投稿

12月, 2006の投稿を表示しています

No. 56  いのちある限り

先日、日本から帰った。 鼻かぜを引いたまま。 サイナス・インフェクションといって、眉間の内側、鼻の周りにある空間というのか、日本語でなんというのか、「びくう」というのか? 文字変換がでないので、なさけない。 まあ、とにかく、そこのところが痛い。 感染しているんである。 幸い、今、日本で流行っている「ノロウイルス」ではないので、胃腸は大丈夫。 時差ぼけもすこしとれてきたところ。 ということで、明日の早朝4-5時に出発して、ここから600マイル(960km)の距離にあるSanta Feという町にいく。 ニューメキシコ州にある古い町である。 コロラド州の南に位置する。 古くから住み着いたプエブロインディアンとメキシコ人の文化があり、アメリカで一番古い町である。 クリスマスは、ファロリトといって、Brown Bag(茶色の紙の袋)に砂を入れて、そのなかにろうそくをいれて点火する。 サンタフェやニューメキシコ州独特のAdobe(アドビ)という建物の作り方がある。 (興味のある人は検索してね。) そのアドビの上にずらーっと並べる。 町中がそうだ。 とても美しい。 その美しい町のなかで、トレーラーハウスに住んでいるのが、旦那の両親。 二人とも、92歳。 第一次世界大戦のころ、生まれたということである。 お父さんは、腰が痛く、もうあまり外には出たがらない。 しかし、お母さんは、この間も一人で故郷のパナマに行ってきたほど、元気。 パーティーで一晩中、踊ってしまうひとでもある。 200歳まで生きる、といっても過言ではない。  このお父さんとお母さんには、私は今まで一度も嫌な思いをさせられたことが無い。 むしろ、家族として、しっかりと受け入れてくれている。 そして、私の両親亡き後は、残された唯一の私の親でもある。 だから、子供の学校が休みのときは、出来る限り、会わせてあげたい。 こんな体調の悪い時でも、無理して行こうと思う。 92歳、いつ、何があってもおかしくない。 ご両親の命あるかぎり、心を尽くして、会いに行こう。 一人になったら、面倒を見てあげよう。 あなたの両親を敬え。 それは、あなたが、与えられた地で長く生きるためである。 クリスマスです。 アメリカにいて、日本の親と遠く離れている方、ちょっと電話して、「元気?」の一言でもかけてあげようね。 明朝、かなり早いので、今日は、この辺で

No. 55  主夫(しゅふ)、Mr. Mom

12月10日から19日、日本にいた。 野暮用と実家の母の遺品やら、私の荷物をアメリカに送るという、海外引越し屋まがいの作業であった。 引越しは、7-8回しているので、パッキングはなれたものである。 しかし、日本では、友人にあったり、いろいろな用事も飛び込んでくるから、滞在時間のすべてを荷造りにはかけられなかった。 だから、ものすごいスピードで、それこそ、「鬼」のように、荷造りをしたのであった。 やっぱ、私には頭を使わないこういった肉体作業の方があっているようで。  私の不在中、子供は近くのDay Care Centerで面倒見てもらおうかと思っていた。 そうしたら、旦那が、お金もったいないし、これが始めてじゃないから、俺が面倒みる、とかってでてくれた。 子供の面倒見の良い旦那。 安心して、出発した。 日本では、携帯をもっているので、そこに旦那から毎日電話とメールがくる。 そんなある日、「あの犬、殺す!」とのメールが・・・。 あの犬、とは、今年の初めに事故にあった13歳のぷっぷちゃんではなく、8月に我が家にきた、仔犬のぴっぴちゃんのことである。 そのやんちゃなぴっぴちゃん、池の鯉を取ろうとして池におちた。 そしてずぶぬれのまま、家にはいり、ベッドによこたわたそうだ。 もちろん、ベッドは水浸し。 さらに、石鹸を食べて、一晩中、吐いていたとか。 なんでも食べてしまうんだよね。 あの子。 さらに、子供のおもちゃやら、いろいろかじったらしい。 旦那、「君が帰るころは、もういないかもしれない」だって。 さて、帰国したのが一昨日。 顔つきから、旦那、限界だったみたいよ。 でも、帰った日の夕飯は作ってくれたのである。 それに、「密輸」した「毛蟹」を出してあげて、少しホットしたみたい。 旦那が、子供の弁当箱、洗っといてね、という。 ん???  見ると、ご飯と豚肉の焼いたのが残っていた。  旦那、子供に弁当まで作っていた!  それに、きちんと毎晩、宿題の読書をちゃんと子供たちにやらせていた。 大変だったろうに・・・・。 旦那の仕事は連邦の国家公務員で、かなりの年月努めているので、休暇が貯まっている。 だから、子供の面倒を見ながら仕事もできる。 料理も自分で出来る人である。 だから、結婚したんだが。 過去10年、日本との往来をした私にとって、普通の男性だったら、続いていなかったのではない

No. 54  落ち葉を踏みしめ、ワーズワースの詩をおもふ

前、ブログを書いたあと、なんと胃に来る風邪に子供と一緒にかかり、一週間ほど機能しない状態になっていた。 お腹は痛いし、気持ち悪いし。 子供たちはげろげろでその洗濯やら。 そんな時に、日本の盆暮れ正月のような季節が到来したアメリカ。 11月23日はサンクスギビングって言って、親戚家族一同が集まる日。 陸、空ともに、往来の多い忙しい日。  やっと調子が戻ったが、今度は、日本に野暮用で帰国する。 その準備で忙しいんだが、なんか神さんに「書け」といわれとるようなので、帰国前に、書くことにした。 ******************************************* 毎朝、森の中で祈りの時を持つようになってから、もう一年以上になる。 いつも歩く小道の上は、今は、落ち葉で一杯である。 祈りの場所へは、森の中にはいる小さな道がある。 落ち葉を踏みしめて、祈りの場所にいく。 さくさく、という音があり、雨のあとは、ぐしゅぐしゅと音を立てながら。 母は膠原病を25年以上、わずらっていた。 常用していた多くの薬があったが、そのなかの薬で骨髄をやられ、白血球が激減する症状を死までの2年間繰り返した。 一年の間に、入退院を10回近くくりかえした末、実家から2-3時間かかるところに訳あって連れてこられてしまった。 去年の10月、入院中の母の元に帰った。 自分の家から引き剥がされて、狂ってもいないのに、精神科の病棟にいれられ(そこしか受け入れ先が無かった)、周りはまともな話が出来る人間は看護婦以外にはいなかった。 母は長期入院がたたり、歩けなくなっていた。 自分が好きだった身の回りのものも一切もってこれず、ただ、一人、病室のベッドにいた。 母は、私が死ぬのはここかねぇ、とぽつんと言った。 奇跡的なことが起こり、普通では起こらないことが起こった。 婦長さんが独自の判断で、私は母の病室に泊まって良い、ということになった。 海外から遥々来た人でも、普通はそういう待遇はしない、といわれたが、特別に、と言われた。 荷物を病室に運び、私は病室で母と時間を過ごした。 疲労と戦いながら、夜中に体が痛いという母に起こされ、背中をさすり、寝れない日々であった。 それでも、母に按手し、祈り、聖書を読んであげた。 本当に疲れたある夜のこと。 ある聖書の箇所を読んでいた時、母はイエス兄さんの元に回帰した。