No. 104 おちこぼれ (その3:最終)

(その3):留学~現在


あるときから、私は留学を考え始めた。 それは、会社で出世したいから、というより、「杭をぬきにいく」、ただそれだけであった。 そのため、当時としては、700万円の年収があったが、それを捨てた。 貯金は、余り無かった。 それでも、TOFELなど、こつこつと勉強し、休みのたびにアメリカに赴き、学校を訪問するなど、親にも、友人にも、会社にも内緒で一人でこつこつと準備していた。 無言実行だ、と自分の心に刻印して、飽きやすい私としては、珍しいほど地道に準備と努力をしたのであった。


留学の決意を親に話したときのこと、留学後のひもじい極貧生活、勉強の苦労、そして、就職など、今回の書き込みでは、書ききれないので、別の機会にゆずる。 ただ、母は、「あなたには、やり残したことがある。」と自分が病気なのに、娘を出してくれた。 

到着地のニューヨークでのひもじい生活、勉強で寝れない日々はあった。 本当にあった。 しかし、遊びというものをかなりの規模でかなりの深さで、日本での会社員時代に済ませてしまったので、ニューヨークでは、ただ、ただ、勉強に没頭できた。 当時、32歳。 学生ビザだけであったし、会社はおさらばしてしまったので、収入は無かった。 毎日、予習のために、分厚い教科書をかなりのページ数を読まなければならない。 英語を日本で勉強して、仕事に使っていたからといっても、アメリカの学生生活には、足らないレベルでしかなかったのである。 なので、教科書を読むということだけで、ものすごく苦労した。 教科書は当然、英語。 私は帰国子女ではないから、ものすごいハンデがあった。 ニューヨークは8月の下旬から寒くなる。 9月になれば、吐く息が白くなる。 ひもじいわ、勉強は大変だわ、一人ぼっちだわ、寒いわ、金はないは、食べるものはないわ・・・というときに、愛犬の死の知らせが真冬に届いたときは、「私はここで何をしているのだろう。」と半日泣いていた。

しかし、春になって、スピーチのクラスで大きなハードルを越えられたことがあった。 寝ずに、努力した結果であった。 

それまで、自分は、日本人にしては、英語が多少は出来るほうだという、お門違いの自負があった。 しかし、スピーチのクラスの教授に、「あなたの言っていることは、クラスのほとんどが分かっていない。」とはっきり言われて、がーん。 大ショック。 自尊心が原爆にやられてこっぱみじんであった。

しかし、そこで私は教授にしがみついた。 オフィスまでいって、どうしたらいいのですか?と質問した。 そうしたら、教授は、アドバイスをくれた。 その夜から、教授の言ったことを素直に信じて、毎日毎日、朝の3時4時までスピーチを練習したのであった。 一週間後のスピーチのクラス。 私の番が来た。 あまり覚えていない。 しかし、スピーチが終わったあと、教授がクラスメートの前で、「努力の結果です。 ものすごい上達です。 私は本当にうれしい。」と言ってくれた。

授業が終わった翌日の昼、ダウンタウン地域の5番街を闊歩した。 春がきていた。 ふと後ろを向いて、見上げると、エンパイアステートビルがそびえていた。 その手前には、アメリカの国旗がたなびいていた。 エンパイアステートビルがやけに誇らしくたっているような気がした。 そして、私はニューヨークのエネルギーを体いっぱいに吸収して、忙しく歩くニューヨーカーの間をぬって南下したのであった。 それから、私はニューヨークが大好きになった。 


その後、不思議な形で仕事が見つかった。 それも、アメリカでは由緒あるメーカー。 風が吹けば桶屋が儲かるのロジックで、ヨーロッパで旦那にめぐり合い、結婚し、フロリダに移住した。 大学も、あまり有名ではないが、フロリダ州立大学の一つで、Boca Ratonにある。 分校がFt. Lauderdaleの西のDavisにあり、そこで学んだ。 会計と経営のダブルメジャー。 自分は、頭がいいのだ、という大昔の自尊心はとっくに消えうせていた。 ただ、勉強が楽しかった。 苦労したし、寝ない日々が多かったが、とにかく、まじめに勉強した。 日本にいたときの100倍くらい勉強した。 卒業するときは、優等のCum Laudeを頂いたが、会計自体の成績はさほどでもなかった。 他の科目でAばかりをとっていた結果にすぎない。 だから、私の会計の実力はたいしたこと無いと思う。

大学卒業後は、決まっていた就職をけって、子供を作った。 そのあと、シンガポールに移り、そして、ここダラスにいる。 勉強したけど、今は、土方ばかりしている、おかっさんである。 でも、それでいいと思う。 なぜならば、杭は抜くことが出来たから。 でも、杭を抜くこと自体、大学で猛勉強している間に、ドウでも良くなった。 私にとっての大学生活というのは、アカデミックな成長よりも、人間的な成長のほうが大きかったのだと思う。 


もし、希望が丘高校から、ストレートで、早稲田とか、上智とかに行っていたら・・・・、私はつんけんした鼻高々ないやな人間になっていた、と思う。 人の苦しみ、失敗を許す人間にはなっていなかった、と思う。 また、どんぞこに落ちた人に手を差し伸べよう、という気持ちも持てる人間には、なっていなかったであろう。 ただ、人を責めてばかりいる頭でっかちの、プライド充満のいやーなオールドミスで一生を終えていたかもしれない。

なので、高校のときの脱落・おちこみ・落ちこぼれの劣等感は、今振り返れば、私にとって、とても良かったことであった。 また、それがバネとなって、アメリカ留学となり、夫に会えて、今の私がいるのである。 

それだけではない。 アメリカにいて、イエス営業部にこうしてなれることができたのは、高校のときの落ちこぼれの経験が発端である。


私の自尊心など、まだ少しは残っているが、それは、一回、二回と砕かれていた。 本当に、痛い経験だった。 高校からずっと引きずって生きてきた。 でも、30年後にそのありがたみがわかる。 その理由がわかる。 おちこぼれなければ、今の私はなかった。

そして、確信するのは、そんな私の横で常にずっと一緒に支えてきてくれ、時におんぶしてくれたのが、イエス兄さんだった、と今わかる。

だから、私は言いたい。 誇って言いたい。 

私は、おちこぼれだ、と。


あかしや番頭

コメント

匿名 さんのコメント…
記帳いたします。希望ヶ丘高校の現職教員です。
ネット上を渡り歩いていますと、たまにこちらのようなページに出会います。なるほど、いかにも。と思いながら拝読いたしました。
ご活躍を祈念いたします。
Akashiya さんの投稿…
Aromatic Kam先生

希望が丘の先生でいらっしゃいますか! ご記帳、大変感謝いたします。

希望が丘高校は、型破りな生徒だけではなく、個性ある先生方が多く、高校生活に大きな花を添えていただいたり、励みになったり、目標となられています。 

まれに見る校風の学校でしたので、希望が丘高校から他の高校に転任された先生たちは、最初は苦労されるそうです。 でも、それだけ、希望が丘の自由な校風とレベルの高い先生方は、すばらしいと思います。

記念祭も終わり、もうすぐ夏休みですね。 夏合宿で、バスケの練習のあと、陸上トラックを猛ダッシュした記憶がよみがえります。

日本も猛暑になるのでしょうか。 どうか、ご自愛くださいませ。

あかしや
makotomushi1960 さんの投稿…
kenへ
長文のブログ、拝見しました。小中高と一緒に過ごしながら知らないことばかりでちょっとビックリ!
重箱の隅をつつく様で申し訳ありませんが、「合唱祭反対!」の事件があった第一回合唱祭が行なわれたのは、今は取り壊されてしまった旧横浜市民ホール、また「二度と来るな!」といわれたのは、扉の内張りを壊した、第二回合唱祭が開かれた神奈川県民ホールだと思います。
マコト虫
Akashiya さんの投稿…
マコト虫さん、

ブログを読んでくれてありがとうございます。 また、コメントありがとうございます。

高校のときは、そういった「おちこぼれ」の自分が情けなく、恥と思っていたので、外に出しませんでした。 

今、こう歳をとって、自分はたいしたこと無い人間だ、という自覚が出てきたので、やっと「カミングアウト」したってことです。

合唱祭のことは、どちらがどちらの場所だったか、覚えていません。 トイレットペーパーを投げたのは、確か、県立音楽堂だったと思うんです。 

では、檄文事件は、市民ホールだったんですね?

ドアの内張りを壊したんですか! それはそれは。 トイレットペーパーよりすごいわ。 でも、やりそうだもんねぇ。

希望が丘高校のことは、これからも、ここで書いていきたいな、と思います。 

引き続き、本Blog、ごひいきにお願いいたしまする。

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