No. 96 君子蘭 (くんしらん)

前回のBlogが2月10日に書いたままであった。
Taxの第一ピークが終わりつつある頃で、まだ、寒い頃。 ダラスでは、雪が2回降った。

今日は、3月27日。 気温は、25度近く、うちの旦那は、家の冷房をつけた。 一ヶ月前は、雪が降ったのに、もう、冷房の季節となった。 人が忙しくしている間に、庭には、雑草が芝生をしのいで、繁栄してしまっている。 久々に仕事のない明日の金曜日は、雑草取りと、鉢の植木の土を新しくしてあげる日とするか。

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一昨年の2006年の12月日本に帰った。 帰路、私は密輸をした。

密輸をしたのは、かんきつ類でもなく、薬でもなく、動物の毛皮でもなく、食品類でもなかった。 なにかというと・・・・

   根がついた小さな植木

であった。 

大事に、大事に、ティッシュで包んで、ジップロックに入れて、バックパックに忍ばせた。 税関をなんとかすり抜けて、密輸に成功して、ダラスに戻ってきた。

ダラスの自宅に着いたあと、すぐに鉢に植え替えた。 2-3鉢できた。 それから、1年半ちかくなろうとしているが、今は、2鉢しか残っていない。 一鉢は、夏の暑さで死んでしまった。

残りの2鉢も順調とはいえない。 一鉢は、とても小さな葉である。 もう一鉢は、元気に葉をだしていたのだが、この秋から冬にかけて、外に出しっぱなしにしてしまったのが、まずかった。 寒い夜のあと、へなへなになりつつあって、いそいで、屋内にいれた・。 葉が抜けて、もしかすると手遅れであるかもしれない。 


その植木は、「君子蘭」(くんしらん)という。


私はお江戸生まれである。 しかし、3歳半から育ったのは、横浜である。 私の部屋は南向きの四畳半であった。 縁側もついている。 その縁側にそって、植木棚があった。 冬だったか、秋だったか、早春であったか、あまり記憶が定かではない。 君子蘭のオレンジ色の花が、その植木棚の上で列をなして咲き誇っていたのが、脳裏に焼きついている。

その君子蘭は、母の父親、つまり私の祖父が大事に育てていたらしく、母がそれを横浜の家に株分けして持ってきたらしい。 鉢もすばらしいものが多く、絵を施して焼いたもの。 彫り物が入っている鉢に植えられていた、と記憶する。

冬の間の暖かい昼間には、母は、君子蘭を外に出して、太陽に当ててやっていた。 冷え込む夜は、部屋に移していた。 母に言われて、毎晩、君子蘭の鉢を、南向きで夜も暖かさの残る私の部屋に入れるのを手伝った。 寒い夜など、いやな仕事であった。 植木鉢も結構な数であったので、結構な労働であった。 正直言って、面倒くさく、頼まれると、「え~、いやだ~。」と言っていたものだ。


2006年の12月の日本訪問は、母の死の一年後であり、遺品を整理しにいったためである。 「お帰りなさい」と迎える者がいない、私の育った家に上がり、一人遺品を片付けた。 思い出の溢れるものは、アメリカの私の家に送るべく、荷造りをした。 

アメリカに帰る日になって、世話をしてくれた同じ町の方が、私を駅まで送ってくださるということで、家まで迎えに来てくれた。 その人は、庭に転がって干からびてしまっている君子蘭のなかでなんとか生き延びているものを拾ってきて、「これは、強いはずだから、もって帰りなさい。」と包んで渡してくれた。 

その結果、小さな植木の密輸となったのである。

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なぜか、私の周りでは、小さな鉢植えの木が育たない。 日本で会社員をしていた時、職場のお向かいのお姉さんの机の上では、小さな植木がぐんぐん育つのに、株分けしてもらった私のはいつも死んでしまうのである。 植木の気を私が吸い取ってしまうのか、それとも、私の手入れが悪いのか? とにかく、だめなのである。

しかし、庭に植えるものは、大丈夫であった。 なので、造園は、くそ暑いフロリダでも、汗びっしょになりながら、庭の手入れを良くしていた。 

なので、密輸した植木は、小さい鉢で、私のそばに置くと、育たないだろうから、大きな鉢にいれて、外においておいてあげれば、なんとか、育ってくれるだろうと思った。 しかし、先日、君子蘭のひとつの鉢が、無残な姿になって、いまや、葉がひとつしか残っていない。 祖父からの遺産を私の代でだめにしてしまうのか、母が手塩にかけた君子蘭も私が台無しにしてしまうのか、と落胆した。 

それが、先週の初めのことであった。 まあ、思いでにすがって生きても、情けないことだし、過去のことは振り切って生きていかなければならないのだなぁ、と自分に言い聞かせていた。

その数日後、近くのKroger(クロガー)というスーパーに買い物に行った。 入り口から右がパンや野菜売り場なので、店に入ると、右に進むのが常道となっている。 パン売り場の手前に、花・植木コーナーがある。

そこにカートを押しながら、進んでいくと、オレンジ色の花が目に飛び込んできた。 「ん?? どこかで見た花だなぁ・・・」と近寄ると、それは、君子蘭であった。 ま・・・まさか!!?? 

しばらく、観察した。 確かに、君子蘭であった。 葉の幅は、母の君子蘭より、多少太いが、花の色は、まさに、実家の縁側に咲き誇っていたあの色であった。

名前をみると「Clivia Miniata」。 アフリカ原産であるとのこと。 値段は、一鉢$29.98。 高い! 旦那のお給料日前であったので、懐が寂しかった。 なので、給料日になったら、必ず来よう、と心に決めた。


今週の初め、待ちに待ったお給料日。 さっそく、Krogerに行った。 どの鉢にしようか、といろいろ動かしていたら、店員さんに何をお探しですか、と呼び止められた。 つまり、あまりいじるんじゃない、ってことか。 「いえ、今、どれを買おうか、と選んでいるんです。 実は、日本で祖父がたくさん育てていて、母も大事にしていました。 今は二人とも他界してしまっています。 日本から、小さな植木を持ってきたんですが、つい先日、だめにしかけていて、がっかりしていたんです。 でも、ここでみて、あまりに・・・」といったら、「たくさん思い出があるんですね。」と微笑んでくれた。 一鉢、大事に抱えて、「これを買います。 でも、また買いに戻ってきますから。」といって、レジに向かった。


昨日は、仕事がなかったので、給料日あとの買い込みとなった。 しっかりと、中くらいの植木鉢と、コンポスト、肥料入りの鉢用の土など、植木に必要な良質の土も買い物リストに入れた。 忙しい日であったが、夕食前のひと時を使い、死にかけている君子蘭を中くらいの鉢に移し替え、小さい鉢でがまんしていたもうひとつの君子蘭を大きめの鉢に入れ替えた。 そして、Krogerで買った君子蘭も中型の鉢に植え替えた。 

また、風の強い日だったので、植え替えたあと、家の中に入れてあげた。 夜寝る前、その花の美しさを見て、今朝起きたときも、朝日のなかにある3つの鉢を見に行った。

そして、今日、また、Krogerに行った。 もうひとつの君子蘭を買った。 私のお小遣いは、2週間ごとに$40から$60と決めているので、これで、お小遣いをすべてはたいたこととなる。 私の感覚では、植木ひとつに$30はもってのほかである。 しかし、この機会を逃したら、次はいつ手に入るか分からない。 自分の好きな買い物は、後回しにして、とにかく、君子蘭を手にいれたい一心であった。 店員さんも私のこと覚えていて、遠くから頷いていた。

レジに向かったとき、思い直して、花売り場に戻り、その店員さんを呼んだ。 「これから私は仕事で忙しくなるので、しょっちゅう、店に来れません。 でも、もし、売れ残って、処分する、ということになれば、電話ください。 出来れば、残っている鉢をすべて買いたいので。」 というと、店員さんは、「花が枯れた時点で、値引きをしますから、そのときは、必ず連絡いたします。」と言ってくれた。

ピアノを置いてある部屋からは、朝日が見える。 その部屋の窓際に、今、君子蘭の鉢が4つある。 うち、二つは花が咲いている。 懐かしい風景である。 

インターネットでClivia Miniataと君子蘭で検索すると、やはり、寒さに弱い、と書いてある。 外に出しっぱなしにして、死に掛けているひとつの鉢。 やはり、私の手入れと気配りが足りなかったのである。 母が重い鉢を何個も、夜、家に入れていた理由を今頃理解する。 天気の良い日には、「水をあげないとかわいそう」とこまめに水やりをしていた母。 こういった手入れが、植木には、必要なのだ。 私は、いいかげんだから、そこんとこ、サボっていた。 それが良くなかった。

祖父からの遺産の残りの2鉢は果たして生き残るかどうかわからない。 しかし、今は、バックアップが二つに増えた。 オリジナルの鉢ではないけど、まあ、いいか。 ヨーロッパのワイン用のぶどうだって、実は、1980年代か1970年代に全滅していたんだけど、アメリカのカリフォルニアから苗を分けてもらって、回復した、という事実もあることだし。 あまり、脈絡はないけど。 勝手に、理論つけ、自分の落ち度を自分で勝手にカモフラージュする。


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実は、私は祖父に会ったことが無い。 祖父は、私が母のおなかにいるとき、亡くなった。 祖父は、お役人さんというか、当時は、官吏(カンリ)と呼ばれる身分の人であった。 

祖父は、東京の板橋区に大きな家を建てた。 その家には、私は子供の頃からしょっちゅう寝泊りに行っていた。 階段が二つある家で、一階の一部で道路に面したところをお菓子屋にしていた。 そこで、子供のころからアルバイトをさせてもらた。 また、昭和30年代後半くらいまで、お手伝いさんもいた。 なので、建てたのが戦前だったからであろうか、今では、考えられないような大きな都内の一戸建てであった。

子供の頃の記憶では、庭には、大きな池があって、鯉がたくさんいた。 そして、庭いっぱいに、植木棚が並んでいて、そこには、たくさんの植木と盆栽が並んでいた。  「おだまき」などの珍しい鉢もあった。

祖父は、お酒を多くたしなんだ人だったそうである。 お酒を飲むと人が変わったそうだ。 それがいやだったと、母は何回か漏らしていた。 一方、祖父は、人望が厚く、多くの人が祖父を頼っていたそうだ。 戦時中は、憲兵から、「顔が朝鮮人だ。」と目をつけられた知り合いを、「私が身元を保証しますから。」と守ったらしい。 

また、祖父は、長野県の波多町出身である。 よく、田舎から、祖父を頼って、「○○家に行け。 頼りになるから。」と多くの人たちが訪れたそうだ。 

退官後、祖父は、植木に結構力を入れていたようである。 しかし、60歳台で、結腸癌で亡くなった。 1959年12月31日の大晦日の朝、祖父は病院のベッドに正座して、「俺は、今日、逝く。」と言って、付き添いの人を驚かせたそうだ。 しかし、その言葉通り、大晦日の夜、亡くなったそうだ。 私は、その時、母の胎内にいた。 祖父は、どんな子供が生まれるのだろう、と楽しみにしていたそうだ。

祖父の葬式には多くの人が弔問に訪れ、交通渋滞となり、急遽、警官が来て、交通整理をしたそうだ。 その15年後に祖母が亡くなったときも、同じように、道は弔問客であふれ、やはり、警官が出てきて、交通整理をしていた。 私は15歳だったから、覚えている。 そして、祖父の葬式は、もっとおおきかったのだろう、と想像できた。



2006年に持ち帰った母の遺品の中に、母の手帳兼日記がある。 日記によると、母が父と出会う前、祖父は母を近くの教会に連れていったらしい。 祖父はクリスチャンであるという話は聞いたことがない。 戦前戦後のことだから、そいういうお話はご法度だったかもしれない。 戦後、母は、結核、盲腸、腸ねん転など、大病もちであり、20歳代後半となっていた。 そんな母を、祖父は、不憫に思ったのかもしれない。 祖父は、母を、お寺でも、拝み屋ではなく、「教会」に連れていったのである。 

そのとき、母は初めて、主の教えを耳にする。 心に染み入ったらしい。 しかし、自分の罪の大きさにおののき、十字架を見上げても、恐れのほうが多く、そのときは、洗礼を受けることができなかったらしい。

でも、祖父が母を教会に連れていってくれたことが、母が天国にいくことになる土台を作ったのである、と私は思う。 母の本当の「救い」はそれから50年以上経ったあとであったにせよ。 そして、母の真の救いの直前に、娘の私も主によって変えられた。 


すべては、祖父から始まっているのかもしれない。 



祖父は、長野県の波多町出身である、と書いた。 波多は、秦(はた)のことである。 別の漢字をあてているだけである。 つまり、太秦(うずまさ)に本拠のあった、秦一族の末裔が住んでいた町に違いない。 そして、祖父が秦氏の血を引いている、という可能性も否定できない。 

秦氏は、「弓月の君」と呼ばれる帰化人である。 中央アジアから大挙して、日本に来た。 聖徳太子の時代である。 アッシリア人ではないだろうか、という説もある。 その秦一族は、原始キリスト教であったらしい。 中国の唐の時代に栄えた「景教」と通じるかもしれない。 5世紀ー6世紀の話で時代としても一致する。


その秦氏の血を引くかもしれない祖父が母を教会に連れていっている、というのも、キリストの血を受け継いでいるかもしれないと思えば、納得がいく。 そして、その血は私にも流れているのである。



昨年終わりごろ、祖父が建てた板橋の母の実家は、取り壊された。 新しい家を建てるための棟上式も行われたそうだ。 私のいとこと叔母が住んでいるはず。 叔母は、母の家に嫁入りした人であり、祖父の血を受け継ぐ人ではない。 祖父の子供たち、つまり、私の母と兄二人は、全員他界している。
 

あの庭の植木棚ももうないだろう。 あの池はどうなったであろうか。 

私の手元にある、残りの二つの鉢が、本当の意味で祖父の遺産となった。 

果たして生き延びるのか。 生き延びて欲しい。


あかしや番頭

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