No. 207 時間取られるが、それが愛
親しい親戚の人が うちのスーパーばあちゃんのことをこう呼んだ。
”When she calls, she always gets into the business.”
「彼女が電話してくるときは、要点だけを済ませて終わるね。」
106歳スーパーばあちゃんは義母のこと。
ばあちゃんには、数日ごとに電話し、密に連絡を取り合っている。
最近は、耳が遠くなってきたが、それでも、会話が成り立っている。
「今日の天気はどうかね!」が常套文句(じょうとうもんく)=お決まりの言い草。
こちとら、気候の激しいテキサス。大体、「寒いわー。」「暑いわー。」と返事して終わる。
次に、あたしの子供たちはどうしてるか、と聞いてくる。
「息子?電話してこないから、生きてるか死んでるかわからんわ。」と答えることも。
娘は、家にいるから、「ナナ!(ばあちゃん!)、元気!?」
二人とも声がでかいので、ちょっとうるさい。
そのあと、会話をちょこっと交わして、「じゃあね、バイバイ!」で終わる。
所要時間は平均して5分もないだろう。
ちなみに、ばあちゃん、スマホもっていないので、昔ながらのランドライン。
そう、あの電話線でつなぐ電話を使っている。
ばあちゃんが覚えているのは、我が家の昔ながらのランドラインの電話番号。
この古いタイプの電話は、ばあちゃん用にキープしている。
一方、このばあちゃんの「お姉さん」、おばさんと呼んだ人は、いったん電話すると、耳から受話器を下すことができなかった。
電話を切るタイミングを見つけたか、とホッとするも、次の話題に移ってしまい、延々と話が長くなった。
晩年は、母国語のスペイン語が出てくることが多くなったので、こちらも片言で応対し、私はわかったふりをして、「うんうん、チョットマッテクダサイ」といって、スペイン語のできる旦那に電話を渡して逃げた。
このおばさん、本当にいい人で、料理が上手で、私にやさしくしてくれたから、悪いことは言えない。
数年前に105歳で亡くなった。
むしろ、私も、この頃、このおばさんの会話方式の「傾向」が現れているなあ、と自省する。
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先週の真ん中、この町に住む母と同い年の方からの電話を受けた。
顧客対応中だったので、すみません!後でかけなおします!と謝って、その場はしのいだ。
その夜、電話をかけたら、「ぬか漬けができたから取りにきて」、ということだった。
この方は運転はしない。ご主人様を7-8年前に亡くしたので、一人暮らし。
そばにお嬢さんが家庭を持って住んでいるが、90歳の今、ほぼ独立して暮らしている。
上野駅の地下道で、戦争孤児にお握りをあげたことがある日本女性である。
あたしは、時間があるときは、おせち、煮物、おしんこをもって、訪れるようにしている。
でも、春は仕事のピークなので、なかなか訪問できない。
その女性の家に行くと、まず、5分では帰れない。
それもあり、足も遠のいていたのかもしれない。
スーパーばあちゃんのお姉さんと同じパターン。
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うちの教会の子育て教室で、愛について、教わったことがあった。
愛の形にはいろいろあるんだと。 アガぺ、フィレオ、エロス。。あともう二つほどあったような。
また、愛の表現には、5つほどパターンがある。
・ほめる。
・時間を一緒に過ごす。
うーん、あと何かあったなぁ。。。
子供にとって、一番大事なのは、親が子供と過ごした時間だ、と教わった。
う゛ーー! あたし、子供たちを、放牧していた。。。
この方は、私と一緒の時間を過ごすことを、望まれているのだなぁ。
そして、それが愛なのかもしれない。
また、神さんが、あんたの仕事だぜ、って言われているような。。
昨年までは、この方の訪問は、ほかの人にまかせっきりだった。
しかし、「ほかの人」は昨年末、コロナで亡くなってしまった。
彼女から、天国から引導を渡されたような気がする。
「面倒見てくれっぺよ!」って。
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安息日に人を癒したイエス兄さんを見たパリサイ人は、律法に違反する!とイエス兄さんを糾弾した。
また、安息日に弟子たちが、歩きながら穂を摘んだのを見たパリサイ人は、いちゃもんつけた。
イエス兄さんは、こう言った。
安息日は、人間のためにもうけられたのです。
人間が安息日の為につくられたのではありません。
人の子は安息日にも主です。
マルコ 2:27-28
あたしは、この兄さんの言葉を信じ切って、安息日は、この90歳の方と一緒にすごす時間を作ろうと思う。 毎週は難しいけど、仕事で切羽つまってはいるけど。
そこんとこはさぁー、神さん、なんとかしてよ。
一昨日、訪問して、やっと(笑)、おいとまする時に、私に投げかけてくれた笑顔がくしゃくしゃで、とっても輝いていた。
頂いたぬか漬けはおいしかった。
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