No. 58 怠慢への大反省

あれまー、この前の投稿が1月3日ということは、今日がもう1月20日だから、2週間以上、ほっておいた。 また、やったわ。

この週、ダラスには寒波が来て、雪も降った。 娘も熱を出して学校を休んだ。 まあ、今週はそういう理由で忙しかったから、ここにこれなかったけど、先々週、私は何をしていたんだろう? 

うーん、思い出せない。 健康診断のフォローアップにいったくらいかなぁ。


同じく、私は、去年一年、何をしていたのか、あまり思い出せない。 母が亡くなってからの一年であったから、喪中ではあった。 そして、その夏はくそ暑かった。 秋から冬にかけて、悶々としていた時もあり、断食して祈った。 そして、12月に日本に帰った・・・、位しか思い出せない。

ただ、すべきことをあまりしなかった一年であった。

引越し荷物の片付け。 
教会の会計のシステム構築。
家計の経費の削減(ケーブルキャンセル・インターネット電話に切り替え) 
本の翻訳。 
発声練習。 
ジャズピアノの練習。


やらなければいけない、やらなければいけない、と思う一方、体と心がついてこなかったと思う。 
また、「~せねばならぬ」と考えるから、自分自身にプレッシャーをかけるんだけど、実際、なにもしなかったから、良心の呵責(かしゃく)も芽生える。 特に、教会への奉仕で、自分で言っておきながら、何もしていなかったことが心の中で重くなっていた。 だから、自分の心のなかで、ひとりずもうして汗かいているようなもんだった。

体も多少は年をとっているけど、何もしなかったのは、むしろ、心が疲れていたからだろう。 あることにとらわれていて、何も手につかなかったという一年でもあったんだろう。 また、親の死のあとの「ずーーん」と来るものは、以外にも大きかったんだろう。

なにか達成したかなぁ、と考えたら、ピアノを買ったんだ。 このことのBlogもかきそびれている状態だけど。 それで、毎日ピアノを練習しているから、多少は上達したと思う。 歌の練習も始めたけど、もう少し家で腹筋つけたり、トレーニングをしないとだめだから、これは、「達成」のうちには入らない。

ということで、去年は、あまり達成感が得られなかった、悶々とした、ぐうたらな、怠慢な一年であった。 でも、喪中ってこういうもんなんだなぁ、と自分で勝手に理由をこじつけて、自分を勝手にゆるしていた。

 

私の日本の友人の一人に、私が日本を出てから、ある難病にかかっていることがわかった人がいる。 その人の心のなかにも、少し満たされない部分もあるようだ。 遠くにいて、気にしていたので、たまにメールを送ったりして、近況を確かめていた。 

一昨年の母の葬儀のあと、その人と会った。 何か話したいことがあるんじゃなかろうかと。 

年を重ねるごとに、回答がすぐ得られない事態ということが増えてくる。 自分の力だけでは、どうしようも出来ないことがある、ということを嫌でも自覚しなければいけない事態が自分と自分の置かれた環境に増えてくる。

だから、若いときのように、無理やり回答にこじつける、ということは出来ない、という諦観(ていかん:あきらめ)の境地に立ち、ただ、「話をじっくり聞く」。 時には、宙をみたり、時にはため息をつきながら。 私ごときに何ができるだろうか。 ただ、話を聞き、心に留めておくことだろうか。




去年の12月、といっても、先月であるが、うだうだ一年のしめくくりに、野暮用を片付けに日本に戻った。 

その人と会おう、と連絡をとり、都内で焼き鳥をつつきながら、杯を重ねた。 「そうかぁー。」「そうだよね。」と会話を重ねた。 今、病状は安定している。 ただ、将来、未来、○年後という言葉に対して、健康な人たちとは違う心の反応があるという。 そうだよね。 また、本人のいる環境と心のおき方も、一年前と同じく、少し苦しい状態のままであるという。 


再開を約束して別れ、私はダラスに戻った。 


クリスマス前の忙しい時でも、その人の事を考えた。 そして、「一年以上も前に、心の痛みを聞いておきながら、私はこの一年、彼女の為に何もしなかった。」と脳天を打たれたように思い入ってしまった。

これは、去年の一年の私の怠慢のなかで、怠慢を極める極めることである。 教会の奉仕などより(パタリロ先生ごめん)、その人のことを一年、ほったらかしにしていた事は本当に自分を責めてしかるべきだと思った。 

いったい、私は何をしていたんだぁ???



何も出来ないけど、心配する、思いをかける、というのは、まったくの自己満足でしかないではないか。 


大反省である。 



去年一年、ひとつだけ続いたことがあった。


毎朝の森の中での祈りである。 


今年から、毎朝、その人の為に祈っている。 もっともっと祈ろう。


何故ならば、祈りは必ず聞かれるからである。 

そして、新約聖書をみよ。 イエス兄さんはあれほどの多くの病人を癒してきた。

聖書にあることは、真理だ。

だから、その人にために祈りつづけよう。 


あましや番頭

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