも、普通はそういう待遇はしない、といわれたが、特別に、と言われた。 荷物を病室に運び、私は病室で母と時間を過ごした。 疲労と戦いながら、夜中に体が痛いという母に起こされ、背中をさすり、寝れない日々であった。 それでも、母に按手し、祈り、聖書を読んであげた。 本当に疲れたある夜のこと。 ある聖書の箇所を読んでいた時、母はイエス兄さんの元に回帰した。

No. 53  なんで忙しいんだ?

「ご無沙汰しています」が挨拶になりつつあるこのBlog。 別のところから、「Blog更新されていないんですが、どうしてるんですか?」「元気ですか?」などというメールやら掲示板の書き込みがある。  はいはい、すんまへん。 ほんまに、いそがしゅうて、なかなかかけへんやったんや。 しかし、なんでこうも時間が急になくなったのか?? 私にも謎である。 今日の一日を振り返ろう。 朝、6:45起きて、子供の朝食をつくり、7:45に学校に送り出す。 その後、いつもの森の中をぷっぷちゃんとぴっぴちゃんと歩く。 2日前の強風で倒れた大木はそのまま遊歩道をふさいでいる。 でも、草むらへ迂回して、いつもの祈りの場所にたどり着く。 祈りを終えて、車にもどるのが、9時。  それから、今日と明日の食事のお買い物。 家に帰ると、9:45. 買い物の荷物をだして、冷蔵庫にいれる。 皿洗い機の中の食器を棚に戻す。 朝食を立ち食いして、ピアノに向かう。 明日のバイブル・スタディーで伴奏する曲の練習を兼ねた賛美。 そして、祈り。 と、もう10:45. 日本の教会へのクリスマスプレゼント、日本にいる親友の新居のプレゼント、安いオーガニックの豆乳などを買いにウオールマートへ。 そのあと、新しくできた楽器屋にいき、本などを買って帰宅。 午後1:00. 昼はスープ。 食い意地のはるぴっぴちゃんが私のパンを狙うので目が離せない。 そこそこに食べ終えて、プレゼントの荷造り。 箱を探すのが一苦労。 寝室のベッドメーキングをする。 ぴっぴちゃんのおしっこがついたラグをひろい、洗濯する。 洗濯物をたたむ。 そのあと、ちょこっとピアノで賛美する。 祈る。 コンピューターに向かい、E-mailをチェックする。 そして、急いでシャワーをあびて、3:00pm。 忙しいと、風呂にもはいらないときがあるのよ。 きたないでしょ。  そして、いそいで、子供たちを迎えに行く。 3:30pm。 小学校より帰宅。 おやつのカステラを一緒に食べる。 友人に出しかけのE-mailを出す傍ら、娘が泣くのが聞こえる。 なんと、けずってほしくなかった鉛筆を私が削ったので、怒っていた。 まったくもう、勘弁してよー。 部屋で大声でなく娘をよそに、息子に日本語の宿題をさせる。  4:00pm。 旦那、メキシコ出張より帰宅。 その足で娘をなぐさめる旦那。 息子を

No. 52 わしらと神さんとの距離 その2: その後  

昨日、旦那のオフィスのボスがジムの家に行った。 そこで、どういういきさつかが、少しわかってきた。 ジムの息子は、病気だらけの大変な一生だったらしい。 へその緒が首に巻き付いて、生まれてきた。 それも原因なんだろうか、いろいろな病気をしてきたらしい。  確かに、一年前ほど、その息子さんが脳膜炎で首のところにShank(日本語わからないけど、チューブか小さい棒状のものであろう)をいれておいたのが、うまくいかず、床に伏したままである、との話を聞いた。 病気だから、仕事もしておらず、健康保険もない、という状態だった。 Austinに一人暮らしか、彼女と暮らしていたようでもある。 ジムと奥さんはAustinに車で出かけていって、世話をしていたと記憶する。 でも、今年の春あたり、処置がうまく行き、通常生活が送れるようになった、という良い知らせを聞いたので、ほっとしていた。 それが、今年もおわろうとしているこの時期に、突然、「死」という結末になってしまった。 何がおこったのか。 ずっと医学的な問題を抱えてきた人生だったので、いろいろな薬を飲んでいたらしい。 強い薬も含まれていたそうだ。  この金曜日の10月27日の夜、どこかに行って飲んできたらしい。 お酒と強い薬。 副作用が出たらしい。 ぴりぴりしたのか、多少錯乱したのか、それでも、車を運転していて、住んでいるAustinから離れた田舎道に迷い込んでしまったそうだ。 一軒屋をみつけて、その家のドアどがたがたとこじあけたそうだ。 夜中に人里から離れた一軒家のドアをたたいたり、がたがたこじあけようとすれば、アメリカでも、日本でも、笑顔をもってドアをあけるところなんかない。 アメリカだから、銃が迎える。  私も旦那の出張中、そういうことがあれば、旦那の狩猟用のライフル持ち出して、威嚇するよ。 子供を守らなければいけないから。  ということで、玄関先で、銃でもって、頭に弾丸2発、ぶちこまれてしまった、といういきさつらしい。 しかし、死人に口なし。 本当に何がおこったのか。 目撃者もいないだろう。 正当防衛をたてに、無実を主張してくるだろうな。 10年以上前、ルイジアナ州バトン・ルージュで、ハロウィーンの日に、日本人留学生が銃で撃たれて死んだ事件があった。 そういやぁ、明日は、ハロウィーンだけど。 この事件の場合は、日本人留学生がTric

No. 51 わしらと神さんとの距離

お久しぶり。 前投稿の「断食」に愛の行為を始めた、と書いたよね。 それ、やっと完成した。 ほかに、いろいろやらなきゃならないことがあって、あんれまー、いそがしかったよ~ん。  今日、土曜日の午後は、時間がとれるそー、と思っていたら・・・・・・・・ 旦那の同僚で、もう私の友達でもあるジムの息子が死んだ、という連絡が入った。 30代の人で、先妻との間にできた子供だけど、一人息子である。 連絡をうけたときは、日本語学校で当番していた時であった。 ジム夫妻の家は日本語学校からさほど遠くないので、私が旦那の代わりに行くことにした。 家に行くまで、天のお父さんに、言葉を与えてください、と頼んだ。 だって、子供の死って私は経験したことないし、したくもない。 その息子さん、結構大変な人生だったらしい、とは聞いていたし。  家に着いたら、すでにジムのクリスチャンの友達が沢山いた。 ジム夫妻は、寝室で休んでいるということで、待つことに。 夕飯の準備もあるが、旦那はわかってくれるだろうし。 暫くして、出てきたジム夫妻は、しっかりと立ち、微笑みを浮かべていた。 そして、クリスチャンの友人とともに、イエス兄さんありがとう、ありがとう、と感謝していた。  いったい何がおこったんですか? と聞くと。 頭に銃弾2発打ち込まれて死んだ。 殺人であった。  ダラスから3-4時間南のオースティンというテキサスの首都に住んでいた息子さん。 亡くなった場所はそこではなかったそうだ。 仕事関係らしい親子がいて、その父親に殺されたらしい。 詳しいことは、父親であるジムもわからないそうだ。 今、警察が捜査中である。 葬式は火曜日ー水曜日らしい。 私は暫くだまって、ジム、奥さん、友人たちの話をじーっと聞き入っていた。 私の目は息子さんの写真にそそがれていた。 6時半になり、夕飯の支度をしなければならず、家に帰ることにした。 そして、ジムの横に座り、肩を抱き、手を握り祈った。 いつも祈るのは日本語なので、英語がでるかどうか・・・。 でも祈ることが大切だと祈った。 お父さん、 私たちは、こういうことがあると、何故ですか?? 何故なんですか?? と問います。 あなたは、それには答えてくれないときもあります。 答えてくれるときもあります。 でも、こういったこともあなたのプランの一つなんでしょう。 聖書の中に、 生まれるとき

No. 50 断食

またまた、ご無沙汰してしまいました。 子供たちは小学校一年生となり、幼稚園とは違い、「成績」がついてくるようになったので、宿題を見てあげたり、学校で行った学習の復習をする時間が増えてきた。 そのうえ、日本語学校の宿題も毎日、すこしずつするので、子供の帰宅後から夕飯、そして寝かしつけるまでの9時までは、まったく自分の時間がない、という日々。 これは、どのお母さんもおんなじか。 さらに、私には、ピアノの練習もある。 毎週金曜日の聖書研究会でピアノの伴奏しちゃってるので。 あとは、ジャズピアノの理論と練習。(私にとっては、不得意だった化学の授業のように思える。) ピアノのことはなかなかかけずにいるなぁ。 これもおもろい話だから、書かなきゃね。 自由時間が無いのに、2週間前から、あることを始めてしまった。 なので、なかなかBlogを更新できずにいる。  母の死から、はや10ヶ月が経った。 その間、私の感情と体力に上下が激しくあった。 そりゃー、去年まで、実家に何かあれば、30時間かけて帰国していた、という生活を10年していたし、父と母の最期にまつわるいろいろなこと -本当にいろいろなこと-があった。 そのいろいろなことの中には、まだ実質的に決着がついていないこともある。 感情の中でも決着がついていないことがある。 解決の為、祈ってきた・・・かな? 多少は祈ったが、ある問題からは、「逃げていた」んだと思う。 それは、その問題を性急に解決しようとすると、自分の心に秘めた汚い部分、ずるい部分を直視しなければならない、と私は無意識のうちにわかっていたんだろう。  だから、人を雇って、問題解決をしようと試みた。 しかし、それは成就しなかった。  神さんがそれはあかん、といっていたんだろうな。 いや、そう私もうすうす感じていたけど、私は「人間らしく」否定していた。 かなりの時間がたってから、やっぱり自分が手を下さなければいけないのだな、という思いがすこーしずつ、湧き上がってきた。  でも、どうしていいかわからないので、私は一週間断食して祈った。 過去一年の間に3-4回断食したけど、今回は旦那が出張中ではないので、夕飯だけ食べる、という変則的断食。 実は、断食をするのなら、一日中、何も食べないほうが実は楽。 夕飯だけを食べると、そのあとがどーんと疲れるので、実は、こういった断食の方がきつ

No. 49 死んだら、驚いた!のかなぁ?

ご無沙汰しています。 先先週の終わりごろから、体調が思わしくなくなってきて、先週は毎日昼寝をしないと体が持たなくなってきていました。 更年期障害か? ついに私も? と疑いましたが、どうやら風邪ともう一つのことが理由らしいです。 この日曜日から、やっと回復して、前進力が出てきました。  先日、俳優の 丹波哲郎 さんが84歳で亡くなった。 私くらいの年代の人には、テレビ番組のGメンのボスみたいな役で出演していたし、たしか千葉真一がでていた「キイハンター」にも出演していた、という記憶のある人もいるだろう。 Gメンには、夏木マリ、范文雀(はん ぶんじゃく:半分弱ではないぞ)、今は料理の鉄人でピーマンかじっている鹿賀丈史などが出演していた。 これは、70年代くらいのことだから、若い人たちは知らないだろうね。 それが、日本のバブルの最中か、はじけた時あたりに、丹波哲郎さんは急に、「霊界」のことを話すようになった。 まるで、昼の奥様向け番組で、夏に特集を組む、「あなたの知らない世界:霊界のありさま特集!」みたいな下世話なことみたいだったので、あまり興味をもたなかったのである。 でも、そのうち、映画まで作ってしまったようだ。 新聞の広告に、「丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる」という映画の宣伝がでていて、あれまー、ここまでやったか、と思っていたら、次は「丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!」 なんてきたから、こけてしまった。 驚いたよ。 その後、渡米した私には、日本の芸能界のことなんて、だんだん疎遠になってきたので、丹波哲郎という名前さえ忘れてしまっていたのである。  そこで、彼の訃報をネットで知った。 なので、それとなく、彼のことをちょっとネットでサーチしてみた。        丹波哲郎の霊界サロン   http://www.tamba.ne.jp/ma.html ここを開けると、彼の系図のことに少し触れていて、スクロールダウンすると、「あの世では、台所、寝室どころかトイレも不要」というパラグラフがある。 ここで、簡単に霊界とはどういうことか、書いている。 かいつまんでみると、霊界とは以下の様なところらしい。 1.おカネなんてものは存在しない。財産や資産なんて発想もな~い。 2.ほとんどの霊界の家というのは諸君が想像する以上に小さいんだ。一見したところでは、茶室のつくりによ

No. 48 "9-11"

ピアノの続きを書こうと思っていた。  今日の午後、気がついた。 今日は9月11日。 同時多発テロにアメリカがショックを受けた日。 今日は、5周年で、ABC,CNN等で特集を組んでいた。 私は以前、マンハッタンに住んでいた。 最初は、Upper West Sideという、セントラルパークの西側。 84丁目に住んでいた。 ユダヤ人が多かった。 男性で、頭の後頭部に黒い円形の布をピンで留めている人が多い。 私は、あれは「はげ隠し」と思っていた。 それは、ユダヤ人が着用する「ヤマカ」というものであると後で知った。 日本人とユダヤ人の夫婦も多くいたところだと記憶する。 大学の数学と統計学の教授も、ヤマカをかぷった上に、山高帽のようなものをかぶり、黒い服をきて授業をしていた。 はげ隠しはともかく、84丁目のあとは、20丁目に引っ越した。 通っていた大学が18丁目、23丁目あたりにちらばっているので、早朝の授業のスケジュールにあわせるために引っ越したのである。 今の自宅のトイレより狭い19階にある自分の部屋からは、Brooklyn Bridgeが遠くに見えた。  私は日本で会社勤めを11年したあとに、すべてを捨てて、ニューヨークに飛んだ。 貯金と好きな沢山の本だけを抱えて。 学生ビザだから、正規には働けない。 違法で働いている人は沢山いたけど。 でも、働く時間もなかった。 勉強に忙しくて。  しかし、貯金通帳の残高がどんどん目減りしていくのは、恐怖であった。 部屋代、授業料・・。 ニューヨークでは高い。 でも、学生ビザでは、働いてはいけない。 8月にニューヨークに行ったが、ニューヨークは8月下旬となると、涼しくなる。 9月の下旬にはコートが必要。 日も短くなる。 お金使えないから、切り詰めるのは、食費となる。 結構ひもじかった。 なので、たまに教会に誘われて「食べ」にいった。 寿司が頭の中を飛ぶ夢もみた。 そういうときに限り、悪友が寿司の写真をはがきに貼って送ってきたのである。 ニューヨーク時代の極貧生活とある困難を乗り越えた話は別途。 ともかく、ひもじく、寂しく、つらい思いをしながらも、なんとか2セメスターを終えた6月のある日、就職課に足を運んだ。 そしたら、日本語ができるということで、そこからとんとんとアメリカの某大会社への就職が一ヶ月以内に決まってしまった。 留学生もキャン

中間報告: ねむい、体痛い

「探し物はみつかる」シリーズで前回を書いたのが9月1日。 いやはや、忙しかったよー。 毎日、ここに定期的に来てくれる人たちがいるんで、一週間まるまる書いていなかった。 ごめんね。 このところ、仔犬のぴっぴちゃんは、夜、クレートっちゅー小屋に入れてしまう。 出ないと、ぴっぴちゃんが起きるたんびに、私たち夫婦のどちらかが飛び起きて、外にトイレに連れて行く、ということをしていた。 当然、睡眠不足になるから、ぴっぴちゃんが来てから2週間となった先週、ついにぴっぴちゃんは夜、小屋にいれてしまおう、という結論に達した。 こちとら、体が持たない。 ぷっぷちゃんのときも、夜中起きて、トイレにつれていったけど、そんときゃ、私、11歳若かった。 それに、学生していたから、夜中まで勉強していたので、あまり睡眠不足でふらふら、とうい思い出がない。 でも、ぴっぴちゃんは、ぷっぷちゃんとは、違う。 ものすごいウンチの量。 あの小さい体のどこからでてくるのか? 夜中に5-6個していた。 もう、これはだめ。 ということで、小屋に入れることとした。 小屋にいれて、鳴いても無視。 そのうち、敵も静かになるから、こちとら、睡眠がとれるようになった。 それでも、2-3時ごろと5時には、くんくん鳴くから、起きてそとに連れて行く。  ということで、少しはよくなったが、まだ睡眠不足である。 今日は、昼寝しそびれたし・・・。 おまけに、皮のくそ重たいソファーを家の中で移動し、それを掃除したから、ちょっと腰の筋肉が痛いのである。 ということで、「忘れ物・・・  その三」は、今日はもう、体が休息を求めているので、もう寝床に行く。 明日の安息日が過ぎてから時間を見つけて書くこととする。 しかし、ぴっぴちゃん、なかなかの「くせもの」であった。 私が旦那に犬の保護施設から電話して、「この子、一番おとなしいのよ。 だから、この子にするね。」といったのだが、旦那はこのごろ、「一番おとなしいのねぇ・・」と、猫を追いかけ、私のスリッパをくわえて走っていくぴっぴちゃんを見て言う。 ぴっぴちゃん、結構頑固。 ぷっぷちゃんに、うーっといわれても、めげない。 ものすごい太い精神の持ち主。 旦那は、良い猟犬になるぞ! と今日は、Fetch!)とってこい!を訓練していたが、ぴっぴちゃん、投げたものをくわえて、旦那と反対の方向へ走っていった。

No. 45 探し物は見つかる  その二

二つ目の探し物を見に行く、と書いた。  行ったのだが、ちょっと調子が変で、古い。 悪くはないんだが。  帰り道、車を運転していて、天のお父さんに言われたような感覚があった。 「それ、ちがうんじゃないのかな。」って。 ああ、そうですね、とひとりごとを言った。 家に帰って、専門家に相談したら、その年代に作られたものは、ちょっと問題がある、とのこと。 ということで、売主には悪いけど、断った。 とても良いこれまたイエス営業部のご夫婦だったんだが。 そのもの、彼らのお子さんの為に残しておいたほうがいいと思った。  でも、それを売りたいのは、借金があって、大変だからだ、という。 お子さん1歳2歳3歳といれば、おむつ代だけで、月300ドルは超えてしまうだろうから、そりゃ大変だ。 でも、そのものは、お前のものではない、と天のお父さんにいわれると、悪いけど、断るしかなかった。 大変そうだから、30ドルほど、おむつに使ってくださいって、ウォールマートの商品券でも送ってあげようと思う。 さて、私の探し物はなんでしょうか。 それは、ピアノなんですよね。 ヤマハのアップライトのピアノ。 予算$2000以下。  $4,000あれば、いいのが買えるんですが。 あっしには、お金、ござんせん。 $2,000も借金をする。 もう、いいや。 借金して、どつぼにはまっても。 それでも、お父さん、有難う、って喜んでろって聖書は言うし。 本当に旗からみたら馬鹿だよ。 でも、馬鹿をまじめにやると、すんごいことが起こるって天のお父さんいうから、もういいや。 清水の舞台から飛び降りちゃえ。 今、滞っている事に対しても、「天のお父さん、こんな目になってますけど、それでも、ありがとう。 感謝します。 喜びます。」と祈るようにしている。 馬鹿みたいで、無理そうだけど、言っちゃおう。 ピアノは30年ぶりに弾き始めた。 そのいきさつは、 前Blog にいって、スクロールして、No. 5 ディスコICC その一とその二をを参照のこと。 先週の初めのパタリロ先生の礼拝でのメッセージが「どんなときにあっても喜びなさい」という内容。 とってもよかった。 それに感化されて、自虐的なマゾになった。 うそだ。 言葉でもいいから、どんな苦境にあっても、「天のお父さん、うれしいです。 喜びます!」といってしまうのである。 そうすると、とんでも

No. 44  探し物は見つかる  その一

探し物はなんですか 見つけにくいものですか かばんの中も 机の中も 探したけれど みつからないのに まだまだ探す気ですか それより僕と踊りませんか 夢の中へ 夢の中へ  行ってみたいと思いませんか Wooo Wooo  Wooo Haa/// 井上揚水 「夢の中へ」より ご無沙汰であったのう。  先週から探し物をしていて、多忙であったのぢゃ。  今、二つの物を探している。 一つは、見つかったのだが、そのせいで、睡眠不足の毎日に、洗濯ばかりしている。 眠いので、今回のBlogはMixiに書いている日記からかなり引用して、手抜きをする。 ウチには、ぷっぷちゃんというラブラドールの雑種のとても良い犬がいる。 11歳だが。 命令は良く聞くし、いつもそばにいてくれる。   旦那、フロリダにいたときは、毎週末海にいってモリで魚を取ってきた人。 テキサスの海から6時間離れた、ここダラスでは、海がそばにない。 なので、かも、七面鳥、いのししなどの狩猟を始めた。 この冬のダックシーズンに、ぷっぷちゃんを連れて行った。 ぷっぷちゃんはラブラドールとシェパードの雑種であるが、泳ぎは得意だし、しっかりとRetrieve(獲物を取ってくる)が上手。  ダックの狩猟は寒い冬だし、水辺が多いので、ラブラドールリトリバーは、落ちたダックを泳いで取ってくるために、人間に「作られた」犬の種類である ある寒い冬の日、旦那はダックハンティングに行くため、朝の4時に起きた。 ぷっぷちゃんは、どてーっと私たちのベッドの上に寝そべっていて、起きやしなかったそうだ。  起こすと、「何よ?」という顔をしたらしい。  なんとか、たたき起こして、狩りにいった。 森の奥深くに入り、ダックに狙いをさだめた。   最初の発砲音で、ぷっぷちゃん、逃げた。  旦那、青くなって、探したけどいない。 なんと2マイル(3キロ)離れたところに停めて置いた車の横でがたがた震えていたそうだ。  旦那のオフィスの人たちの笑い話の種となった。 また、秋が来る。 旦那は純潔のラブラドールの子犬が欲しいという。 子供のうちから銃声にならしておくことが猟犬には必要である。  純潔、血統証もいいが、遺伝の問題が多すぎて、長生きしないし、血統証には私、まったく興味がない。 それより、不要犬として、ほっておけば安楽死が待っている犬を引き取ったほうが良いと

No. 43 ひろう神

子供の学校が始まり、一週間が経った。  去年と較べると、私には余裕が出来ていた。 去年は、アメリカの小学校に子供をいれるのは、初めての体験であった。 その上、入学一ヶ月で、転校という事態になった。 子供たちの英語力が足らないので、ESLという英語を母国語としない生徒のクラスにいれるように、との学校からのお達しがあった。 その上、日本では、母の入院先がわからなくなるという出来事も重なった。  学校では、いろいろな書類にサインしなければならない。 多くの書類を読んでサインするのが苦痛であった。 なので、ほおっておいたら、催促がきた。 聞いていたことであるが、アメリカの学校って親への負担がかなり大きい。 「○○を持ってきてください。」「家で○○をさせてください。」「○○の行事がありますので、ボランティアして下さい。」とやたら『うるさい』。 なので、最初は参った。  しかし、一年を過ごすと、慣れてきた。 今年は転校もないし、子供達も明るく元気に学校に通っている。 金曜日の夜はファンナイトとかいうものがあるのだが、それもPTAの勧誘と知っているので、行かなかった。 担任の先生を直接たすけるのはOKであるが、PTAという組織はあまり好きではないし、メリットを感じないので、自分自ら必要だ、と思えるようになるまでは、まあ、いいや、というスタンスである。 さて、昨日の金曜日の午後、子供たちを迎えにいった。 昨日のブログで話したミス・マリーの姿が見当たらない。 幼稚部で一緒だったお母さんが近づいてきて、ミス・マリーは他の小学校に転勤になりました、という。 「じゃあ、解雇ではないのですね!?」と聞くと、親指立てて、「そうです。」とそのお母さん。  「捨てる神あれば、拾う神あり」、というか、「捨てる学校あれば、拾う学校あり」。 あ~よかった、と安堵のため息が出た。 たとえ、学校が変わっても、収入の道が閉ざされることがない。 それに、別の学校で、もっといいことがあるかもしれない。 または、これは、「天のお父さんの御計画」かもしれない。  計画の一つかな?と思うのは、私たちの子供達たった6人の教師になるため、うちの小学校に来てくれたということ。 普通の教室は20人前後。 でも、去年は特別に6人という小クラスで、先生の目がよく届くクラスであったこと。 お陰で、私の子供達は落ちこぼれずに済んだ。

No. 42 幸運・不運 - 神様のえこひいき?

ジョンベネ・ラムジー ちゃん殺害(10年前)の容疑者がタイのバンコクで身柄を拘束された、というニュースが夕べ発信された。 当時、犯人は裕福な親か、兄か、という疑いもあり、メディアの注目をあびた事件であった。 今日の新聞の一面トップはそのこと。 レバノン情勢より上の段に出ていた。 朝のCNNのニュースもそのことでもちきりであった。 ただ、今日の段階では、詳しい情報はない。  容疑者のジョン・マーク・カーの発言がとても気になった。  まず、いとも簡単に罪を告白している。 「あなたは無実ですか?」 『ノー』 なんじゃ、こりゃ? 普通、どんな罪を犯しても、無実を主張するのが普通のアメリカ人だけど・・・。 そして、『僕はジョンベネ(当時6歳)を愛している。セックスしたが、死んだのはアクシデントであった。』 ラムジー家との関係は、という質問には、『ノーコメント』。 母親のパッツィーとは話したか? 『ノーコメント』。  あと、この容疑者は事件のあったコロラドのボゥルダーには住んでいなかった。 ただ、幼児ポルノ愛好者ではある。 この人、本当に容疑者であろうか? まあ、ジョンベネちゃんのつめから取れたDNAサンプルがあるし、容疑者がコロラドに移送されてから、調査が始まるので、時間の問題か。 ジョンベネちゃんのお母さんのパッツィーも元ミス・ぺージェントだったので、きれいな人であったが、真犯人がつかまるのを見ずに、今年の6月に卵巣がんとの長い闘病の末、亡くなった。 お父さんはビジネスマンである。 しかし、事件当時、一度も涙をTVで見たことがない。 どんな質問にも、感情を吐露せずにクールに答えていた。 だからか、この父親も疑いの目で見られていた。 社交界で華やかな存在で、裕福であったラムジー家はジョンベネちゃん殺害事件で、一転して、家族がばらばらになる、という状況に落とされた。 こういうことってあるんだなぁ・・・。 今日、いつものように子供達を学校に迎えに行った。 ぴかぴかの一年生である。 お迎えのとき、幼稚部のときの担任のMs.マリーに会った。 彼女、「ちょっと話が・・」と私を呼び寄せた。 「校長先生が今年度は幼稚部の生徒が少ないので、あなたを解雇するかもしれない、と言われました。 なので、私の為に祈ってください。」 これにはショックであった。 だって、過去10年、家庭内暴力の末、離婚し

No. 41 夢で逢えたら ~このBlogのきっかけ~

昨晩、夢を見た。 父と母が出てきた。 それ以外に、父方、母方の亡くなった多くの親戚が出てきた。 仲の良い、生存中(?)の母方のいとこも二人とも出てきて、皆でどこかへいく、という。 東京のどこかで、皆で泊まったあと、身支度を整えていた。 地方にある、いとこの取引先にいくようであった。 さあ、行こうか、というところで目覚ましのアラームが鳴った。 目覚めて、はっとした。 今日は、8月の14日である。 お盆の中日。  わたしの父と母は東京出身なので、お盆に田舎に帰るという習慣がなかった。 なので、お盆、と言われても、だからなんなの?で生きてきた。 なのに、日本から遠くはなれたアメリカで、今日、お盆を思い出した。 お盆を検索したので、 お盆の意味はここ 。 しかし、親戚一同、夢の中にでてきちゃったのは驚きである。 夢というと、この和歌が、心に何十年も残っている。 思ひつつぬればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを (小野小町・古今集) 意味: 思い慕いながら寝たので、あの人が夢にあらわれたのだろうか。 もし、夢であると知っていたならば、目を覚まさなかっただろうに。 これは、恋歌である。 しかし、歌の中の「人」は広範な意味の愛するひとでもいいではないか。 今年の春、何故だか、いらいら、せわせわ、というか、やたら自分を追いまくる気分になっていた。 頼まれたら嫌といえない性格だから、自分の能力以上のことを引き受けてしまったのか、自分でやります、といっておきながら、忙しくなって、どつぼにはまったのか。 ちょっと疲れてしまったのである。  ウチの教会のWebsiteを、ががががーって、秀吉の 墨俣一夜城 (すのまた いちやじょう)のごとく作ったのは良かったが、その反動が来たのか。 何故ならば、今年の春は母が亡くなって、まだ3-4ヶ月しか経っていなかったときであった。  お葬式の時、年配の方に、「亡くなったあと、暫くしてから、『きます』からね。それは、そのときで通り過ぎるしかありません。」と言われた。  今、思えば、そのいらいらした日々が「きた」ときだったのだろう。  ボクシングのボディーブローだね。 いや、冷酒か? 「親の小言と冷酒はあとから効く」と父が良く言っていた。 その後、亡き母が恋しくて、天のお父さんに、「お願いします。 母に逢わせてください。 母に逢わせてください。

No. 40 ちょっと一息

いつもなら、ばかげたことをぶちまかす私もNo. 39「沈黙」では、中学校のような読書感想文になってしまった。 これじゃぁ、息もつまるだろうな。  ということで、今日は息抜き手抜き栓抜きだ。 あのテロ騒ぎの木曜日(日本は金曜日)、旦那はメキシコから帰ってきた。 メキシコシティーの空港では、もう混乱状態。 そりゃーそうだ。 普段でさえ、のんびりしていて、混沌としているメキシコがテロ厳戒態勢でセキュリティーチェックを始めたら、もう混沌を超えた、ブラックホールだ。 今、メキシコでは登場時間の3時間前に空港にいくようにとのお達しがでているそうだ。 でも、金曜日はメキシコの駆け出し航空会社の社長が仕事場に来たそうだ。 彼は、自分専用の飛行機を飛ばしてきたから、ボトルに入った水もワインも堂々と持ち込んで来たんだろう。  旦那のオフィスにて、仕事を済ませた後、その社長がオフィスの人たちをお昼に連れて行ってくれたそうだ。 美味しいワインとステーキ。 旦那、赤い顔して帰宅。 この会社の為に、ずっと一生懸命やってきたから、これくらいのご褒美はいいんじゃない。 賄賂か? いや、認定が終わったあとだから、いいか。 それにマネジャーも一緒だから、いいのよん。 それまでは、メキシコの担当者たちがきたら、旦那たち自腹切ってお昼ごちそうしていたから。 実際のところ、日当にあたる金額までの食費はおごってもらっても違法ではない。 我が家は金曜日がステーキなんだが、旦那、すでに食べてきたので、いらないって。 なので、冷凍の鮭を子供たちと食べる。 こちとら、給料日前で、きついし、買い物面倒くさいから助かった。 さらに、冷蔵庫の中身がからに近くなったので、今日、冷蔵庫の掃除が出来た。 冷蔵庫、ピカピカしてきれいよ、今。 そのあと、トイレにいったら、ウ○チが床に擦り付けられた跡が・・・ウ○チがついた小さいパンツがぬぎすててある。 便器の中も、流れていないウ○チが・・・。 ああ、うちの息子、またやった。 早く言えばいいのに。 と、トイレ、洗面所を掃除した。 拭きながら、「このうんこたれめ。」と噴出してしまった。 古い日本語だなって。  洟垂れ小僧って昔よくいて、袖の先が乾いた鼻水で光っていたらしい。 だから、うんこたれ小僧ってのもいたんだろうな。 漫画で、とりいかずよしの「トイレット博士」を知っている人は読者のな

No. 39 「沈黙」

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ぐうたらママをしていても、本は読んでいた。 この2週間で読んだのは、 「沈黙」 遠藤周作    「春琴抄」谷崎潤一郎  の2冊。 両方とも、地元の日本人学校のバザーで一冊50円で買ってきたもの。  バケーション中に「沈黙」を読もうと、もっていったが、Sedonaのおばさんの家においてきてしまった。  バケーションから戻り、「沈黙」が家に届くまで、「春琴抄」を読んでいた。 「沈黙」のあらすじはWikipediaに書いてあったので、 リンク を貼るので、割愛する。 まず、あらすじを読んでください。   「沈黙」 を読み続けていくうちに、キリシタン迫害の拷問の仕方にいろいろあって、だんだん気分が悪くなってきた。 たとえば、海の中に柱を立て、そこに人をくくりつけてほおって置くやり方。 穴つりといって、耳のうしろに穴をあけて、その人間を蓑虫のように蓑でぐるぐるまきにして、逆さに穴のなかに吊るすやりかた。 熱湯をかけるやりかた・・・。    それぞれの拷問で、受刑者がどういうメカニズムで苦しみ死に至るのかは、私には具体的にわからない。 Slow Death=じわじわと苦しみながら迎える死、であろうから、想像を絶する。 十字架の刑も、体の重みで肩、胸の骨や筋肉が気管を締め付けるのであろうか、これもSlow Deathで極刑とされている。 「パッション」=「Passion of Jesus Christ」の最後ではイエス没後、地震が起こり、ローマ兵が他の受刑者のすねを折る場面があるが、すねを折ることによって、すべての体重が肩、うでにかかり、結果として、呼吸ができなくなる、ので、死を早めるのであると思う。 日本でのキリシタン弾圧は豊臣秀吉の命であり、江戸時代も続けられた。 踏み絵、隠れキリシタン、フランシスコ・ザビエル、という名前は歴史の教科書にのっているので、日本人の間でも一般常識である。  インターネットで当時の日本の信者の数、そして殉教者の数を調べたかったが、出てこない。 本の紹介はあるが、その本を買って読むまで気力がない。 せめて、学者の文献くらい、サーチできないものか。  ウチの教会のパタリロ先生によれば、当時、日本人の三分の一がクリスチャンであり、多くの人たちが殉教した、ということだ。 では、1600年代の日本人の人口は約1,220万人くらい。 

No. 38 ぐうたらな一週間

長距離運転したバケーションからもどってきたとたん、ダラスの相変わらずの猛暑にKOされた。  あとで、立ち上がって、逆転判定勝ち、という怪しげな勝ち方もしようとは思わなかった。 なんというたとえだ? サンタ・フェやグランドキャニオンでは華氏60度台(15度前後くらいかな?)の涼しさであり、夕方はジャケットが必要な日々であった。  夜中、テントの中を風が通ると、涼しくて気持ちよかったが、明け方は寒くなり、寝袋を子供たちにかぶせ、私ももぐりこんだ、という日々であった。 なので、体が楽ではあった。 しかし、ダラスに戻ってからの猛暑の応酬にはまいった。 また、最後の日の運転が田舎道のハイウエイで、いつも強い風が吹くところ。 運転に神経を使う長丁場であったので、疲れた。  ということで、旦那も私もしばらくぐったりしていた。 旦那はお仕事があるから、可愛そうに、毎朝、7時には起きて、出かけていた。 一緒にバケーションにいった、犬のぷっぷちゃんも疲れていて、朝、旦那が起きても、私たちのベッドの上で、ぐーっと寝たまま。 忠犬とは程遠い。  旦那には、悪かったけど、私は、ぐうたらの極致を窮めることとした。  朝、旦那の朝食を作ったあと、パジャマのままで、コンピューターに向かうか、また、ベッドに戻った。 帰ってきて3日目は、朝、子供たちが「マミー、おきて~」 といっても、「やだよ~」と起きなかった。 二人とも、勝手にコーンフレークを食べて、近所の友達の家に行ってしまったようだ。 気がついたら、朝の11時。 子供はいない。 犬も文句言わずに(トイレをがまんしているのかどうかはわからない)、寝ていた。 なんといい加減な母親であろうか。 子供に何かあったらどうすんの、だよね。 我が家はカル・デ・サック(フランス語らしい:リュックサックが軽いという意味ではない)という、日本語で言えば、袋小路に住んでいる。 つまり、この道の先は行き止まり。 なので、通過する車は訪問者を除いてはほとんどおらず、すべて顔見知りのご近所さん。 ご近所さんたちの家には、子供か、犬か、子供と犬のいるのがほとんど。 なので、週末の午後には、子供たちと犬たちが一斉に外にでて出てくる。 幼稚園か小学校の校庭かというありさま。 スケボーやローラーブレードで飛んだり、野球したり、とね。 なので、子供たちが家から消えても、外に出て呼ぶ

No. 37 我回家了:かえってきたで~

我回家了: (うぉぁ ふい じゃ ら:”我、家に戻る”) うろ覚えの中国語ですが、家に帰る、というのに「回」という漢字をつかうんですね。 了(ら)は完了を表す言葉なんで、一応つけたけど、果たしてこれでいいのか・・・。   閑話休題(=それはさておき)、大変、ご無沙汰しています。 7月23日から、家族でバケーションというか、親戚まわりとキャンプに行ってきました。 行きはダラスから12時間運転して、ニューメキシコ州のサンタ・フェへ。 旦那の両親が住んでいます。 確か二人とも第一次世界大戦前の1914年くらいの生まれなので、もう92歳くらい。 小さなトレーラーハウスに二人で住んでいます。  お父さんは、片目をだいぶ前に失明し、腰痛があり、家の中にいるだけですが、それでも、BBCのWorld News をちゃんと見てるし、Time Magazine を定期購読して、しっかりと時勢を追っている人。 最近はそうでもありませんが、以前は一日本を1冊読んでしまう人でした。 判らないことがあれば、まず、お父さんに聞けば、殆どの答えが返ってきました。 季節によるハリケーンの動き方とか、コンクリートに打つ釘の種類に始まり、世界の宗教、それも回教からアメリカ・インディアンのGreat Spritのことまで、とても詳しく知っていて、本当に博学な人です。  我が家に滞在していたときは、夜は私と二人でスコッチとかテキーラを飲みながら、いろいろな話をしてくれました。 クレーン技師に頼んで、パナマ運河の向こう岸まで、クレーンをかけてもらい、そこへよじ登り、向こう岸に渡った。 向こう岸には、貧民窟(Shanty Town)があったそうです。 でも、そこの人たちと仲良くなり、車をあげた話とか。 ヴェネズエラにいたときは、「うちの娘と結婚してくれ。 そうして、娘をヨーロッパからここに連れてきてくれ。」とユダヤ人に頼まれた話。 また、ドイツ人と仲良くして、FBIに尾行された話などなど・・。 冒険談というか、20世紀の始めの時代の多くの物語。 本になるくらいの、わくわくする話が満載です。 お父さんは、1978年にパナマ運河のDredge船(運河にたまる泥を取り出すための船)のパイロットとしてリタイアするまでは、中南米のいろいろな国に住んでいた人です。 北欧系なので、背は180cm以上あるし、多分金髪だったと思

No. 36 親切・不思議な予感

この月曜日、7月17日(アメリカ時間)、またインドネシア、ジャワ島南部で地震が発生。 津波が来た。 死者行方不明者は今日の18日で800人を超える模様。 ダラスの今日の新聞には、「沖を見ると、黒く高い波が襲ってくるのが見えたので、生後11ヶ月の息子を抱えて逃げた。 振り返ると、我が家に津波が襲い掛かって、めちゃくちゃになった。 そして、私は波にたたきのめされ、子供が腕から抜けてしまった。 息子は波にさらわれた・・・」とIta Anitaという母親の弁。  自分の子供たちが一瞬にして、いなくなったら、私と旦那は生きていかれるだろうか。 可愛いあかちゃんをさっきまであやしていたのに、次の瞬間は、その我が子が波にのまれてしまう、という事実。 老若男女、富めるもの、貧しいもの、なんの分け隔てもなく、一瞬にして、召されてしまう、という "Act of God" 。 日本語では、不可抗力と訳すが、これも主の計画なのか・・・・。 インドネシアにこれから何がおこるというのか。  インドネシアの津波 その一  を書いたのはなんと2ヶ月も前になってしまっていた。 そろそろ、思い指を上げて書き始めなければならぬ。 と、今晩書こうと思っていたんだけど・・夕方、というか夜、ちょっとしたことがあって、もうだめよ。 疲れたので、そのちょっとしたことを書く。 ***************************************************************** MixiというアメリカのMy Spaceのようなコミュニティーサイトが日本にもMy Spaceの一年後発足した。 そこに、私の別のNetサークルで知り合い、香港で会った友達が紹介してくれて、入れてくれた。 このコミュニティー、紹介制です。  何かのきっかけで、私の出身高校ー神奈川県立希望が丘高校(旧制でいえば、神奈川一中、通称、神中、神校)出身の人がいたので、高校の名前を出して、サーチしたら・・・・あったあった! もう、懐かしく、うれしく、トピック読み始め、書き込み始め、よく通った喫茶店の消息のトピックに燃えてしまった。 じゃあ、中学校と小学校(同じ希望が丘)のコミュニティーはあるかな?って検索したら、ありました。 ありました。 校歌も覚えているよ、しっかりと。 母に手をひかれていった小学校の

No. 35 ズブロッカと東中野の長い夜

三十番地教会の牧師先生、おまたせしました。 やっとズブロッカの話です。 20代も終わる頃の、バブル真っ盛りの1988年の年明けに、ものすごい飲み友達-それも私をいれて9人ものメンバー、が出来てしまった。 ホイチョイプロダクションによる「私をスキーにつれていって」に感化されたやつらがスキーツアーを計画した。 どういうわけだか、ほとんどが初対面で斑尾のペンションで出会う、という形で始まった。 そのツアーでも、はじめからぶっ放しのめちゃくちゃな騒動がはじまったが、これを書いてしまうとBlog一つ出来てしまうくらいのことばかりなので、割愛。 山から下りた後、再会を約束した。 そのあと、女性二人が参加し、それで9人になり、「ムカデーズ」というパワー全開のめちゃくちゃ集団が出来上がってしまった。 メンバーは錚々(そうそう)たるもんで、マスコミ、宣伝業界、プー太郎、メーカー社員と、80年代の波にのったやつらばかりであった。 プー太郎でも一目(?)置かれていた。 今で言う、フリーターという言葉の出始めであったが、ニート、という言葉は無かった。 日本が金余りの時代の話さ。 私らムカデーズはみな独身で、仕事柄、結構収入があったと思う。 いつのまにか、毎月1回か2回は集まるようになってしまった。 金曜日、または土曜日の夜集まることがあった。 が、まず、家にまともに帰れたことがなかった。 また、週末に皆で泊りがけで出かけることもあった。  いやー、思い出すなあ、めちゃくちゃな日々。 見舞い先の病室での酒盛り、代沢での花見と喧嘩、人の歌うカラオケに「踊りつけましょうか?」、斑尾ナンパ大会、カラオケ歌っていたら朝だよ葉山の別荘、ホテルパシフィックどんちゃんパーティー・・・・。 でも、それなりのやつらばかりで、知的レベルが高かったから、話題が豊富だった。 めちゃくちゃしたけど、どこかでお互い尊敬しあっていたと思う。  さて、ここでは、数え切れない破天荒な集まりの一つを書こう。 題して、「ズブロッカと東中野の長い夜。」 その日は、金曜日だったと思う。 とある、経済誌系の雑誌会社に勤務のOが地元だというので、東京は新宿の西にある、「東中野」のバーというか、食べ物と飲み物を出すところで集まった 。 (ムカデへの個人通信:あそこ、Oさんがさがしたんだっけ? それとも、Sさんだったけ? あまり覚えていない

No. 34 神様、助けて!

Houstonから戻りました。 按手式はよかったなぁ。 あそこの教会の人はダラスのここの教会よりも、平均年齢が高く、50-80歳代の人が多いようである。 なので・・・・ポットラックの食事が美味しかった。 のり巻きで、卵、花鰹、ほうれん草、にんじん(だったかな?)の入ったものがあって、具も一番だしをとったもので味付けをしっかりしてある。 これは、美味しかった。 いいなぁ、大魔神先生。 出発の前日、私は35度を優に越えるくそ暑いダラスの炎天下で、庭の藤棚(日よけ棚)に防水剤を塗っていた。 結構疲れたが、出かける前にやっておこうと無理をした。 私たちの不在中、旦那が続きの工程をしてくれるから、私の分をなんとしてでも、終わらせておきたかった。  終わったあと、荷造り。 なにせ、子供の分もあるから、時間のかかること、かかること。 夕飯はスーパーからスペアリブを買ってきて、ご飯を炊いて夕飯とした。 結構、おそくなってしまった。 床に就いたのが12時半。  2時半ごろか、突然目が覚めた。 少し気持ち悪かった。 パターンが韓国でなった食中毒のパターンであった。 腸がぐるぐる動くのがわかる。 トイレに行って、用を足した。 なんか変だぞ。 なので、ピンクの胃薬を飲んだ。 う~ん、吐くかもしれん。 でも、そうしたら体力がなくなるから、明日Houstonに行って、賛美が出来ないぞ、どうしよう。 それに、吐くのいやだ。 これは、たぶん、昼間働きすぎたので、脱水症状なんだろうなぁ・・・・。 ということで、苦しいから、神頼みした。 天のお父さん、明日Houstonに行かなきゃならないので、治してください。 吐いたら、がっくりきて、長距離の運転は無理になります。 そしたら、賛美できません。 天のおとうさ~ん! 治してください!! 助けてください!!! と、必死に祈ったのである。 それでも、胃の調子には波のように、上下がある。 もっと祈る。 祈った祈った。 30分?一時間位であろうか、少し肩の力が抜けてきて、「さあ、眠るが良い。」という声が聞こえたような気がした。 そのあと、眠りに落ち、翌日、6時には起きることが出来た。 Houstonまで4時間半の運転をこなし、無事に賛美もできた。 ほっとした。 実は、イエス兄さんを信じる前に、同じようなことがあった。 教会に二回ほど行ったあとの去年(2005年)

No. 33 神の名の元に出来た国

明日、Houstonに発つ。 うちの教会のHouston支部というのか、Houston Missionというのか、とにかく、ICC-Houstonが正式に出来て、一年前に行かれた大魔神牧師先生の按手式があるのだ。 按手式というのは、その教会で正式に牧師として伝道を始めるための式である。 そこで、賛美のため、ピアノを弾く。 へただけど、一生懸命やってみよう。 そのあと、私とじゃみらさん家族は南下して、Freeportという海へバケーションだもんね。 戻りは、7月4日のアメリカの独立記念日。 明日は、朝早いから、早く床に就かなければならない。 今日は手短に。 小泉純一郎首相がアメリカへ最後の訪問となった。 昨日は、仲の良いBush大統領に招待されて、エルビス・プレスリーの住んでいた家、Grace Landという博物館へ行った。 かなり、特別な計らいであった。 アメリカのメディアの間でも、前評判高く、到着の前からニュースになっていた。 小泉の純ちゃん、プレスリーのフアンということで、さぞかし喜んだらしく、さっそく、ぎらぎらのプレスリーのめがねをかけて、プレスリーの歌を次から次へと披露した。 振りも付いていた。 そこんとこが何回もニュースで流れた。 CNNなぞ、かなりの時間を割いて放映していた。 日本はイラク戦争を支援した。 なので、Bush大統領は、純ちゃんのことを、”Buddy(相棒)だよ”と言っていた。 W.Bush政権の前の、Clinton政権、お父さんBushの政権の時は、国内の問題がでると、日本をたたいて(Japan Bashing) 円為替のこと、日本からの輸出のItemのことなど、貿易関係のことで、日本にプレッシャーをかけてきたアメリカである。 息子のW.Bush政権になってからは、狂牛病のことでの米国産牛肉の輸入制限のちょっとしたことがあったくらいで、日米はまあまあな関係を保ってきたと思う。 日本と中国の関係が少し悪化してきていたから、日本としては、やはりアメリカ寄りでないと、だめなんだろうな。 以前、小泉純ちゃんは、社会党元代表の菅氏から、「アメリカがイラクに侵攻した理由の大量破壊兵器がみつかんねーじゃんかよ~、見つからなかったら、どうすんだよ~。」と国会でこづかれていた。 でも、純ちゃん、「兵器は必ず、見つかるであろう。」と言い切っていた。 あれから、

No. 32 気ちがい家族

今日は、旦那が出張先から帰ってきたので、コンピューターの前に座っていないで、早く床に就こうか、と思っていた矢先のこと。 また、親子のばか遊びが始まった。 話は昨晩のことに遡る。 何かを取ろうとして、冷蔵庫のフリーザーをあけたら、なんとそこには、双子が赤ちゃんの時から大事にしている、小さい縫いぐるみ、ブランケット、その他のものが入っていた。 なんで? 子供たちを見て、「なんじゃ!これは!」といったら、二人で「いーっひひひひひひ!!!!」とゲラゲラ高笑を始めた。 冷たくっていいんだよーだって。 いったい何を考えているのか、うちのやつらは! すぐに、旦那に国際電話して笑ってしまった。 お風呂のお湯を貯めるので、蛇口を開けてお湯を流して待っていた。 しばらくして、チェックにいったら・・・! 床がお湯だらけ。 なんと、蛇口の先には、手袋のような、韓国製のあかすりミットがかぶさっていて、横から出たお湯がとびちって、タイルの床の上に広がっていた。 これには、少し怒った。 でも、やつらは一向に堪える気配がない。 今日の午後、旦那が帰宅して、子供たちに冷凍庫にある小さい縫いぐるみを見せてもらっていた。 そしたら、旦那、いいか、これは今は、「冷たい」だが、水をつけると「凍っている」になるんだ、といって、小さい縫いぐるみなどに水をつけ始めた。 よしゃいいのに、なにやってんの、旦那。 さて、就寝時。 明日の用意をしている私の背後から息子と旦那がけたけたいいながら近寄ってきた。 なんと、その「凍った」縫いぐるみを私のパジャマの下から背中にいれたのである! やったなー!! と今度は息子を捕まえて、おしりの後ろにいれてやった。 「ひえーー!!」と息子。 でも、喜んでる。 マゾだこいつ。 それからは、私と息子の応酬戦。 今度は、旦那が「マミーを捕まえているから、背中にいれろ!」と私を捕まえようとする。 「ぎえー!」と私も逃げ回る。 子供部屋から、居間、玄関を逃げ回る。 犬のプップちゃんも追いかけてくる。 プップちゃんはだいぶ前に旦那が私にいたずらをすると襲うように躾けておいた。 「Get Daddy!]と命令すると、「がおー!」っと飛び掛るのである。 また、私に触れている手に噛み付くのである。 本気ではんないが、半分マジで噛む。 「プップちゃん! Get Daddy!]と叫ぶ。 プップちゃんの攻防

No. 31 聖歌・賛美歌・ゴスペルソングMIDI  「いつくしみ深き」

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とあることから、賛美歌の「いつくしみ深き」の歌詞を探すことになった。  ネットサーチしたところ、   というとても良くできたサイトにめぐり合った。 昨日も、アメリカのコンテンポラリーな賛美の曲をサーチして、歌詞やコードを探していたが、オーソドックスな、オルガンのふにゃら~という音を伴奏にして歌う 「賛美歌」はこのところ、ご無沙汰である。  母の葬式の時に、歌ったくらいであった。  このサイトに行ってびっくり。 まず、画像がきれい。 そして、音もMIDIの単調な旋律ではなく、8トラック使って録音したような素晴らしい演奏が聴ける。 歌詞も絵もそこに載るコメントも素晴らしい。 このサイトは、かなりの労力を費やしているどころか、サイトに来た人、一人一人の質問に丁寧に対応している。 大変なことである。 平安朝にいえば、「あなおそろしや」 「妙」である。 おそろしや=すげ~。 妙=お見事。 まろは感銘をうけたぞよ。 ほほほ。 「いつくしみ深き」の歌詞は文語調である。  まろなりに、口語体で訳してみた。  では、歌ってみよう。  仕事中でない人で、または、音楽を聞けるひとは、以下題名ををクリックする。 いつくしみ深き 讃美歌 312番 オリジナル               あかしや版口語訳 いつくしみ深き   友なるイエスは   ごーっつう優しい ダチのイエスは 罪とが憂いを    とり去りたもう    悪徳なやみを 帳消しにした こころの嘆きを   包まず述べて    胸のいたみーを さーらけだして などかは下ろさぬ  負える重荷を   なかなか言えない いーやなことさえ いつくしみ深き   友なるイエスは   ごーっつう優しい ダチのイエスは われらの弱きを   知りて憐れむ   おらのー弱さを  知ーってるんだよね 悩みかなしみに   沈めるときも    涙がちょちょぎーれて 落ち込む時に 祈りにこたえて   慰めたもう      祈るーおいらを  だきしめたのさ いつくしみ深き   友なるイエスは   ごーっつう優しい ダチのイエスは かわらぬ愛もて  導きたもう      絶えーず微笑む 船頭親分   世の友われらを  棄て去るときも   おまえはくずだと ののしられても 祈りにこたえて  労りたまわん     死んでおいらを すーくってくれた おそまつさんでした。

No. 30 父の日 <長文>

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今日は父の日。    今朝は、子供たちが作ったカードと、クリップオン(お札を挟む幅広のクリップ)が付いた、カード入れを子供たちから、旦那に渡してもらった。旦那は出張先でカード入れを紛失したきたので、とふと思いついて、この機会に購入した。   旦那はとても、良い父親である。  一緒に子供たちと遊んでくれるし、毎晩、子供たちの歯ブラシに歯磨き粉をつけて、洗面所においておいてくれる、という人である。  子供たちが悪いことをしたときで、いつもがみがみ言うマミーでは、効き目がない、というときは、旦那に登場してもらう。ちゃんと、理論で説明して躾けるので、感情で叱りがちな母親の躾とのバランスが取れる。 しかったあとは、子供をしっかりと抱きしめて、「愛しているから、怒るんだよ。」と言う人である。    一度、子供たちに 「ダディーとマミー、どっちが偉いの?」と聞かれたので、「そりゃー、ダディーだよ。」と答えると、神妙な顔をして、それ以上聞いてこなかった。  やっぱ、一家の中では、お父さんが大黒柱だな、と私らしくないようだが、そう思う。 また、そう思わせてくれる夫である。 ********** 私の父は2004年8月20日に自宅で一人死んでいるのを警察に発見された。 入院中の母が何度も電話をかけても誰もでないので、近所の人に見に行ってもらった。そしたら、郵便受けに新聞が溜まっていたので、警察を呼んで天窓から入ってもらい、発見となった。  検死の結果、脳内出血が原因であった。検視医が注射針をうなじの方から刺して、注射器のピストン部を引いた所、血がでてきたので、死因がわかったそうだ。 猛暑の中の 寂しい死に方であった。  目撃者は犬一匹。    この犬は、私がアメリカに留学したあとに両親が保健所から引き取ってきた犬。  父はこの犬をとても可愛がっていて、二人でよく晩酌をしていた。犬もビールを飲んだ。私が両親の為に買ってきた高いトロも、私たちが「あー!!」と言っているうちに、その犬にあげてしまっていた。               ********** 父はお酒が入ると、私たちのことをよく怒鳴った。私たちが子供の時は、よく殴られた。人を傷つけることを平気で言った人であった。 母のこともよくいじめた。 一度、私はあまりにも傷ついたので、母に「なんでこんな人間と結婚したんだ!」と、泣きながら、