No. 39 「沈黙」
「沈黙」を読み続けていくうちに、キリシタン迫害の拷問の仕方にいろいろあって、だんだん気分が悪くなってきた。 たとえば、海の中に柱を立て、そこに人をくくりつけてほおって置くやり方。 穴つりといって、耳のうしろに穴をあけて、その人間を蓑虫のように蓑でぐるぐるまきにして、逆さに穴のなかに吊るすやりかた。 熱湯をかけるやりかた・・・。 それぞれの拷問で、受刑者がどういうメカニズムで苦しみ死に至るのかは、私には具体的にわからない。 Slow Death=じわじわと苦しみながら迎える死、であろうから、想像を絶する。 十字架の刑も、体の重みで肩、胸の骨や筋肉が気管を締め付けるのであろうか、これもSlow Deathで極刑とされている。 「パッション」=「Passion of Jesus Christ」の最後ではイエス没後、地震が起こり、ローマ兵が他の受刑者のすねを折る場面があるが、すねを折ることによって、すべての体重が肩、うでにかかり、結果として、呼吸ができなくなる、ので、死を早めるのであると思う。 日本でのキリシタン弾圧は豊臣秀吉の命であり、江戸時代も続けられた。 踏み絵、隠れキリシタン、フランシスコ・ザビエル、という名前は歴史の教科書にのっているので、日本人の間でも一般常識である。 インターネットで当時の日本の信者の数、そして殉教者の数を調べたかったが、出てこない。 本の紹介はあるが、その本を買って読むまで気力がない。 せめて、学者の文献くらい、サーチできないものか。 ウチの教会のパタリロ先生によれば、当時、日本人の三分の一がクリスチャンであり、多くの人たちが殉教した、ということだ。 では、1600年代の日本人の人口は約1,220万人くらい。 今の東京の人口くらいか。 そのうちの三分の一がクリスチャンとなると、400万人くらいであろうか。 横浜市の人口の2倍。 かなりの人口である。 実際の詳しい調査は、いつか本を読むときまでお預けとする。 キリシタンの中には大友宗麟、高山右近などのキリシタン大名もいた。 高山右近は最後は、フィリピンに流されたが、この人についての本は読んでみたいと思う。 昭和40年代初頭に出版されたこの本には、小さな小冊子の形で『長編小説「沈黙」の問題点 -私は「沈黙」をこう読んだー』が挿入されている。 感想を書いたのは、亀井勝一郎、江藤 淳、会田雄次、河上徹太郎、竹山道雄、アルマンド・マルティンス(旧在日ポルトガル大使)。 文学界において、著名な人たちらしいが、私たちの両親より古い人たちで、私が読んだことのある人は会田雄次だけ。 この学者は他の批評家より30年ほど年下だが。 それぞれ、リンクはっておいた。
さて、その批評を読んだが、戦前、戦後から70年代の日本に於いては、キリスト教はやはり一般的ではなかったし、ましてや文学の中にもあまり登場しなかったと想像できる。 遠藤周作氏自身、クリスチャンということで、多少の驚きを受けたり、珍しいと内心思われた私の世代の方、その上の世代の方もいるだろう。 なので、キリスト教は、「行い」であり、「肩書き」であり、「ある規律」を遵守するものだ、という今も踏襲されている表面的な理解の元に批評が書かれている。 私の好きな会田雄次氏は、その著書「アーロン収容所」において、日本と西洋文化の違いについて洞察されているから、日本の寛容文化、西洋の不寛容文化という言葉をつかって批評していた。 彼の批評とポルトガル大使のマルティンスの批評だけ、私の思いと合致する部分があった。 他の人たちの批評には、苦笑いする部分もあり、う~む、そうかなぁ、とうなったり、この人は仏教徒ね、でも、歴史しらないのかな? と勝手に批評家を批評していた。
話を「沈黙」に戻す。 この小説-事実を基にしているが、実名、年齢などは、変えているので小説である-では、キリシタンであった(である?)キチジローをイエスを売った裏切り者、ユダにたとえている。 主人公のロドリゴは、そのユダであるキチジローに売られたイエスにみたて、そののち、イエスを知らないと3回いったペテロに見立ている様もある。 読まれた方はどう思われるか。
本文の終わりのほうで、ロドリゴが最後に踏み絵に足を乗せるところがある。 その時、朝が来て鶏が啼く、という脚色になっている。 マタイ26:31-35、27:69-75のをご参照されたし。 彼が踏み絵を踏んだのは、そうすることによって、あな吊りにされている日本人キリシタンの命が救われること、自分もその刑からのがれられること、そして、遠藤周作をもって、イエス兄さんに言われたことによる。 「踏むがいい。 お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。 踏むがいい。 私はお前たちにふまれるため、この世にうまれ、お前たちの痛さをわかつため十字架を背負ったのだ。」(P225)
拷問、極刑のありさまを読んでいる時、北朝鮮におられる受難者のことに思いを馳せらす。 この春、脱北者に福音を述べ伝え、支援されている日本人の宣教師のかたが教会にこられた。 ビデオを見せてくれ、驚くべき実情を伝えてくれた。 また、北朝鮮出身の牧師先生が今年も教会に来られた。 先生の著作のなかに、拷問のことに少し触れられている。 そして有名なチョー・ヨンギ牧師の著作のなかで北朝鮮のクリスチャンの迫害について少しだが、書かれている。(『第四次元』)そして、こんにちも北朝鮮では、キリスト信者の迫害が行われ続けている。 子供を含めた牧師家族は生き埋めにされた。 子供の為に棄教しようとした牧師を妻が制止し、賛美歌をうたいながら、埋められた。 受刑者を道路の上に横一列に並べて、舗装道路のアスファルトを平らにする何トンもあるロードローラーで、その上を通る。 そんな光景が穴つりと重なる。 日本では、キリシタン迫害当時、棄教することを「転ぶ」と言った。 私が1600年代に長崎にいて、「転べ。 でないとお前の子供たちを穴つりにするぞ。」といわれたらどうするか。 私が今、北朝鮮にいて、「お前の家族もろとも、このコンクリートの上に横になれ。 おっと、お前の6歳の娘は中国の老人のところに売る。」なんていわれたら、私はどうするか。 自分の頭蓋骨がロードローラーに踏み潰されるときの「めりめり・・」という音を想像するだけで、もう駄目。 私は「転ぶ」に違いない。 キリシタンの殉教のことを話して、「すばらしいクリスチャンだ。」褒め称える御仁も多かろう。 殉教とは、たやすくできるものではない。 それもSlow Deathという苦しみながらの死である。 そうやって死なれたイエス兄さんと同じ立場に自分えお置くということで、自分の信仰がまっとうできる。 命を永らえるために、口では「信じない。 回心します。」と方便を使わず、自分の信仰を曲げるより、死を選ぶ。 なかなか出来ないこと。 偉大なる尊厳である。 しかし、それを美化するのはどうか、と懸念する。 同時に読んだ谷崎潤一郎の「春琴抄」では、盲目の美しい女性のお師匠さんが、彼女を恨むものによって、顔に熱湯をかけられてしまう。 召使で、手引きであり、弟子でもある佐助は、愛するお師匠さんの醜くなってしまった顔を見ることが出来ないように、と自分で目に針を突き刺して、自分自身を盲目にしてしまった。 これは、本当の話。 同じように、イエス兄さんを愛するがゆえ、同じ立場に自分を置くことのできる人が存在するのも、事実である。
しかし、殉教させられた人の中には、直前までその拷問による死がどんなものであるかしならなかった人もいるだろうし、「ああ、失敗した。 強情はるんじゃなかった・・」と後悔しながら死んだ人たちもいるんだろう。
「転んだ」ロドリゴは、マカオなどの本部から批判されていただろう。 また、自分の中の葛藤に一生苦しんだであろう。 何故なら、ロドリゴは司祭であったから。 命が助かったあとは、外出もままならず、キリスト教を邪教だと論じる文を書かされたり、輸入品の中にキリスト教関係のものがないかを吟味したり、と幕府の犬と化して使われたのだから、これはまさに生き地獄である。 殉死と生き地獄、果たしてどちらを忍ぶのがイエス兄さんの十字架を背負う肩が痛いのか。
「沈黙」の中で、裏切り者のキチジローが司祭のロドリゴを売ったあとでも、しつこくついてきて、みすぼらしい格好で、臭い息をふきかけながら、司祭に告白する。
「じゃが、俺にやぁ俺の言い分があっと。 踏み絵ば踏んだもんには、踏んだもんの言い分があっと。 踏み絵をば俺が悦んでふんだとでも思っとっとか。 踏んだこの足は痛か。 痛かよォ。 俺を弱か者にうまれさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。 それは無理無法と言うもんじゃい。」 (P150)
「俺は生まれつき弱か。 心の弱か者には、殉教(マルチルノ)さえできぬ。 どうすればよか。 ああ、なぜ、こげん世の中に俺はうまれあわせたか。」(P214)
私とこのキチジローは同類だと思う。 また、そういった情けない私の為、イエス兄さんの血潮があるのだと信じたい。 実感したい。
「踏むがいい。 お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。 踏むがいい。 私はお前たちにふまれるため、この世にうまれ、お前たちの痛さをわかつため十字架を背負ったのだ。」
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ロドリゴのモデル、はイタリア人、シシリア出身の、ジュゼッペ・キャラ。 小説とは違い、この人は実際に穴つりを受けている。 1658年84歳にて亡くなる。 日本名は岡田三右衛門。 彼の墓は、東京小石川無量院にある。
あかしや 番頭
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