No. 104 おちこぼれ (その1)

この書き込みは長くなってしまったので、3部に分けた。 辛抱して、読んでくれれば幸いですだ。

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ダラスはこのところ、ものすごく暑い。 華氏98度の連日である。 摂氏にして、35度位だろうか。 

先週は月曜日から金曜日まで、ダラスの南にあるCFNI(Christ For the Nations)という聖書学校で、子供たちの日中のキャンプがあった。 そのため、朝、8時前に家を出て、他の通勤車と混じって、ダラスの南まで延々片道30マイル(48キロ)位を通った。 

子供をCFNIで下ろしたあと、更に南に向かって、税制の講座を受けていた。 講座が終わったら、CFNIに戻り、お弁当を食べて、図書館にいって、聖書辞書を見ていた。 そして、4時に子供たちをピックアップして、帰宅。 なので、家に帰れば、5時。 6時過ぎには、夕食なので、すぐ夕飯の準備。 結果、自由時間がまったく無い一週間であった。 それに、疲れた。 働いているお母さんって、いつ、掃除、洗濯するんだろう、と思いいった次第。


今は、先ほど漬けておいた韓国焼肉を焼いて味見している。 今は、夜中の11時。 夜食にしては、ヘビーである。 でも、少しおなかがすいた。 ようかんよりは、いいか、と緑茶をすすっている。 昆布茶でないところが、まだ、モダンであろうか?? 

ようかん、と書いたら、ようかん、食べたくなったなぁ・・・。 島根県から送っていただいた、ようかんがあるんだよなぁ・・・。 島根県のお茶とお茶菓子は、品のある味で、美味なんだよね。   ええい! たべちゃおう!

イエス兄さんは、40日間断食をしたのち、悪魔に試みられた。 悪魔が今、私に、「ようかん、たべれるんだぜ。」と言われたら、私は簡単に食べてしまう。 あーあ。 所詮、神と人間。 出来が違うわ。


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先週の日曜日の礼拝後、教会の日本人の人達と言葉を交わしていた。 十代、つまり、ティーンになると、難しい、という話題。 私自身、十代のとき、悪かったんだよねー。 というと、「ええっ! そう見えない。」といってくれた慈悲深い方がいた。 

事実、私はタバコを辞めたのが、14歳のときであった。 始めたときではなく、辞めたとき。 お酒は、10歳から。 親に口答えするわ、とにかく何もかも、反抗的であった。 

中学のときは、「つっぱり」という言葉が今の「ヒップホップ」のように使われていたのかもしれない。 ファッションもあった。 制服のスカートたけをものすごく長くするとか、学ランの上着をものすごく長くするとか。 あと、男子だったら、リーゼントヘアーにするとか。 あの、矢沢栄吉氏の30年以上前のファッションみたいなの。 今は、あの人、坊主刈り?

なんとなく、学校のつっぱり連中といっしょに「つるんで」いた時期もあった。 (それでいて、生徒会もやっていた、というアンバランスな人間であった。) ツッパリ連中はたばこ、普通に吸っていたから、私も吸っていた。 父はハイライトという強いタバコをいつでもどこでも、風呂のなかでも、トイレのなかでもすっていた人だった。 家の中は煙があったので、私は慣れていたんだろう。 

でも、人生に必要ない、という理由だったか、良く記憶していないが、興味がなくなって辞めてしまった。 高校に入ってからは、バスケットに明け暮れていたので、タバコを吸う、という時間もなかった。 

ともかく、今は母親やっているから、昔悪かった、という人間には、見えないだけだろう。 


一方、日本での会社勤め時代は、私はあまり親しくない人からは、「アホ」と思われていた。 

合気道道場の仲間の、アイルランド人の男性からは、「初めて会ったときは、"Air Head" (=脳みそのないアホ)と思っていた。」と言われたし、同僚からは、「○○って、パソコン、いじれるんだぁ・・・。」とまともに驚かれた。

その後、両者と親しくなるに連れて、前者のアイルランド人からは、翻訳を手伝ってくれ、と頼まれたり、後者の同僚とは、一緒に新商品の新聞発表の文を書いたり、海外販社への英語のプレゼンテーションや、プロフィット・ロス(収益損益)のプログラムを一緒に作った。 一応、私には、多少の実力はあったのかもしれない。

でも、基本的に、私は、自分のことを「おちこぼれ」と思っている。 

あかしや番頭の正体を知っている人の中には、「ええっ?」と思う人もいるだろうし、「それは、いやみよ。」という人もいるだろう。 一方、「んだ、んだ。」とうなずく人もいると思う。 

確かに、私は第一印象と中身が違うようである。 また、傍から「できる人。 頭のいい人。」と思われることもあるようだ。 しかし、それでも、私は「おちこぼれ」なんである。


話は、中学、高校、短大にさかのぼる。 まだ、こんなに体脂肪が無かったころの話。

中学は横浜市立希望が丘中学校。 クラスでは、上から1-3番であった。 英語を10才のときから習っていたので、貯金がかなりあったわけだ。 あとは、多少まじめに勉強したようだ。 つっぱりはしていたけど。

ということで、神奈川県トップの湘南高校以外は、どの高校にいってもよい、と先生から言われたので、電車通学しなくて良い、歩いて5分先にある希望が丘高校に入った。

その高校は、正式には、神奈川県立希望が丘高校、という。 昔で言えば、旧制の神奈川一中である。 または、神奈川一高。 または、「神高(じんこう)」つまり、神奈川県を代表していた公立の高校であった。 開校1897年なので、100年以上の歴史のある学校。 校歌は、山田耕作作曲、佐々木信綱 作詞であった。 有名なお二人が校歌を作ってくれた、というだけでも、希望が丘高校の「格」は高かったらしい。 

卒業生には、有名人もたくさんいる。 故飛鳥田一雄(元横浜市日本社会党委員長)、作曲家の故黛敏郎氏。 漫画「天才柳沢教授の生活」の作者、山下和美女史は一つ先輩。 彼女はそばに住んでいて、高校の制服をもらったり、大学入試の参考書をもらいにいった。 「応為坦々録(おういたんたんろく)」で文藝賞を受賞した山本昌代女史は同窓生。

歴史があるから、OB会も強い。 先輩は後輩を面倒みる、というのが卒業生の間、とくに運動部OBには浸透しているので、私はいろいろお世話になった。 

私が入学したときは、神奈川県の高校のランクが、湘南、翠嵐、光稜、希望が丘、だった、と思う。 厚木高校はどうだったかなぁ。 平沼もあったよなぁ。 ただ、東大合格者は少なかった。 代わりに、明治がものすごく多くて、あと、早稲田もたっくさん。 2年、3年の同級生には、東北大、東工大、千葉医大、早稲田、慶応、上智、中央、横浜国大などに行った人はたくさんいた。 推薦入学した人も何人かいた。 まあ、一学年540人で、12クラスあったマンモス校だったので、誰がどうなったか、あまり興味もないということろか。

ただ、希望が丘高校は、「六三三一四制」と自負していて、「三」と「四」の間に「一」がある。 この「一」は、浪人のこと。 だから、浪人は多かった。 「二浪」も結構ある。 高校は制服も中間試験もない自由な校風であった。 また、通信簿には、赤点しかついてこjない。 60年代後半に学生紛争をして、バリケードまではった高校である。 ガリ勉するのは格好が悪い、という感じで、浪人するのが当然、という風潮であった。 

さらに、個性的な先生と生徒が多かった。 合唱祭のとき、突然、ステージに押しかけて、「檄文!(げきぶん)」と叫び始めて、「合唱祭に反対する!」と騒いだ先輩方もいた。 ある合唱祭では、トイレットペーパーを舞台に向けてなげたこともあった。 県立音楽堂からは、希望が丘高校は二度とくるな!と言われた。

先生方も、紙一重の先生も何人かいらした。 また、先生方も、授業をよく休んだ。 授業カット、といった。 生徒たちも自分で授業を休んだ。 これを自主カット、と呼んでいた。 私も、出たくない授業は、出席をとったあと、教室を抜け出して、芝生の上で昼寝していた。 

(その2へ続く)

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