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10月, 2007の投稿を表示しています

No. 85 It Is Well With My Soul  やすけさは川のごとく  (その1)

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今日は、日曜日。  ウチの教会で数人が洗礼を受ける。 そのうちのひとりは、この夏まで私が、へたくそピアノ伴奏をさせてもらった、聖書の学びの家庭集会からの人である。  彼女だけではない。 旦那さんも一緒。 こりゃー、めでたい、っちゅーことで、歌を歌うことにした。   聖書の学びの家庭集会の仲間3人とで、歌うのである。 3人で歌うのがこれで二回目。  以前、グループ名どうする?なんて冗談に話していた。 「キャンディーズ」はどう?という提案をした者がいた。   私はこけた。どう考えたって、キャンディでも、賞味期限が過ぎたキャンディーである。   なので、私は、「『おば三』なんてどお?」と代替案をだした。当然のごとく、大反対の憂き目にあった。   もう一人が、「『カルバリーズ』は?どお?」  私ー「やだよー! それって、『どくろズ』って意味になっちゃうじゃんよ!」  といういうことで、まったくグループ名も決まらないまま、夏が終わった。   このところ、涼しくなったダラスである。冷房も要らない。おまけに、最近、新しい教会に移り、そこには、洗礼の槽がある。  なんと、お湯がはれるので、冬でも洗礼できるのである。私なんぞ、馬牛の飼葉おけだったんだぞ。それも、午前中にお水をはって、外に置いて、天日によって暖めた超自然的な洗礼槽だったんだぞ。 (詳しくは、Blogの多分2005年当たりにある『使用前 使用後』に書いたと思う。) *************** 今回歌う曲は、ちょっと前のBlog『You Raise Me Up』に貼ったビデオの最初の曲  『It is Well With My Soul』(邦題:やすけさは川の如し:賛美歌476)  この曲の練習の歌詞カードを作成するにあたり、この曲の背景をちょっと調べた。 作詞は、Horatio Spafford (ホーレイショー・スパッフォード) (1828 – 1888)  作曲は、 Philip Bliss (フィリップ・ブリス) (1838-1876)    曲としては、賛美歌のスタンダードであるが、何故、この曲が、100年以上も間、人の心をひきつけて止まないのはなぜであろうか。  時として、素晴らしい作品、とくに詩や音楽は、個人的な困難があったときに書かれている。  例えば、Eric Klaptonの「Teas i

No. 85 It Is Well With My Soul  やすけさは川のごとく (その2)

以下は、It is Well With My Soulの詩と訳です。 全部の詩をやくしきれていません。黄色文字の詩の部分だけの訳を下部に書きます。 もう、教会に行く時間なので、今日のところは、こんへんで! It is Well With My Soul When peace, like a river, attendeth my way, When sorrows like sea billows roll; Whatever my lot, Thou hast taught me to say, It is well, it is well with my soul. (Refrain:) It is well (it is well), with my soul (with my soul), It is well, it is well with my soul. Though Satan should buffet, though trials should come, Let this blest assurance control, That Christ hath regarded my helpless estate, And hath shed His own blood for my soul. (Refrain) My sin, oh the bliss of this glorious thought! My sin, not in part but the whole, Is nailed to His cross, and I bear it no more, Praise the Lord, praise the Lord, O my soul! (Refrain) For me, be it Christ, be it Christ hence to live: If Jordan above me shall roll, No pang shall be mine, for in death as in life Thou wilt whisper Thy peace to my soul. (Refrain) And Lord haste the day, when my faith shall be sight, The clo

No. 84 普通であることの有難さ

本当なら、勉強せにゃならん、この日曜日。 水曜日が試験だよー。 でも、5分だけ時間をもらって、書こう。 労働市場に戻るための一環として、公立学校の代理教員になった。 一応、アメリカの大学を出ているんで、こんなとき、首がつながるのである。 無駄ではなかったんだ、あの苦労。 さて、先週、代理教員として行ったところは、子供の通う小学校の特別教室。 子供の送り迎えが楽という理由と、こういった特別教室へは、なかなか代理教員が行きたがらないので、ならばその欠員を手伝ったほうがいい、ということで。 仕事の内容に、子供を持ち上げたり、おしめを代えるのも仕事に含まれる、と書いてあるから、ますます来る人はいないだろうな、と思った。  中学の数学の代理の仕事も同じ日に掲示されていたのだが、特別教室を選んだ。 朝一番の7時45分に教室に入った。 すでに生徒達は教室にいた。 立ち上がれず、マットの上に転がるだけの子供。 目が見えない子。 咀嚼ができず、チューブでおなかから栄養を取る子。 叫び通しの子。 つばも飲み込めない子供。 飲み込んだら最後、気管にはいってしまい、大騒ぎになる子。 7-8人いた。 でも、何故か、怖くなかった。 母の最期が精神病院だったし、そこで、一週間寝泊りして、精神障害の人たちと一緒に生活したからか? この子達は、もしかしたら、母だったかもしれない。 将来の自分かもしれない、と思って接した。 重度の障害を持つ子供達でも、笑顔が美しく、とても美しいものに触れた気がした。 話は突然変わるが、私の母方の叔父は素晴らしい人だった。 東京都千代田区の厚生部長を務めたかたで、人望が厚い人だった。 厚生部なので、福祉や心身障害者の施設の仕事も手がけた。 自慢じゃぁないが、シルバー人材派遣のさきがけを担った人でもあった。 その叔父が生前、私に言った言葉があった。 「いいか、○○ちゃん。 こういう人たちがいてくれるからこそ、お前達が普通の状態でいられるんだぞ!」 今、そいういった人たちと実際に触れてみて、本当にそうだなぁ、と思う。 13歳になろうとする体の大きい子を持ち上げて車椅子に乗せたり、大きなオムツを交換した。 目も見えず、自分で食事が出来ない子にごはんを食べさせてあげた。 よだれをたらしっぱなしの子の口を何度もタオルでぬぐった。 べとべとの手で、私に触ってくれたけど、何故か、きた

No. 83 キャリアウーマンが聞いた「声」 その2

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<その1よりつづく:その1は、スクロールダウンするとあります。> その1年半後、私は、待遇と給料のよかった仕事を未練もなく、すっぱりとやめた。 そして、ニューヨークのマンハッタンにあるニューヨーク市立大学のBaruch Collegeに留学した。 1992年の8月なので、もう15年前のことである。  当時は、バブルがはじけたばかりであったが、まだ一般人には、その影響が体感されていなかった時であった。 なので、留学が決定したことを、マスコミ関係の飲み仲間に話したところ、その中の一人が、「今、アメリカに行くのは、トレンディーじゃあないんだよね。」とビールのグラスを傾けながら、ぽつり、と言った。 確かに、年収がとてもよかったし、会社も有名でネームバリューがあったから、その仕事を捨ててまで、学ぶものがもう無いアメリカに行くのは、賢い選択ではない、と思う人も多かったのだろう。 しかし、私は前進することで精一杯で、惜しいものを捨ててしまった、という考えがまったく浮かばなかった。 私が日本をでて、まもなく、日本は「失われた10年間」に突入し、リストラ、という言葉が誰の耳にも馴染み深くなってしまった。 一方、アメリカは、低迷から脱出し、首切りになった人たちがSmall Businessブームを引き起こし、さらに、テクノロジーバブルとなり、1996年ごろには、Nasdaqが5000を突破した。 私は、ニューヨークでは、激貧生活を一年ちょっと経験したものの、これまた不思議なことで、仕事がみつかり、口糊をしのぐことが出来た。 さらに、今の夫ともドイツで巡り会えた。 そして、フロリダにうつり、学生主婦となり、その後は、「ゴルフのプータローおばさん」となり、そして、「双子の母親」となった。 「キャリアウーマン」の私は、いなくなってしまった。 その後、シンガポールに移り、ダラスに来た。 ダラスは本来なら、来るはずではないところであった。 これも、本当に不思議なことが起こって、ダラスに引っ越すことになった。 ダラスにくる直前に父が突然亡くなり、それから母と私の苦難が始まった。 そのときに、私は、イエス兄さんと神さんに、ぐいっと引き寄せられたのである。 母がアメリカの私の元に来ようかしら、といった一言で、私は気がついたら、ここの日本人教会の一つに車を走らせていた。 母は、クリスチャンであったので、

No. 83 キャリアウーマンが聞いた「声」 その1

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またまた、ご無沙汰でござんす。 なんと、一ヶ月近くもBlogを更新しなかった。 また、やった。 多忙であったのだ。 8月下旬から、とある講座を週3日取り始めた。 予習をしっかりしていかないと、ついていかれない。 10月の中旬が最終試験なので、それまでは、この忙しいスケジュールは続く。 2-3年後を目標に、また労働市場に舞い戻ろうと考えている。 旦那の退職が控えているためである。 退職すれば、私の旦那は、いまどきアメリカでは、大変貴重な「年金」がもらえる。 その点では、我が家は大変恵まれている。 しかし、年金は、今の収入の80%なので、今より20%収入が減ることになる。 7歳の双子を抱えて、まだ、住宅ローンがのこっている我が家では、20%以上を補填(ほてん)する手立てを考えねばならない。  一般に、私の世代は、管理職になって、収入もまだ上がる、というのが一般的である。 しかし、私の夫は18歳年上なので、ライフサイクルが平均の家庭と違う。 おまけに、子供が小さい。 本来なら、夫にとっては、7歳は孫の年齢といっても、過言ではない。 そういう点で、一般の人たちの生活設計とはちょっと違った対応をしなければならない。 これは、別に大変だ、ということでもない。  働くのなら、朝のラッシュの中、ダラスに通って、大手会計事務所とか、マーケティング会社あたりで、フルタイムで働いて、まあまあの収入を得ることは、可能である。 しかし、私はそれを敢えてしたくない。  朝、30-40分かけての通勤はたとえ車であっても、私には、「痛勤」である。 また、交通事故の確率も上がってしまう。 子供を育てるには、まず第一に、母親の心身の安全と健康が先に来る、と信じている私なので、通勤の長さは、大きな要素なのである。 さらに、小学校が終わったあとは、子供をディ・ケアーに預けねばならない。 子供のおやつと、宿題は親がしっかりとみるものだ、と思っているので、ディ・ケアーには、あまり預けたくない。 また、ディ・ケアーは安くはないのである。  収入のかなりの部分が、ディー・ケアーにかかってしまうことは事実で、かなりの収入が無い限りは、何のために子供をディ・ケアーに預けているのか、わからなくなってしまう。  しかし、こういった選択ができること事態、恵まれてはいるんだろう。 シングルマザーの人たちは、選択の余地ないもん