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7月, 2006の投稿を表示しています

No. 36 親切・不思議な予感

この月曜日、7月17日(アメリカ時間)、またインドネシア、ジャワ島南部で地震が発生。 津波が来た。 死者行方不明者は今日の18日で800人を超える模様。 ダラスの今日の新聞には、「沖を見ると、黒く高い波が襲ってくるのが見えたので、生後11ヶ月の息子を抱えて逃げた。 振り返ると、我が家に津波が襲い掛かって、めちゃくちゃになった。 そして、私は波にたたきのめされ、子供が腕から抜けてしまった。 息子は波にさらわれた・・・」とIta Anitaという母親の弁。  自分の子供たちが一瞬にして、いなくなったら、私と旦那は生きていかれるだろうか。 可愛いあかちゃんをさっきまであやしていたのに、次の瞬間は、その我が子が波にのまれてしまう、という事実。 老若男女、富めるもの、貧しいもの、なんの分け隔てもなく、一瞬にして、召されてしまう、という "Act of God" 。 日本語では、不可抗力と訳すが、これも主の計画なのか・・・・。 インドネシアにこれから何がおこるというのか。  インドネシアの津波 その一  を書いたのはなんと2ヶ月も前になってしまっていた。 そろそろ、思い指を上げて書き始めなければならぬ。 と、今晩書こうと思っていたんだけど・・夕方、というか夜、ちょっとしたことがあって、もうだめよ。 疲れたので、そのちょっとしたことを書く。 ***************************************************************** MixiというアメリカのMy Spaceのようなコミュニティーサイトが日本にもMy Spaceの一年後発足した。 そこに、私の別のNetサークルで知り合い、香港で会った友達が紹介してくれて、入れてくれた。 このコミュニティー、紹介制です。  何かのきっかけで、私の出身高校ー神奈川県立希望が丘高校(旧制でいえば、神奈川一中、通称、神中、神校)出身の人がいたので、高校の名前を出して、サーチしたら・・・・あったあった! もう、懐かしく、うれしく、トピック読み始め、書き込み始め、よく通った喫茶店の消息のトピックに燃えてしまった。 じゃあ、中学校と小学校(同じ希望が丘)のコミュニティーはあるかな?って検索したら、ありました。 ありました。 校歌も覚えているよ、しっかりと。 母に手をひかれていった小学校の

No. 35 ズブロッカと東中野の長い夜

三十番地教会の牧師先生、おまたせしました。 やっとズブロッカの話です。 20代も終わる頃の、バブル真っ盛りの1988年の年明けに、ものすごい飲み友達-それも私をいれて9人ものメンバー、が出来てしまった。 ホイチョイプロダクションによる「私をスキーにつれていって」に感化されたやつらがスキーツアーを計画した。 どういうわけだか、ほとんどが初対面で斑尾のペンションで出会う、という形で始まった。 そのツアーでも、はじめからぶっ放しのめちゃくちゃな騒動がはじまったが、これを書いてしまうとBlog一つ出来てしまうくらいのことばかりなので、割愛。 山から下りた後、再会を約束した。 そのあと、女性二人が参加し、それで9人になり、「ムカデーズ」というパワー全開のめちゃくちゃ集団が出来上がってしまった。 メンバーは錚々(そうそう)たるもんで、マスコミ、宣伝業界、プー太郎、メーカー社員と、80年代の波にのったやつらばかりであった。 プー太郎でも一目(?)置かれていた。 今で言う、フリーターという言葉の出始めであったが、ニート、という言葉は無かった。 日本が金余りの時代の話さ。 私らムカデーズはみな独身で、仕事柄、結構収入があったと思う。 いつのまにか、毎月1回か2回は集まるようになってしまった。 金曜日、または土曜日の夜集まることがあった。 が、まず、家にまともに帰れたことがなかった。 また、週末に皆で泊りがけで出かけることもあった。  いやー、思い出すなあ、めちゃくちゃな日々。 見舞い先の病室での酒盛り、代沢での花見と喧嘩、人の歌うカラオケに「踊りつけましょうか?」、斑尾ナンパ大会、カラオケ歌っていたら朝だよ葉山の別荘、ホテルパシフィックどんちゃんパーティー・・・・。 でも、それなりのやつらばかりで、知的レベルが高かったから、話題が豊富だった。 めちゃくちゃしたけど、どこかでお互い尊敬しあっていたと思う。  さて、ここでは、数え切れない破天荒な集まりの一つを書こう。 題して、「ズブロッカと東中野の長い夜。」 その日は、金曜日だったと思う。 とある、経済誌系の雑誌会社に勤務のOが地元だというので、東京は新宿の西にある、「東中野」のバーというか、食べ物と飲み物を出すところで集まった 。 (ムカデへの個人通信:あそこ、Oさんがさがしたんだっけ? それとも、Sさんだったけ? あまり覚えていない

No. 34 神様、助けて!

Houstonから戻りました。 按手式はよかったなぁ。 あそこの教会の人はダラスのここの教会よりも、平均年齢が高く、50-80歳代の人が多いようである。 なので・・・・ポットラックの食事が美味しかった。 のり巻きで、卵、花鰹、ほうれん草、にんじん(だったかな?)の入ったものがあって、具も一番だしをとったもので味付けをしっかりしてある。 これは、美味しかった。 いいなぁ、大魔神先生。 出発の前日、私は35度を優に越えるくそ暑いダラスの炎天下で、庭の藤棚(日よけ棚)に防水剤を塗っていた。 結構疲れたが、出かける前にやっておこうと無理をした。 私たちの不在中、旦那が続きの工程をしてくれるから、私の分をなんとしてでも、終わらせておきたかった。  終わったあと、荷造り。 なにせ、子供の分もあるから、時間のかかること、かかること。 夕飯はスーパーからスペアリブを買ってきて、ご飯を炊いて夕飯とした。 結構、おそくなってしまった。 床に就いたのが12時半。  2時半ごろか、突然目が覚めた。 少し気持ち悪かった。 パターンが韓国でなった食中毒のパターンであった。 腸がぐるぐる動くのがわかる。 トイレに行って、用を足した。 なんか変だぞ。 なので、ピンクの胃薬を飲んだ。 う~ん、吐くかもしれん。 でも、そうしたら体力がなくなるから、明日Houstonに行って、賛美が出来ないぞ、どうしよう。 それに、吐くのいやだ。 これは、たぶん、昼間働きすぎたので、脱水症状なんだろうなぁ・・・・。 ということで、苦しいから、神頼みした。 天のお父さん、明日Houstonに行かなきゃならないので、治してください。 吐いたら、がっくりきて、長距離の運転は無理になります。 そしたら、賛美できません。 天のおとうさ~ん! 治してください!! 助けてください!!! と、必死に祈ったのである。 それでも、胃の調子には波のように、上下がある。 もっと祈る。 祈った祈った。 30分?一時間位であろうか、少し肩の力が抜けてきて、「さあ、眠るが良い。」という声が聞こえたような気がした。 そのあと、眠りに落ち、翌日、6時には起きることが出来た。 Houstonまで4時間半の運転をこなし、無事に賛美もできた。 ほっとした。 実は、イエス兄さんを信じる前に、同じようなことがあった。 教会に二回ほど行ったあとの去年(2005年)

No. 33 神の名の元に出来た国

明日、Houstonに発つ。 うちの教会のHouston支部というのか、Houston Missionというのか、とにかく、ICC-Houstonが正式に出来て、一年前に行かれた大魔神牧師先生の按手式があるのだ。 按手式というのは、その教会で正式に牧師として伝道を始めるための式である。 そこで、賛美のため、ピアノを弾く。 へただけど、一生懸命やってみよう。 そのあと、私とじゃみらさん家族は南下して、Freeportという海へバケーションだもんね。 戻りは、7月4日のアメリカの独立記念日。 明日は、朝早いから、早く床に就かなければならない。 今日は手短に。 小泉純一郎首相がアメリカへ最後の訪問となった。 昨日は、仲の良いBush大統領に招待されて、エルビス・プレスリーの住んでいた家、Grace Landという博物館へ行った。 かなり、特別な計らいであった。 アメリカのメディアの間でも、前評判高く、到着の前からニュースになっていた。 小泉の純ちゃん、プレスリーのフアンということで、さぞかし喜んだらしく、さっそく、ぎらぎらのプレスリーのめがねをかけて、プレスリーの歌を次から次へと披露した。 振りも付いていた。 そこんとこが何回もニュースで流れた。 CNNなぞ、かなりの時間を割いて放映していた。 日本はイラク戦争を支援した。 なので、Bush大統領は、純ちゃんのことを、”Buddy(相棒)だよ”と言っていた。 W.Bush政権の前の、Clinton政権、お父さんBushの政権の時は、国内の問題がでると、日本をたたいて(Japan Bashing) 円為替のこと、日本からの輸出のItemのことなど、貿易関係のことで、日本にプレッシャーをかけてきたアメリカである。 息子のW.Bush政権になってからは、狂牛病のことでの米国産牛肉の輸入制限のちょっとしたことがあったくらいで、日米はまあまあな関係を保ってきたと思う。 日本と中国の関係が少し悪化してきていたから、日本としては、やはりアメリカ寄りでないと、だめなんだろうな。 以前、小泉純ちゃんは、社会党元代表の菅氏から、「アメリカがイラクに侵攻した理由の大量破壊兵器がみつかんねーじゃんかよ~、見つからなかったら、どうすんだよ~。」と国会でこづかれていた。 でも、純ちゃん、「兵器は必ず、見つかるであろう。」と言い切っていた。 あれから、