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7月, 2008の投稿を表示しています

No. 106 宗教ロック by 忌野清志朗さん

今も清志朗さんのビデオをいろいろ見ている。 以下のビデオ、ものすごく気に入った。 本当に、日本ってそうだ。 女性雑誌を開けてみると、ものすごいページを割いて、サイキックのページやら、オーラのナントカというページ。 百鬼夜行の日本である。 清志朗さんのメッセージは鋭い! あかしや

No.105 忌野清志朗さん

うちの旦那はメキシコに出張に毎週のように行っている。 出張先がメキシコ・シティーだと、必ずホテル・ニッコー=日航ホテルに泊まる。 私も以前、仕事でメキシコ出張したときに一ヶ月ほどお世話になったホテルである。  顧客には、日本人が多いので、(ユダヤ人も多かったと思う。)日本語の新聞や雑誌のサービスがある。 ということで、メキシコ・シティー出張のお土産は、日経新聞と共同通信のダイジェスト版である。 昨日、もってきてくれた7月中旬の日経新聞をベッドでぼーっと見ていたら、一つの記事があった。 キヨシローが喉頭がん克服した、という矢先に、今度は、腰の腸骨にがんが移転していた、という記事であった。 キヨシローとは、RCサクセションの忌野清志朗さんである。 私の世代より一回り上の団塊の世代の人で、日本を代表するといってもいいロッカー。 特に有名なのが、「雨上がりの夜空に」という歌。 題名と歌詞がまったくマッチしないけど、こんなサビのある歌。  ♪ どうしたんだ Hehe Hey 俺のポンコツ~ ♪ というと、ああ、あの歌、と思い出す人もいるだろう。  この曲は、サブリミナル・メッセージがあるので、クリスチャンとあまり結びつかないかもしれないけど、でもこういう歌です。 彼が、喉頭がんで治療に専念していた、というのは、海外にいる私でも知っていた。 でも、やっと復帰した矢先に、がんの転移ってのは・・・。 私は中学のときは、井上揚水、吉田たくろう、古井戸、かぐや姫、NSP、などなどのフォークソングのグループが華々しい活躍をしていた時代であった。 当然、私もギター担いで中学校に通っていたわけ。 でも、ロックはしなかった。 だって、エレキギターやドラムは手が届かなかった。 お金のあるお兄さんお姉さんしか出来ないことだと思っていた。 だから、清志朗さんの存在はそのときは知らなかった。 彼の存在を知ってからも、別にファンになったわけではなかった。 そのころは、浜田省吾に没頭していた。 省吾さんのことは、また別の機会に書こう。 でも、たまにテレビなどに出てきた清志朗さんを見ていて、何故か私はこの人に一目置いていた。 存在感もあったし、やさしさというのか、純粋な感じも受けていたからかもしれない。 清志朗さんのニュースを読んでから、改めて、彼の音楽を聴いてみた。 つくづく、彼のロックは、歌詞といい、曲

No. 104 おちこぼれ (その1)

この書き込みは長くなってしまったので、3部に分けた。 辛抱して、読んでくれれば幸いですだ。 ***************** ダラスはこのところ、ものすごく暑い。 華氏98度の連日である。 摂氏にして、35度位だろうか。  先週は月曜日から金曜日まで、ダラスの南にあるCFNI(Christ For the Nations)という聖書学校で、子供たちの日中のキャンプがあった。 そのため、朝、8時前に家を出て、他の通勤車と混じって、ダラスの南まで延々片道30マイル(48キロ)位を通った。  子供をCFNIで下ろしたあと、更に南に向かって、税制の講座を受けていた。 講座が終わったら、CFNIに戻り、お弁当を食べて、図書館にいって、聖書辞書を見ていた。 そして、4時に子供たちをピックアップして、帰宅。 なので、家に帰れば、5時。 6時過ぎには、夕食なので、すぐ夕飯の準備。 結果、自由時間がまったく無い一週間であった。 それに、疲れた。 働いているお母さんって、いつ、掃除、洗濯するんだろう、と思いいった次第。 今は、先ほど漬けておいた韓国焼肉を焼いて味見している。 今は、夜中の11時。 夜食にしては、ヘビーである。 でも、少しおなかがすいた。 ようかんよりは、いいか、と緑茶をすすっている。 昆布茶でないところが、まだ、モダンであろうか??  ようかん、と書いたら、ようかん、食べたくなったなぁ・・・。 島根県から送っていただいた、ようかんがあるんだよなぁ・・・。 島根県のお茶とお茶菓子は、品のある味で、美味なんだよね。   ええい! たべちゃおう! イエス兄さんは、40日間断食をしたのち、悪魔に試みられた。 悪魔が今、私に、「ようかん、たべれるんだぜ。」と言われたら、私は簡単に食べてしまう。 あーあ。 所詮、神と人間。 出来が違うわ。 ******************* 先週の日曜日の礼拝後、教会の日本人の人達と言葉を交わしていた。 十代、つまり、ティーンになると、難しい、という話題。 私自身、十代のとき、悪かったんだよねー。 というと、「ええっ! そう見えない。」といってくれた慈悲深い方がいた。  事実、私はタバコを辞めたのが、14歳のときであった。 始めたときではなく、辞めたとき。 お酒は、10歳から。 親に口答えするわ、とにかく何もかも、反抗的であった。  中学のと

No. 104 おちこぼれ (その2)

(その2):劣等感、短大、会社 さて、私の成績と大学進学はどうだったか、というと、「おちこぼれた」。 一年生のときは、クラスで17番くらいだったらしい。 でも、2年になって、びりけつ。 3年もたいしたことがなかった。 何故か、というと、恥ずかしいが書こう。 2年のとき、クラスの男の子のことが好きになって、勉強が手につかなくなったのである。 あー、はずかしいが、これが事実。 3年のときは、別に付き合い始めた男の子と2ヶ月くらいで別れてしまい、これまた落ち込んだ。 つまり、男が原因であった。 ああ、中学までの優等生がこれである。 ほんとうにださかった。 さらに、私たちの年代は、共通一時試験元年。 英語を勉強したいのに、なんで、物理や化学を勉強せにゃあかんのか! というのが私の大いなる怒りであった。 だって、物理の先生は、紙一重だったので、授業聞く気にならなかった。 化学は、あの化学記号の表を覚えるのが気違い沙汰に思えた。 なので、物理と化学は自主カットしていた。 卒業できたのが不思議である。 まあ、こじつけはともかく、授業料の安い国立大学ははなから考えなかった、という親不孝であった。 さらに、まったく勉強していなかったし、受験勉強がいやだった。 有名私立女子大、英語で有名な私立大学など、一応は受けたけど、受験料の無駄であった。 親には、悪いことをした。 それでも、母が「ここはどうかしら」と持ってきた入学願書があった。 上智短大であった。 「希望が丘を出て、短大なんて。」という自尊心が私にはあった。 でも、一応受けた。 そうしたら、情けないことだったが、補欠合格した。 多くの人たちが滑り止めに受けていたため、入学を辞退する人たちが多かったからだろう。  結果として、自分の意思にそぐわない、女の園の短大に入ることになった。 上智短大は、上智大学のある四谷にはない。 神奈川県のそれも箱根方面にある、秦野(はだの)の山ふたつにある小さな、英語科しかない女子短大。 一学年250人。 たったの250人。  高校までは、バンカラな校風(早稲田に近い)で、一学年540人x3=1080人のマンモス校にいて、それも、すごい輩がいる型破りな学校で謳歌していた。 それが、都落ちというのか、お嬢様が多く全学年500人で、教授は、スペインから来たシスターや、神父様ばっか、というイエズス会(カトリッ

No. 104 おちこぼれ (その3:最終)

(その3):留学~現在 あるときから、私は留学を考え始めた。 それは、会社で出世したいから、というより、「杭をぬきにいく」、ただそれだけであった。 そのため、当時としては、700万円の年収があったが、それを捨てた。 貯金は、余り無かった。 それでも、TOFELなど、こつこつと勉強し、休みのたびにアメリカに赴き、学校を訪問するなど、親にも、友人にも、会社にも内緒で一人でこつこつと準備していた。 無言実行だ、と自分の心に刻印して、飽きやすい私としては、珍しいほど地道に準備と努力をしたのであった。 留学の決意を親に話したときのこと、留学後のひもじい極貧生活、勉強の苦労、そして、就職など、今回の書き込みでは、書ききれないので、別の機会にゆずる。 ただ、母は、「あなたには、やり残したことがある。」と自分が病気なのに、娘を出してくれた。  到着地のニューヨークでのひもじい生活、勉強で寝れない日々はあった。 本当にあった。 しかし、遊びというものをかなりの規模でかなりの深さで、日本での会社員時代に済ませてしまったので、ニューヨークでは、ただ、ただ、勉強に没頭できた。 当時、32歳。 学生ビザだけであったし、会社はおさらばしてしまったので、収入は無かった。 毎日、予習のために、分厚い教科書をかなりのページ数を読まなければならない。 英語を日本で勉強して、仕事に使っていたからといっても、アメリカの学生生活には、足らないレベルでしかなかったのである。 なので、教科書を読むということだけで、ものすごく苦労した。 教科書は当然、英語。 私は帰国子女ではないから、ものすごいハンデがあった。 ニューヨークは8月の下旬から寒くなる。 9月になれば、吐く息が白くなる。 ひもじいわ、勉強は大変だわ、一人ぼっちだわ、寒いわ、金はないは、食べるものはないわ・・・というときに、愛犬の死の知らせが真冬に届いたときは、「私はここで何をしているのだろう。」と半日泣いていた。 しかし、春になって、スピーチのクラスで大きなハードルを越えられたことがあった。 寝ずに、努力した結果であった。  それまで、自分は、日本人にしては、英語が多少は出来るほうだという、お門違いの自負があった。 しかし、スピーチのクラスの教授に、「あなたの言っていることは、クラスのほとんどが分かっていない。」とはっきり言われて、がーん。 大ショッ

No. 103 訃報の折々

今は、夜中の一時近い。 明日は、朝6時起床なんだが、ちょっと書かないといけないなと思う。 いつものぶっちゃけ口調ではなく、今回はちょいとまじめ。 それも、イエス営業部として、まじめに書く。  先ほどまで、日本から来た訃報に返信していた。 父方親戚の3人の訃報の知らせ。 日本とは、半分音信不通の状態であったが、おじが亡くなったので、送ってきたらしい。 おじの訃報以外は、過去の訃報の報告であった。 私は、近年、日本に帰るたびに、「今しかできないこと」を両親と親戚と友達にしてきた。 上記訃報を受け取った3人の方たちには、近年、お見舞いと訪問をしていた。  一人には、泊めさせていただいて、昔の話などを聞かせてもらっていた。 なので、自分なりの満足感というのがある。  葬式は、残された人たちの心のやり場の行き着くところ、死を周りが受け入れるための儀式であって、亡くなった本人のためだけではないと思っている。 だって、死んでしまっていて、この世では本人はやることがない。 それより、本人が生きている間に精一杯のことをしてあげるほうが、同じ生きている者がすることだ、という思いがある。 なので、帰国のたびに、「今しかできないこと」をしてきた。 父が突然亡くなる直前には、シンガポールから飛んでいった。 母の入院と夏の暑さで、げんなりしていた父に食事を作ってあげた。 また、私が母の面倒をみるから、休んでいて、と。 短い滞在を終えて、私が空港に向かうタクシーに乗ったときは、いつものように、半分喧嘩状態であった。 その4日後、父は自宅で一人で倒れてなくなっていた。 その直後は、私は、父が私に言いたかった愚痴を半分だけ聞くだけにしてしまったので、泣いて悪かったと反省した。 しかし、日本に駆けつけてあげたこと、食事を作ってあげたこと、短かったけど、時間を一緒に過ごし、話を聞いてあげた。 それが、私にとって心の平安につながった。 母は・・・。 これは、圧巻であった。 まだ、ここに書けるほど、私の中で熟成していない。 しかし、母が亡くなる前の一年は、激動の一年であり、私が主にものすごい勢いで引き寄せられ、奇跡や不思議なことを体験させられていた。 あっという間にイエス営業部になった。 そして、苦しい道を通り、泣きながら祈る毎日であった。 母は、クリスチャンであったが、このまんまだと、地獄にいっちゃうぞ、