No. 50 断食

またまた、ご無沙汰してしまいました。

子供たちは小学校一年生となり、幼稚園とは違い、「成績」がついてくるようになったので、宿題を見てあげたり、学校で行った学習の復習をする時間が増えてきた。 そのうえ、日本語学校の宿題も毎日、すこしずつするので、子供の帰宅後から夕飯、そして寝かしつけるまでの9時までは、まったく自分の時間がない、という日々。 これは、どのお母さんもおんなじか。

さらに、私には、ピアノの練習もある。 毎週金曜日の聖書研究会でピアノの伴奏しちゃってるので。 あとは、ジャズピアノの理論と練習。(私にとっては、不得意だった化学の授業のように思える。) ピアノのことはなかなかかけずにいるなぁ。 これもおもろい話だから、書かなきゃね。

自由時間が無いのに、2週間前から、あることを始めてしまった。 なので、なかなかBlogを更新できずにいる。 


母の死から、はや10ヶ月が経った。 その間、私の感情と体力に上下が激しくあった。 そりゃー、去年まで、実家に何かあれば、30時間かけて帰国していた、という生活を10年していたし、父と母の最期にまつわるいろいろなこと -本当にいろいろなこと-があった。 そのいろいろなことの中には、まだ実質的に決着がついていないこともある。 感情の中でも決着がついていないことがある。

解決の為、祈ってきた・・・かな? 多少は祈ったが、ある問題からは、「逃げていた」んだと思う。 それは、その問題を性急に解決しようとすると、自分の心に秘めた汚い部分、ずるい部分を直視しなければならない、と私は無意識のうちにわかっていたんだろう。  だから、人を雇って、問題解決をしようと試みた。 しかし、それは成就しなかった。 

神さんがそれはあかん、といっていたんだろうな。 いや、そう私もうすうす感じていたけど、私は「人間らしく」否定していた。

かなりの時間がたってから、やっぱり自分が手を下さなければいけないのだな、という思いがすこーしずつ、湧き上がってきた。 

でも、どうしていいかわからないので、私は一週間断食して祈った。 過去一年の間に3-4回断食したけど、今回は旦那が出張中ではないので、夕飯だけ食べる、という変則的断食。 実は、断食をするのなら、一日中、何も食べないほうが実は楽。 夕飯だけを食べると、そのあとがどーんと疲れるので、実は、こういった断食の方がきつい。 でも、実行した。


旧約聖書の中には断食のことが書かれている。 たとえば、旧約聖書のエステル記では、ペルシャのおきさきの一人となったユダヤ人のエステルが、同胞民族を皆殺しにする、という陰謀を知り、王に懇願するように叔父(兄だっけ??)に頼まれる。 しかし、王に会えるのは、呼び出しがあったときだけ。 自ら会いにいくのは、おきてやぶりで、死がまっているかもしれない。 でも、同胞を助けるため、彼女は王に会おうと決める。 そのとき、エステルは断食して、神様にお願いした。

その後の物語は、エステル記を読んでね。 短いところだし、聖書聖書していないから、読みやすいよ。

ちなみに、このエステル記、また映画化されます。 もうすぐ公開。 題名は、うろおぼえだけど、"A Night with the King"だったかな? これもそのうち、ここで紹介するね。


私の身近なところでは、イスラム教のラマダンがある。 イスラム教もコーラン以外に旧約聖書を使う。  だからかなぁ、断食があるの。  シンガポールは6-10%くらいがマレー系で、ラマダンのときは断食する。 私たちは、シンガポールに住んでいたから、うちのコンドの警備員でイスラム教のミスター・マス-ドがげっそりと元気ないのを毎年見てきた。 でも、断食といっても、日が昇っているときは食べないということ。 だから、朝食は朝の3-4時に起きて用意して食べるんだって。 一応たべているから、ぐったりしているのは、お腹がすいているんじゃなくって、睡眠不足が原因かもね。

さて、イエス兄さんは30歳になったときであろうか、山に40日40夜断食して、悪魔に試みられた。 モーゼも山に40日40夜のまずくわずこもっていたっけ。 

しかし、新約聖書には、あまり断食のことはかかれていない。 私のおぼえている限りでは、悪霊と対峙するには、断食をもってしなければならない、と書かれているところがあるなぁ、くらいか。 聖書のバージョンによって違うけどね。



さて、うんちくはこれくらいにして、と。

今回の断食の3日目、今私が抱えている問題の根源の一部であるもの、それは、私の心の奥に蓋を閉めて封印していたものである、と自分で認めた。 それは、汚く、おどろおどろしていて、いわゆる、「臭いものには蓋をせよ」のごとく、ずーっと奥に隠れていた。 そう、マリアナ海溝に埋めてしまうような汚い放射線汚染物質のようなもんだ。

そして、その蓋をあけて、手でほじくり、さぐり、そのくっさーい臭いをかぐ、ということをした。 

これは、痛い。 麻酔なしで手術をするようなもんだ。 それが嫌だから、いままで避けてきたんだよね。  それもながーい間。 醜い自分と対峙する、ということは、こりゃぁ、きついわ。

でも、私はさらけだしたよ。 そして、こんな醜い私です。 だから助けてください! と祈った。 何度も何度も、「私を助けてください!」と。 涙、ちょちょぎれたよ。


そして、変なことがおこった。 断食終了の前夜であった。 状況はまったくかわりゃしないのに、「喜び」がこころの中に入ってきた。 つまり、うれしーなぁー、という高揚した? 興奮した? 理性、感情をこえた何かがこころにあふれたんだよね。 いったいなんだろうか?  わたしゃぁ、ようわからん。 床に入るとき、笑いがこみ上げてきそうになたった。 夜中に横で、「ぐふふふふ・・・」なんて妻が笑い始めたら、旦那、気持ち悪がるから、押さえて何とか寝たけど。

ほんまに不思議であった。


断食終了して、時間がたつと共に、「愛」という概念が右の方からきて、それが少しずつ、少しずつ私のなかに広がっていった。 そして、今まで抵抗して、隠れて、逃げていた自分ではなく、その問題に正面から対峙しようと決めた自分がいた。 そして、今まで、「愛せるかよ!」と思っていた人間に対して、「愛の行い」をしようと動き始めている自分もいた。


隣人を愛せよ、とは有名な神さんの言葉。
でも、これって、不可能よ。 人間にできっこないよ。 自分を傷つけた人を愛せ? 自分が大切にしていた人を傷つけた人間を愛せ?  許せ? もう片方の頬をさしだせ? 

なーにいってんだよ。 できっこないじゃんか!!!

これがさ、教会によっては、「私たちはクリスチャンですから、人を許すべきです。」「私たちはクリスチャンですから、私を傷つけた人を愛するべきです。」っていうんだろうなぁ。 また、自分自身にそう難問をつきつけているクリスチャンだって沢山いる。 中には、外見だけ、許す、愛する、と芝居している人たちも多いだろう。 

「~すべき」という気持ちで行動している人たち、多いんじゃない? たとえばさ、クリスチャンだから、「奉仕すべき」、「禁酒すべき」「ボランティア活動すべき」「困っている人をたすけるべき」 ねえ、そこのあなた、どうっすか?

「すべき」と自分の本当の心とのギャップに苦しむクリスチャン、沢山いるんだと思う。 でも、それを教会で、牧師・神父の前で言えない人も多いだろう。 


私たちって、不完全な人間。 「すべきこと」は人間の理性では、出来ない、と諦めたほうがいいんじゃないか。 そのかわり、「できるようにしてくれる」のがイエス兄さんであり、神さんじゃないの?  

「わたしゃ、どうしようもない小さい人間です。 あなたが言われるように、愛すること、許すこと、あきまへんわ。 私一人ではできまへん。 だから、神さん! たすけておくれやす!! あんただけや!!」と頼るしかないんだと思う。

がががーん、という180度のドラマ的展開というより、季節があれ?変わっている、というように、流れに逆わらない自然な変わり方で、あなたを変えてくれるのがイエス兄さん、神さん、聖なるバディーじゃないかなぁ、と思うんだよね、今日この頃。  

時間がかかることがあるのも残念だけど。  でも、振り返ると、待たされた時間にも意味があるときがあるじゃないかなぁ。

なんてさ、偉そうにいっちゃっているけどさ。 秋の夜長だからかな。

私の方は、実質的には、なんの進展もないんだけど、こころは明るいんだよ。 なんでかな。


ということで、今、その「愛の行い」の為に時間をさいているので、忙しいのである。 ちょっと、そこのあんた、「愛の行い」と読んで、あっちの方、想像しないでよね。 まったくもう。


あかしや番頭

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