No. 42 幸運・不運 - 神様のえこひいき?
ジョンベネ・ラムジーちゃん殺害(10年前)の容疑者がタイのバンコクで身柄を拘束された、というニュースが夕べ発信された。 当時、犯人は裕福な親か、兄か、という疑いもあり、メディアの注目をあびた事件であった。
今日の新聞の一面トップはそのこと。 レバノン情勢より上の段に出ていた。 朝のCNNのニュースもそのことでもちきりであった。 ただ、今日の段階では、詳しい情報はない。
容疑者のジョン・マーク・カーの発言がとても気になった。
まず、いとも簡単に罪を告白している。 「あなたは無実ですか?」 『ノー』
なんじゃ、こりゃ? 普通、どんな罪を犯しても、無実を主張するのが普通のアメリカ人だけど・・・。
そして、『僕はジョンベネ(当時6歳)を愛している。セックスしたが、死んだのはアクシデントであった。』 ラムジー家との関係は、という質問には、『ノーコメント』。 母親のパッツィーとは話したか? 『ノーコメント』。
あと、この容疑者は事件のあったコロラドのボゥルダーには住んでいなかった。 ただ、幼児ポルノ愛好者ではある。
この人、本当に容疑者であろうか? まあ、ジョンベネちゃんのつめから取れたDNAサンプルがあるし、容疑者がコロラドに移送されてから、調査が始まるので、時間の問題か。
ジョンベネちゃんのお母さんのパッツィーも元ミス・ぺージェントだったので、きれいな人であったが、真犯人がつかまるのを見ずに、今年の6月に卵巣がんとの長い闘病の末、亡くなった。 お父さんはビジネスマンである。 しかし、事件当時、一度も涙をTVで見たことがない。 どんな質問にも、感情を吐露せずにクールに答えていた。 だからか、この父親も疑いの目で見られていた。
社交界で華やかな存在で、裕福であったラムジー家はジョンベネちゃん殺害事件で、一転して、家族がばらばらになる、という状況に落とされた。 こういうことってあるんだなぁ・・・。
今日、いつものように子供達を学校に迎えに行った。 ぴかぴかの一年生である。 お迎えのとき、幼稚部のときの担任のMs.マリーに会った。 彼女、「ちょっと話が・・」と私を呼び寄せた。 「校長先生が今年度は幼稚部の生徒が少ないので、あなたを解雇するかもしれない、と言われました。 なので、私の為に祈ってください。」
これにはショックであった。 だって、過去10年、家庭内暴力の末、離婚して、一人でお嬢さんを育ててきた彼女。 それでも、足の怪我で、フルタイムの教員にはなれず、補助教師をしたり、家庭教師の会社にいたり、ウエイトレスをしてきて、ものすごく苦労してきた人。 去年の秋にうちの小学校に追加の教師として就職したばかり。 この新学期も、別のお母さんと「Ms.マリー、Tenure(正社員格の教師)がもらえてよかったですね。」と話したばかりであったのに。 ちなみに、彼女もクリスチャン。
どうして、苦労し続けてきた人に、新たなる苦難が来るんだろうか。 どうして、突然、奈落の底におとされるような事がとんでもない方向からやってくるのか。
私の母も次から次へと、新しい病名がつけられる、という人生であったし、晩年は父にいじめられ、家からひきがされ、弟にはひどいことをいわれ、ショックを受けるという最後であった。 死の2ヶ月前にイエス兄さんへの回帰を果たし、今は天国にいるんだけど。 それでも、生きているときは、地獄の苦しみだったと思う。 だから、病気になりつづけたんだと思う。
一方、自分と自分の家族の人生を見てみると、いろいろ苦難はあったし、事故もあり、最低だったときもあった。 でも、日本では、良い会社に勤めることが出来たし、いろいろ我が儘放題させてもらった。 今は、一応、屋根のあるところに住めて、食べ物に困らない。 旦那が一生懸命働いてくれるので、私は主婦(ぐうたら)として、家事と子育てに専念できる。 家計には余裕はない。 でも、Ms.マリーのように、明日の仕事とお金を心配することなしに、家でテレビを見ることができる。
そんな小さなことも然りであるが、天のお父さんがこんな人間を引き寄せてくれた、ということだけでも、私は恵まれていると思う。
比較してはいけないかもしれない。 でも、受けた恵みを天のお父さんに毎日感謝し、旦那に毎日感謝し、自分を低くして生きていければと思う。
では、なんで、こういった「運の良さ、運の悪さ」というのがあるんだろうか? 確かに、苦難を通らなければならないときはある。 また、不運を不運と思わず、努力し続ける人もいる。
イエス営業部の人たちの間では、「運・不運」というものはない。 神様がすべて「計画」されている、ということだ。 そして、神様の基準と人間の基準は違う、だから、人間の思う、幸運と神様の考える「恵み」とは違うと。
もし、自分が不幸、不運な状態になったら、私はどうするだろうか。 それでも、神さん、あんたを信じます、と言えるだろうか。 人と比較して、「えいこひいきや!」と文句たれるかもしれない。 それは、そのときまでわからない。
しかし、この世には、「運の良い人・運の悪い人」がいる。 これは、神さんの恵みの多さと少なさなのか? それとも、恵み・運とは、『相対的』なものなのか? つまり、運の悪い人がいないと、運の良い人ができない、とういことか? いいじゃないか、人類全員が皆、運がよくって、恵まれていたって。 そうすりゃ、皆ニコニコ毎日くらして、戦争なんてなくなるんじゃないか?
ここには、普段、偉そうに書いている自分であり、読み手にとっては、確信のあるイエス営業部社員とおもわれるかもしれない。 でも、私も人間であり、神さんの考えておられることは、すぐにはわからない。、神さんの御言葉と現実との間にギャップがある、ということは十分認めている。 もし、ミス・マリーのような状態になったら、私は神さんを忘れてしまうかもしれない。 そんな情けない人間である。
でも、ほんまに、どうして、幸・不幸、運・不運、恵・不恵て存在するんだろうか?
わからない。 誰か教えてください。 天のお父さん、E-mailで教えてください。
あかしや番頭 メールを送る
今日の新聞の一面トップはそのこと。 レバノン情勢より上の段に出ていた。 朝のCNNのニュースもそのことでもちきりであった。 ただ、今日の段階では、詳しい情報はない。
容疑者のジョン・マーク・カーの発言がとても気になった。
まず、いとも簡単に罪を告白している。 「あなたは無実ですか?」 『ノー』
なんじゃ、こりゃ? 普通、どんな罪を犯しても、無実を主張するのが普通のアメリカ人だけど・・・。
そして、『僕はジョンベネ(当時6歳)を愛している。セックスしたが、死んだのはアクシデントであった。』 ラムジー家との関係は、という質問には、『ノーコメント』。 母親のパッツィーとは話したか? 『ノーコメント』。
あと、この容疑者は事件のあったコロラドのボゥルダーには住んでいなかった。 ただ、幼児ポルノ愛好者ではある。
この人、本当に容疑者であろうか? まあ、ジョンベネちゃんのつめから取れたDNAサンプルがあるし、容疑者がコロラドに移送されてから、調査が始まるので、時間の問題か。
ジョンベネちゃんのお母さんのパッツィーも元ミス・ぺージェントだったので、きれいな人であったが、真犯人がつかまるのを見ずに、今年の6月に卵巣がんとの長い闘病の末、亡くなった。 お父さんはビジネスマンである。 しかし、事件当時、一度も涙をTVで見たことがない。 どんな質問にも、感情を吐露せずにクールに答えていた。 だからか、この父親も疑いの目で見られていた。
社交界で華やかな存在で、裕福であったラムジー家はジョンベネちゃん殺害事件で、一転して、家族がばらばらになる、という状況に落とされた。 こういうことってあるんだなぁ・・・。
今日、いつものように子供達を学校に迎えに行った。 ぴかぴかの一年生である。 お迎えのとき、幼稚部のときの担任のMs.マリーに会った。 彼女、「ちょっと話が・・」と私を呼び寄せた。 「校長先生が今年度は幼稚部の生徒が少ないので、あなたを解雇するかもしれない、と言われました。 なので、私の為に祈ってください。」
これにはショックであった。 だって、過去10年、家庭内暴力の末、離婚して、一人でお嬢さんを育ててきた彼女。 それでも、足の怪我で、フルタイムの教員にはなれず、補助教師をしたり、家庭教師の会社にいたり、ウエイトレスをしてきて、ものすごく苦労してきた人。 去年の秋にうちの小学校に追加の教師として就職したばかり。 この新学期も、別のお母さんと「Ms.マリー、Tenure(正社員格の教師)がもらえてよかったですね。」と話したばかりであったのに。 ちなみに、彼女もクリスチャン。
どうして、苦労し続けてきた人に、新たなる苦難が来るんだろうか。 どうして、突然、奈落の底におとされるような事がとんでもない方向からやってくるのか。
私の母も次から次へと、新しい病名がつけられる、という人生であったし、晩年は父にいじめられ、家からひきがされ、弟にはひどいことをいわれ、ショックを受けるという最後であった。 死の2ヶ月前にイエス兄さんへの回帰を果たし、今は天国にいるんだけど。 それでも、生きているときは、地獄の苦しみだったと思う。 だから、病気になりつづけたんだと思う。
一方、自分と自分の家族の人生を見てみると、いろいろ苦難はあったし、事故もあり、最低だったときもあった。 でも、日本では、良い会社に勤めることが出来たし、いろいろ我が儘放題させてもらった。 今は、一応、屋根のあるところに住めて、食べ物に困らない。 旦那が一生懸命働いてくれるので、私は主婦(ぐうたら)として、家事と子育てに専念できる。 家計には余裕はない。 でも、Ms.マリーのように、明日の仕事とお金を心配することなしに、家でテレビを見ることができる。
そんな小さなことも然りであるが、天のお父さんがこんな人間を引き寄せてくれた、ということだけでも、私は恵まれていると思う。
比較してはいけないかもしれない。 でも、受けた恵みを天のお父さんに毎日感謝し、旦那に毎日感謝し、自分を低くして生きていければと思う。
では、なんで、こういった「運の良さ、運の悪さ」というのがあるんだろうか? 確かに、苦難を通らなければならないときはある。 また、不運を不運と思わず、努力し続ける人もいる。
イエス営業部の人たちの間では、「運・不運」というものはない。 神様がすべて「計画」されている、ということだ。 そして、神様の基準と人間の基準は違う、だから、人間の思う、幸運と神様の考える「恵み」とは違うと。
もし、自分が不幸、不運な状態になったら、私はどうするだろうか。 それでも、神さん、あんたを信じます、と言えるだろうか。 人と比較して、「えいこひいきや!」と文句たれるかもしれない。 それは、そのときまでわからない。
しかし、この世には、「運の良い人・運の悪い人」がいる。 これは、神さんの恵みの多さと少なさなのか? それとも、恵み・運とは、『相対的』なものなのか? つまり、運の悪い人がいないと、運の良い人ができない、とういことか? いいじゃないか、人類全員が皆、運がよくって、恵まれていたって。 そうすりゃ、皆ニコニコ毎日くらして、戦争なんてなくなるんじゃないか?
ここには、普段、偉そうに書いている自分であり、読み手にとっては、確信のあるイエス営業部社員とおもわれるかもしれない。 でも、私も人間であり、神さんの考えておられることは、すぐにはわからない。、神さんの御言葉と現実との間にギャップがある、ということは十分認めている。 もし、ミス・マリーのような状態になったら、私は神さんを忘れてしまうかもしれない。 そんな情けない人間である。
でも、ほんまに、どうして、幸・不幸、運・不運、恵・不恵て存在するんだろうか?
わからない。 誰か教えてください。 天のお父さん、E-mailで教えてください。
あかしや番頭 メールを送る
コメント