No. 104 おちこぼれ (その2)

(その2):劣等感、短大、会社

さて、私の成績と大学進学はどうだったか、というと、「おちこぼれた」。 一年生のときは、クラスで17番くらいだったらしい。 でも、2年になって、びりけつ。 3年もたいしたことがなかった。

何故か、というと、恥ずかしいが書こう。 2年のとき、クラスの男の子のことが好きになって、勉強が手につかなくなったのである。


あー、はずかしいが、これが事実。 3年のときは、別に付き合い始めた男の子と2ヶ月くらいで別れてしまい、これまた落ち込んだ。

つまり、男が原因であった。 ああ、中学までの優等生がこれである。 ほんとうにださかった。

さらに、私たちの年代は、共通一時試験元年。 英語を勉強したいのに、なんで、物理や化学を勉強せにゃあかんのか! というのが私の大いなる怒りであった。 だって、物理の先生は、紙一重だったので、授業聞く気にならなかった。 化学は、あの化学記号の表を覚えるのが気違い沙汰に思えた。 なので、物理と化学は自主カットしていた。 卒業できたのが不思議である。

まあ、こじつけはともかく、授業料の安い国立大学ははなから考えなかった、という親不孝であった。 さらに、まったく勉強していなかったし、受験勉強がいやだった。 有名私立女子大、英語で有名な私立大学など、一応は受けたけど、受験料の無駄であった。 親には、悪いことをした。

それでも、母が「ここはどうかしら」と持ってきた入学願書があった。 上智短大であった。 「希望が丘を出て、短大なんて。」という自尊心が私にはあった。 でも、一応受けた。 そうしたら、情けないことだったが、補欠合格した。 多くの人たちが滑り止めに受けていたため、入学を辞退する人たちが多かったからだろう。 

結果として、自分の意思にそぐわない、女の園の短大に入ることになった。



上智短大は、上智大学のある四谷にはない。 神奈川県のそれも箱根方面にある、秦野(はだの)の山ふたつにある小さな、英語科しかない女子短大。 一学年250人。 たったの250人。 

高校までは、バンカラな校風(早稲田に近い)で、一学年540人x3=1080人のマンモス校にいて、それも、すごい輩がいる型破りな学校で謳歌していた。 それが、都落ちというのか、お嬢様が多く全学年500人で、教授は、スペインから来たシスターや、神父様ばっか、というイエズス会(カトリック)の学校。

秦野駅から白と青色のスクールバスが出ていて、それにのって、山にある校舎に向かった。 バスがカーブで揺れると、「キャー!」という黄色い声がバスの中に大きく響いた。 ああ・・・私はなんと場違いな処に来てしまったのか、とものすごく落ち込んだのである。

いっておくが、上智短大は、当時、短大の中で偏差値が一番高い短大だったそうだ。 今もそうかな? また、教授陣は、日本人より、海外の人が多く、授業の多くは英語だった。 なので、上智短大は低レベルの短大である、とは言っていないつもりである。 むしろ、すばらしい短大であった、と思う。 


しかし、希望が丘高校出身でありながら、四年生大学にいかれなかった、ということは、私個人の心の中に、大きな劣等感が住み着くことになったのである。 それをなんとかしようと、YMCAでのボランティアに精を出してみたり、希望が丘高校バスケ部OB会に積極的に参加した。 短大の女性だけの小さな世界にとどまっているのがいやで、なるべく外へ外へ、と自分の世界を持っていった。

しかし、どうしても私の中には、ものすごく太い杭が残っているままであった。

晩秋のことであったろうか。 相鉄線の希望が丘駅から我が家までの間に希望が丘高校がある。 いつもは、駅から一番東側にある訓練校通りを通って家に帰るところを、何故か、希望が丘高校を通って帰った。 懐かしい高校の坂をのぼり、校庭を見渡すことのできる校舎前を歩いていた。 その景色は今でもはっきりと覚えている。 うすぐらくなりつつある時刻で、寒かった。 木々は、どんどん葉を落とし始めていた。 暗い、というイメージでしっかりと心に焼きついている。 私は、やりきれない気持ちに溢れていた。 とにかく、自分がむなしく、情けなかった。 こんなはずではなかった。 本当に、地に落ちた、無力な自分をかみ締めた。 晩秋の寂しさがそのまま自分そのものであった。


短大の2年はあっと過ぎた。 不思議な形で、東京にある、某大手電気メーカーに入社した。 当時は、4年生卒業の女子の就職より、短大卒女子の就職率がはるかに良かった時代であった。 一度落ちたその会社から、再度電話がかかってきて、それからは、あっという間にとんとんと、就職が決まってしまった。 

それからは、何故だか今もって分からないのだが、順風が吹き続けた数年であった。 最初の仕事は、技術翻訳。 日本語から英語にする仕事。 最初から上司に恵まれ、だんだんと企画的な仕事を任されるようになった。 そのうち、英語でプレゼンしたり、商品企画したり、プロモーションしたり、テレビ出演したり、TVコマーシャル作ったり、ヨットレーサーになったり・・・・、と本当に楽しい会社生活であった。 おまけに、当時の独身女性としては、マスコミ、銀行とは比較できないけど、かなり良いお給料であった。 残業も100時間はしていたからだろうけど。 

でも、良い時ばかりではなかった。 失敗もしたし、非難もあびたし、干されたときもあった。 そして、1984年に労働法改正があり、それまで、株式会社日本では、雇用を控えていた四年生卒業の女子大生の雇用が増えた。 当然、私のまわりにも、4年生卒業の女性たちが増えてきた。 やはり、学歴があるので、出世が私より早かった。 それも一つの理由だったのかもしれないが、当時は、社内でハーバード大学、MITなどに留学する人たちもいたし、海外からの社員も増えてきていた。 

(その3 最終 へ続く)

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