No. 83 キャリアウーマンが聞いた「声」 その1

またまた、ご無沙汰でござんす。

なんと、一ヶ月近くもBlogを更新しなかった。 また、やった。


多忙であったのだ。


8月下旬から、とある講座を週3日取り始めた。 予習をしっかりしていかないと、ついていかれない。 10月の中旬が最終試験なので、それまでは、この忙しいスケジュールは続く。


2-3年後を目標に、また労働市場に舞い戻ろうと考えている。 旦那の退職が控えているためである。 退職すれば、私の旦那は、いまどきアメリカでは、大変貴重な「年金」がもらえる。 その点では、我が家は大変恵まれている。 しかし、年金は、今の収入の80%なので、今より20%収入が減ることになる。 7歳の双子を抱えて、まだ、住宅ローンがのこっている我が家では、20%以上を補填(ほてん)する手立てを考えねばならない。 

一般に、私の世代は、管理職になって、収入もまだ上がる、というのが一般的である。 しかし、私の夫は18歳年上なので、ライフサイクルが平均の家庭と違う。 おまけに、子供が小さい。 本来なら、夫にとっては、7歳は孫の年齢といっても、過言ではない。 そういう点で、一般の人たちの生活設計とはちょっと違った対応をしなければならない。 これは、別に大変だ、ということでもない。 

働くのなら、朝のラッシュの中、ダラスに通って、大手会計事務所とか、マーケティング会社あたりで、フルタイムで働いて、まあまあの収入を得ることは、可能である。 しかし、私はそれを敢えてしたくない。 

朝、30-40分かけての通勤はたとえ車であっても、私には、「痛勤」である。 また、交通事故の確率も上がってしまう。 子供を育てるには、まず第一に、母親の心身の安全と健康が先に来る、と信じている私なので、通勤の長さは、大きな要素なのである。

さらに、小学校が終わったあとは、子供をディ・ケアーに預けねばならない。 子供のおやつと、宿題は親がしっかりとみるものだ、と思っているので、ディ・ケアーには、あまり預けたくない。 また、ディ・ケアーは安くはないのである。  収入のかなりの部分が、ディー・ケアーにかかってしまうことは事実で、かなりの収入が無い限りは、何のために子供をディ・ケアーに預けているのか、わからなくなってしまう。 

しかし、こういった選択ができること事態、恵まれてはいるんだろう。 シングルマザーの人たちは、選択の余地ないもんね。 


以上、考えた上で、子供のスケジュールとなんとか折り合いがつきそうな仕事につけたら、と準備を始めたのである。 まだ、ほんの「はじめの一歩」ではあるが。

昔の私と較べれば、こういう仕事の選択の仕方は、論外である。 なぜなら、日本にいたときは、私はいわゆる、ばりばりの「キャリア・ウーマン」であったから。 私が結婚した、というニュースを聞いただけで、のけぞった人もいる。 また、「今は、主婦をしている。」というと、絶句する昔の友人は少なくない。

私が日本で働き始めたのは、1981年である。 プラザ合意の前。 男女雇用均等法が出来る前。 でも、運良く、東京に本社のある大会社に拾ってもらった。 そればかりではない。 仕事も、技術翻訳から入ったが、そのあとは、海外生産プロジェクト、商品企画、海外マーケティング、海外広告と職歴を重ねた。 上司にも恵まれ続け、女性としては、当時あまりなかった海外出張にも、行かせてもらった。 当時としては、「花形」の仕事を頂いたのだと思う。 銀行ほどではないけど、お給料も独身女性としては、かなりよかった。 残業も100時間くらいはしていたため、残業手当があった。 

1980年代の後半は1985年(だったっけ?)のプラザ合意の結果から、日本は金余り現象が起きて、バブル経済につながった。 アメリカ、ニューヨークのロックフェラーセンターを日本企業が買収し、ソニーも、コロンビアピクチャーズを買収した。 日本人の多くが、「もう、アメリカに学ぶことは無い。」と吹聴した時代であった。 そのバブルの時を私は20歳代を過ごし、仕事も波に乗った。 しかし、私は、世相があまりにも、「加速度」がつきすぎていて、何かへんだなぁ、と直感し、バブルの「投機トレンド」には敢えて乗ろうとはしなかった。 むしろ、80年代の後半から、留学を考え始めていた。 20代後半だったので、自分の人生の転機を考えていた。

別に、日本の大学に戻ることでもよかったのであるが、にっくき「共通一時」というものがあったし、受験勉強をしたくなかった。 実用的な勉強ではないから。 なので、入るのが簡単(だが、卒業が難しい)アメリカの大学の方が、入りやすい、という理由もあった。 

なにせ、仕事が「企画」ということをしていたから、留学までの計画は綿密に立てて、実行に移した。 しかし、友人、家族には、このことを語らなかった。 ただ、一人でこつこつと調査、準備したのであった。 本気で何かをしようとするときは、私は人には口外しないことにしている。 結果が出れば、それは、周知のものとなるから、それまでは、自分だけで、進めるのがやりやすい。

それでも、迷いはある。 自分の実力の無さにも、がっかりする。 本当にこれでいいのか、と途方にくれたこともあった。

以前のBlog「恩人の言葉」にも書いたが、そんな時、背中を押して、「行きなさい。」と助言をくれた人もいた。 そして、もう一人、「行け!」といってくれた方がいた。


留学を考え始めたときのこと。 私がアメリカに初めて行ったときに世話になった人の訃報を耳にした。 その彼の遺灰がロス・アンゼルスの南西、Long Beach方面のPalos Verdesのそばの海岸に撒かれていた。 そのそばには、過去に何回か訪れたことのある、ガラスでできた教会がある。


彼の死後の一年後に、その場所を訪ねた。 海に献花したあと、そのガラスの教会に車を走らせた。 

森のなかにあり、平日の昼間であったので、教会のお御堂の中には、誰もおらず、とても静粛であった。 ガラスばりであり、森の木々のあいだから光がもれていた。 そして、湿った森の木々がかもし出す香りが教会に満ちていた。

20代の後半かまだ30歳になったばかりのわたしにとっては、「死」というものは、あまりなじみの深いものではなかった。 また、亡くなった原因が、なんとインフルエンザであったことと、彼の子供が生まれたばかりであった、ということも含めて、かなりショックであった。 

その気持ちをなんとかしたい、と足が自然に教会に向かったのだと思う。 当時の私はバブルの寵児であったし、現世的で、やりたい放題の人間であったから、当然、イエス兄さんのことも、神さんのことも、なんとも思っていなかった。 でも、そんな私でも、「死」の現実に直面したので、求めるものがあったのだろう。 今、思う。 彼がいなかったら、私は、今、アメリカには住んでいなかったであろう。



ガラスの教会のお御堂にはいり、一人ぽつんと前のほうに座った。 「Tony、なんで死んじゃったんだよー。」と語りかけた。 Tonyは、私の最初のアメリカ訪問で、無謀にも女一人でL.A.に飛んで行った私を面倒見てくれた人であった。 彼の結婚後は、かれの家に数回滞在した。 いろいろなことを思い出して、とても悲しくなった。 目頭がじーんと熱くなって、そのまま座り続けた。

私は、彼にこう聞いた。

「Tony, 私、アメリカに留学しようとおもうんだけど、どう思う? 行くべきかなぁ?」

どのくらい、時間がたったのか? 目頭というか、頭の全体がじわーと熱くなる感覚があった。 そして、私は、声を聞いた。

「Go!」

と。 

ヘッ???


間を置いて、再度聞いた。 「Tony、アメリカ留学、しようと思っているんだけど、いいかなぁ・・・。」

また、同じように、声を聞いた。 

「Go!!」と。 

明るく、励ますような声であった。


踏ん切りがついたところで、席を立ち、振り返って、お御堂の後ろに向かった。 ずっとまっていてくれたTonyの奥さんに「大丈夫か?」と聞かれた。 私は、「『Go』という声を聞いたんですよ。」と彼女に言った。 彼女は無言のままだった。 


***その2 へつづく *******

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