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No.2 罪、なんじゃそりゃ? その一

No. 2  罪、なんじゃそりゃ? その一 牧師先生たちのお話、クリスチャンに関する話などで、必ず出てくる言葉は、「罪」。 たとえば、「神様! 私の罪をお許し下さい。」とかね。 むかーし、横浜駅のジョイナスの横を歩いていると、白い服を着た牧師みたいなひとに呼び止められて、会話をしているうちに、「原罪って知っていますか?」といわれたのを思い出した。 彼にとって、私はよっぽど罪深い人間に見えたのか? 私も若かかったから、「宗教は賭けだ!」とぶちまかして、その場を去った。 あのあと、「哀れな子羊を救ってください。」とその人に祈られていたのかも。 旧約聖書の創世記の最初の方に原罪のことが出てくる。 神さまが天地を創ってくれて、人間も作った。 でも、あの木の実はたべちゃいかんよ、と言っといたのに、へびにそそのかされたイブは実をとって食べてしまった。 旦那のアダムにも、「あれ、おいしかったから、食べようよ。」と誘って二人で食べちゃったことなんだよね。 生んでくれたお父さんの言いつけを守らなかったアダムとイブ。 エデンの園を追い出されて、神さまのそばから離れてしまった・・・。 それが罪だって聖書は言ってるんだよね。  と、ここまでは、聖書に忠実に一般的な説明をどこからか借りてきて書いただけ。  しかし、あらためて、罪ってなんだろう、自分に問うと、これがまーったくぴんと来ない。  ぴんこな(ぴーんとこない)だから、せっかく創ったのに、すぐに命令に背くような不完全な人間を、どうして神様は創ったのかねぇ? という疑問も湧く。 更に、人間を創ってから、その後何百年かして、人間、勝手なことしつくしたから、神様、ついに堪忍袋の緒が切れて、「水にすべて流してしまおう。」と決めた。 なんなら、ノアの一家も救わないで、人間なんてすべてなくしてしまえばよかったんだ。 だって、その後、人間の歴史って殺しあったらい、奪いあったり、とノアの時と同じことを繰り返している。 私はそう思うよ。 クリスチャンとしてはこういうこと、いっちゃいけないみたいだけど、私嘘つけないから、いっちゃう。 だから、今日のタイトルは「罪、なんじゃそりゃ?」。 「罪」という漢字は日本人にとって、新聞の殺人事件の記事の「一審判決、死刑」というような場面でしか、お目にかからないような単語で、あまり身近ではないし、普段の会話の中に使わない

No. 2  罪、なんじゃそりゃ? その二

No. 2 罪、なんじゃそりゃ? その二 そうか、的外れか・・・。 でも、どういうこと? アーサー曰く、「お前たちがこれだけ神様に愛されているのに、気がついていない、ってことさ。」 ふーむ。 まあ、なんとなくわかってきたかなぁ、でも、まだ実感できない。  でも、それから暫くして、ああ、これが的外れ、勘違い、わかっちゃいない、という気持ちを体験したので、ここに書く。 2005年に洗礼を受けた同じ日から、我が家に若い母親と幼い子供が同居し始めた。 いつものおっせかいで、よしゃーいいのに、私は彼女のご両親の負担を助けたくて、うちに呼んだんだ。 まあ、他人との同居はいろいろある。  法律のこと、車のこともろもろ、アメリカ生活が短く、英語のコミュニケーションもスムーズではない彼女はいろいろ苦労しているようだった。 なので、何かあれば聞いて、とか、多少の情報はおっせっかいながらも、渡したりしていた。 うちは旦那がアメリカ人だし、私もアメリカ生活長いほうなので、いろいろと助けられると思っていた。 自立できるように、学校に行きたい、という意思表示を見せてくれれば、学費を貸してあげようとも、密かに思っていた。 しかし、昔からの知り合いではないからか、信用してくれないからか、単なる遠慮なのか、彼女は私たちの申し出を受けず、わざわざ前住んでいた西海岸あたりの友人たちに相談してたらしい。 旦那の親戚に弁護士がいるので、法律の問題も相談できたのにね。 まあ、私は信頼されていなかった、ってことにしておこう。 私も彼女が傷つくようなことをしただろうし。  さて、ここで、言いたいのは、彼女がどうのこうの、というゴシップを盛り上げて、自分を良い子にすることではない。 私はもしかすると、天のおとうさんの気持ちを体験したのではないか、ということなんだ。 天のおとうさんはいつも私たちのそばにいて、助けになろう、と待っていてくれる。 でも、それって、私たちが「お父さん、困ったことがあるんだよ。それって、こうこうこうで、こういうことなんだ。 だからこれちょうだいよ。 助けてよ。」って言わないと、助けられないんだと思う。 (でも、私と母のように、神様みずから「どーしょーもねーなぁ」と助けてくれた場合もあるけど。 これを恵み、というのかな?) おとうさんはドラえもんのように、数ある解決策をポケットの中に持ってい

No.1 こんな人間が何でクリスチャンになったのか・・・独り言をはじめる理由

「神様、参りました。 降参です。なので、洗礼を受けます。」と観念したのが一年前、2005年の春であった。 そして、去年の6月に洗礼を受けた。 まだ、一年経っていない。 ここテキサス州のダラスに2004年の秋にシンガポールから来れたのは、不思議なことがあったから。 さらに、あのインドネシアの津波から私たち家族が救われたんだよね。 15年前に、LAのガラスの教会で、アメリカに「行け」と聞いた声は死んだ友人ではなくて、神様だったのも啓示によってわかった。 そして、こうやって私をものすごい勢いで神様、つまり、天のおとうちゃんのそばに引き寄せたのも、神様から離れてしまった母を天国に行かせるために、私を使われたんだ、ということが母の死の知らせを受けたときに分かったんだ。 まだ、5ヶ月前のことだよ。 いやー、ぶったまげることばっか起こってきたし、今も起こっている。 「これはいったいなんなんだ!」と分からないことばかりだった。  クリスチャン、というと清楚で清貧で、言葉遣いがきれいで、ちょっと排他的・・・というイメージがあるよね。 私? ぜんぜん、清楚でもないよ。 ほんとうにどうしようもない人間だよ。 ジョークをぶちかますのが好きだし、「おめー! このやろー!」「こんなん、やってらんねーよ!」なんてぶちまかすし、教会に行き始めたころ、息子に合気道の技をかけて黙らせていたら、牧師の息子にびびられた。 日本でのバブルのころは遊ぶに遊んでいたよ。 仕事のあと、地元のBarで夕食+飲んだ後、そこのバーテンさんたちとお店が引けた後、別のBarにいって、そのあと、バーテンさんたちみんなと朝食、なんて生活もしていた。 そんなことは、可愛いほうだった。 アーサー・ホーランドがうちの教会に来たとき、「味方が来た!」とうれしくなったくらい。 私も今年はハーレーを手にいれて、十字架のついた革ジャンきて、ドドドド・・・ってやりたい、と思っている。 ちなみに私は6歳の双子の母親で、あまり若くないけど、若く見える。 (いまだにスーパーでビール買うとき、身分証明書見せろ、って言われる。) 子供たちもカエルや便所虫(ダンゴ虫というのか?)をつかんでも平気なワイルドである。 なにせ、母親が子供の時、田んぼでカエル沢山つかまえて、爆竹でとばしていたくらいだから。  こんなどうしようもない人間だって、天のおとうちゃんは