No. 37 我回家了:かえってきたで~

我回家了: (うぉぁ ふい じゃ ら:”我、家に戻る”) うろ覚えの中国語ですが、家に帰る、というのに「回」という漢字をつかうんですね。 了(ら)は完了を表す言葉なんで、一応つけたけど、果たしてこれでいいのか・・・。
 
閑話休題(=それはさておき)、大変、ご無沙汰しています。
7月23日から、家族でバケーションというか、親戚まわりとキャンプに行ってきました。

行きはダラスから12時間運転して、ニューメキシコ州のサンタ・フェへ。 旦那の両親が住んでいます。 確か二人とも第一次世界大戦前の1914年くらいの生まれなので、もう92歳くらい。 小さなトレーラーハウスに二人で住んでいます。 

お父さんは、片目をだいぶ前に失明し、腰痛があり、家の中にいるだけですが、それでも、BBCのWorld News をちゃんと見てるし、Time Magazine を定期購読して、しっかりと時勢を追っている人。 最近はそうでもありませんが、以前は一日本を1冊読んでしまう人でした。 判らないことがあれば、まず、お父さんに聞けば、殆どの答えが返ってきました。 季節によるハリケーンの動き方とか、コンクリートに打つ釘の種類に始まり、世界の宗教、それも回教からアメリカ・インディアンのGreat Spritのことまで、とても詳しく知っていて、本当に博学な人です。 

我が家に滞在していたときは、夜は私と二人でスコッチとかテキーラを飲みながら、いろいろな話をしてくれました。 クレーン技師に頼んで、パナマ運河の向こう岸まで、クレーンをかけてもらい、そこへよじ登り、向こう岸に渡った。 向こう岸には、貧民窟(Shanty Town)があったそうです。 でも、そこの人たちと仲良くなり、車をあげた話とか。 ヴェネズエラにいたときは、「うちの娘と結婚してくれ。 そうして、娘をヨーロッパからここに連れてきてくれ。」とユダヤ人に頼まれた話。 また、ドイツ人と仲良くして、FBIに尾行された話などなど・・。 冒険談というか、20世紀の始めの時代の多くの物語。 本になるくらいの、わくわくする話が満載です。

お父さんは、1978年にパナマ運河のDredge船(運河にたまる泥を取り出すための船)のパイロットとしてリタイアするまでは、中南米のいろいろな国に住んでいた人です。 北欧系なので、背は180cm以上あるし、多分金髪だったと思います。 多分、というのは、今は白髪が多いので、想像するしかないので。 

このお父さんのお父さん、つまり私の旦那のおじいさん、というのも面白い。 当時としては、珍しく、大学をしっかり出た人で、Mining Engineer (鉱物学というのでしょうか?)の学位を持っていました。 ローマ教皇の足に口付けをしてきて、永代救われるという旨の証明書みたいのを持っていたり、アフリカにいたり、第二次世界大戦の終焉の時、日本の降服調印のとき、その船に乗っていて、カメラマンをしていたとか、アメリカのスパイだったとか・・・。 土地の問題で、近所(といっても、何キロも先に住んでいた)の人に爆弾を仕掛けられ、一家もろとも死に掛かった話もあります。 このじいさん、60歳になったとき、子供たちに一ドルづつ遺産としてあげて、自分は離婚し、20歳代のメキシコ人の娘と駆け落ちしました。 メキシコのどこかに住んでいて、死んだんですが、誰もどうなったのかわからない、という人です。

このおじいさんについても、いつか書くことができれば面白いな、と思います。 旦那のおばさんがいろいろ資料を集めて、私たちにくれたので、どうやら、私がこの面白いおじいさんの物語を英語で書くことになりそうです。 

お父さんのおじいさんに当たる人は、Swedenからのアメリカ移民第一弾のグループに属する人でした。 スエーデンの血以外に、Lapland人、Finnland人の血を引く人でした。 ミネソタ州Falls Churchでのスエーデン人コミュニティーに貢献した人で、その町には、その方の銅像が立っています。


一方、お母さんは、パナマ人。 背は私より低いのですが、エネルギーが充満している人。 私はひそかに、この人は200歳まで生きる、と思っています。 スペイン系なので、一応白人なのかな? お母さんのおじいさんはパナマの大統領だったそうです。 職場で殉職したそうです。 お母さんの家は、パナマでは、金持ちではないけど、名の知れたファミリーの出身です。 パナマ人にその苗字をいうと、大体の人がわかるようです。  お母さんは11人兄弟姉妹の上から二番目。 一番上のお姉さんは今でもアメリカで健在です。 一人を除いて、兄弟姉妹10人しっかりと残っています。 フロリダにいるとき、多くの親戚が訪ねてきました。 旦那が「僕には100人のいとこがいる。」といってましたが、最初は「うそつけ。」といっていたんですが、これだけ実物を見ていると、確かにさもありなん。 10人兄弟姉妹それぞれ、4-5人の子供がいますから。 

旦那のいとこたちも面白い。 ついこの間、パナマの国会議員になった女性もいます。 うちに遊びにきてくれて、楽しいひと時を過ごした人ですが、弁護士の奥さんだったんですけどねぇ。 アメリカに住んでいる人では、ワシントンDCでの地方裁判所の裁判官の奥さん、という人がいます。 この夫婦も何年か前にフロリダに遊びにきたときに一緒にお昼を食べました。 でも、その裁判官、ニューヨークのGrand Central Stationで電車から降りようとしたとき、足を踏み外して、こけて、頭を打って亡くなってしまいました。 ニューヨークタイムズやワシントンポストに大きく訃報が載りました。 

一番親しいいとこは、ヘニータというあだ名の女性。 私より3つ年上で、にオクラホマ大学の政治学の教授と7-10年ほど前に結婚しました。 価値観が似ているので、頼んで、子供たちのGod Parentsになってもらいました。 ダラスの我が家から車で4時間のところに住んでいるので、最近は感謝祭とか、クリスマス、イースターなどの機会に会うようにしています。 

ラテン系ですから、お母さん、声がでかい。 耳が少し遠くなった今は、さらに大声。 なので、家にいくと、本当ににぎやかなんですよ。 本当に、元気で、パーティ大好きの社交家。 一晩中踊れる元気な人です。 彼女、昔、学校の先生をしていたので、うちの子供たちにもちゃんと厳しく躾けをしてくれますし、彼女の言うことは正しい、と私も思います。

そんな義理の両親ですが、私はこの人たちに一度もいやな思いをさせられたことがなく、結婚してから、我が家に何度もきて、長期滞在してもらいました。 同居人がいるのは、それなりに気をつかいますが、それでも、家族として楽しく過ごさせてきてもらいました。 私は、本当に恵まれていると思います。  私の両親がいなくなってしまった今、私に残された両親はこのお二方だけ。 なので、機会があれば、子供たちを連れて、頻繁に会いに行こうと思います。


さて、丁寧言葉調子で始まりましたが、このままつづけましょう。  では、バケーションの話。

バケーションは、サンタ・フェ(ニューメキシコ州)、セドナ(アリゾナ州)、グランドキャニオン(アリゾナ州)、テキサス・キャニオン(テキサス州)を周ってきました。 2000キロ以上運転してきました。

サンタ・フェでは、一日、旦那の弟さんの案内で、Taosに行き、そのあと、Georgia O'keeffe (ジョージア・オキーフ)という有名な画家がすごしたというGhost Ranch(ゴースト・ランチ)へ行きました。 そこへTaosから向かう途中、映画の撮影があり、それを眺めていましたけど。 デズニープロダクションによるハーレーの映画で、Hogなんとかという題名です。 ハーレーのエンジン音が豚の鳴き声に似ているので、ハーレーのあだ名は「豚=Hog」なんです。 ヘリコプターの先にカメラをつけて、ハーレー3台ドドドドドドドドドド・・・と渓谷にかかる橋の上を走っていくところを撮影していました。 

Santa Feで3日すごしたあと、今度は旦那のおばさんの住むSedona(セドナ:アリゾナ州)に旦那の弟さんを伴って、一緒に運転していきました。 風光明媚なところです。 名前は知らなくとも、写真をみれば、ああ、ここなのか、と判るところでしょう。 サンタフェからハイウエイ40を西に向かい、Flagstaffという町から南下して、セドナに行きます。 途中の渓谷を通る道がまるで日本のようで、いつかこの渓谷でキャンプしたいなぁと思っています。 

そこでおばさんと楽しい時間を過ごした後、翌日は、Grand Canyonへ。 そこで、2泊3日のキャンプ。 子供たちは大喜び。 幸い、ダラスの猛暑のように暑くはなく、夜は華氏60度代で、とても過ごしやすかったですよ。 60度というと、摂氏20度前後でしょうかね、10度の後半でしょうか。 子供たちは、火を起こすことに興味を覚え、自分たちで岩や石を運んで、小さいキャンプファイアーの囲いを作りました。 夜になり、火をつけて、二人でそのまわりをぐるぐる踊りながら回っていました。 インディアンの雨乞いみたいに。  私としては、次回はマッチを使わず、木をこすり合わせて、火を起こすことに挑戦してみようと心に決めました。 だんだん野生化していく、わが家族です。

二日目の午前中は、旦那の弟さんと私とで、Grand Canyonの中へハイキング。 といっても、下り一時間ほどの、South RimからいくCeder Ridgeというところまで。 途中、ロバを何匹も引き連れて、荷物を担ぎ上げている一行に出会いました。 こんな急坂、ロバの背中にまたがって、細い断崖絶壁の路を登るのは私には怖くてできないなぁ。 

うちの旦那は昔Grand Canyonの下まで降りていって、渓谷の中、8日間、キャンプしたことがあります。 なので、Canyonは上から見るのと、中に入るのとでは、大きな違いがあるから、是非行け、ということで、簡単なコースを行きました。 ここんとこ、運動不足なんで、長距離は避けました。 確かに、Canyonを下っていくと、景色は違います。 私にとっては、景色もそうですが、こういったハイキングコースをしっかりと作った人たちの労力、連邦政府の国立公園の維持管理の仕方に尊敬の念を隠せませんでした。 足場には、間隔を置いて、しっかりと木を横たえてあるんですが、その木のひとつひとつに大きな釘が打ち付けられて、それが、地面したにある岩盤の奥深くにしっかりと食い込んでいる。 こんな断崖絶壁で、それも気温が40度以上になる環境でこういう作業をしてきたということは、ただごとではありません。

Grand CanyonからまたSanta Feに戻りました。 夕飯をToltilla Flatというメキシカンというかヒスパニックのいつも行くお店で家族全員で行きました。 サンタ・フェでは、チリペッパーのソースが実に美味しい。 エンチラーダ(enchirada)やケサディヤ(Quesadilla)をマルガリータと一緒に食べました。 ここは、普段、外に出たがらないお父さんも美味しいマルガリータが飲めるということで、ここには行こう、といってくれます。 この味はダラスでも味わえないので、Santa Feにくる楽しみの一つ。 しかし、Santa Feは海抜2500mはある高地で、着いてから数日は薄い酸素の環境に慣れるまで時間がかかりますし、チリという普段あまり食べないものを急に食べるんで、おなかの調子が悪くなったり、体調がちょっと悪くなりますね。

さて、Santa Feで一泊したあと、一路テキサスへ。 テキサス・キャニオンがアマリロ(Amarillo)の南にある、というので、そこでキャンプすることに。 途中、テキサス・キャニオンから200キロ位離れているLubbock(ラボック)という町に住む友人夫婦に電話したら、いくかもしれないよ~と言っていました。 200キロというとこちらでは2時間の行程。 私は、こんな遠くから来ないだろうな。 でも、万が一、キャンプサイトで先回りしてまっていたりして、と冗談をいっていました。 テキサス・キャニオンの入り口に着き、キャンプサイトのチェックインをしようとしていたら、旦那が「あそこにいるのはFloydに似ている人だね。」と二人で目をやると、テンガロンハットをかぶった男性が、ヒッチハイクの格好をした。 本当に本人であった! これには驚いた! この夫婦、私たちがシンガポールに住んでいたときも、ひょっこりと現れたのである。 次はどこに私たちを追って現れるのか?

キャンプ地で、友人夫婦とテキサスのBBQの夕飯を食べ、4時間ほど楽しいときをすごしました。 そのあと、子供の遊び場にいったら、なんと野生の七面鳥はあるきまわっているわ、Kiteという種類の鳥が子供のためにせっせとえさを運んでいたり、Buddingという種類の鳥で、色とりどりの美しいのがいたり、野うさぎがいたり・・・・。 予測もしなかったBird Watchingを楽しんでしまいました。 彼らは夜9時ごろ家に戻りました。 その後、キャンプ地に戻ると蛍が舞っていました。 きれいでしたよ。 最後にみたのは、10年以上も前のニューヨークのセントラル・パーク以来。 星も三日月も輝き始め、しばらく一人で眺めていました。

このテキサスキャニオン、もとはインディアンの居住地だったのを白人がインディアンの所有していた馬を皆殺しにして、インディアンを追い払ったといういやな歴史があるところです。 しかし、Grand Canyonほどがけっぷちという場所がないので、子供にとっては、安全に遊ばせられるところ。 正式には、「Palo Duro Canyon State Park」というところなので、興味のある方は、サーチして下さい。 ダラスから車で6時間です。

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今回は日本を縦断するくらいの距離を旦那と交代で運転したんですが、いつも「神さま、家族をお守りください。 事故から守ってください。」と念じながら運転していました。 また、ちょっとした自然の美しさに触れるにあたり、「美しいものをどうもありがとうございます。」とお礼を言っていました。 じっくり座って、目をつぶって祈るという機会はありませんでしたし、日曜日2回、教会にはいかれませんでしたが、常に神様に心のなかで話かけていました。

家に戻ったとき、なぜだか、家が急に広く見えました。 ご両親のトレーラーハウス、テントの中で過ごした時間が長かったからでしょうか。 家の中に積もっていた猫の毛をほうきで掃いているとき、ふと 「私はここに居る。」 と、神様に言われたような気がしました。 神様の存在は自然の中で感じることができます。 でも、いつも神様がいるのは、以外にも、身近な私たちが住んでいるこの家のような気もするのです。 そして、強いていえば、というか、聖書によれば、私たちの体が神さまの「宮」なんですよね。

今回のバケーションでは、自然の中に身を任せて主の創られたものに触れて、主を感じられたら、とも思いました。 しかし、以外にも、主はこうやってキーボードをたたいている私の右側にそっと立っておられるんだなって思えて、なんだかおかしくもあり、単純でもあり、そんなバケーションでした。 

丁寧言葉Versionでした。

あかしや番頭

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