No. 85 It Is Well With My Soul やすけさは川のごとく (その1)
今日は、日曜日。
ウチの教会で数人が洗礼を受ける。
そのうちのひとりは、この夏まで私が、へたくそピアノ伴奏をさせてもらった、聖書の学びの家庭集会からの人である。
彼女だけではない。 旦那さんも一緒。
こりゃー、めでたい、っちゅーことで、歌を歌うことにした。
聖書の学びの家庭集会の仲間3人とで、歌うのである。
3人で歌うのがこれで二回目。
以前、グループ名どうする?なんて冗談に話していた。
「キャンディーズ」はどう?という提案をした者がいた。
私はこけた。どう考えたって、キャンディでも、賞味期限が過ぎたキャンディーである。
なので、私は、「『おば三』なんてどお?」と代替案をだした。当然のごとく、大反対の憂き目にあった。
もう一人が、「『カルバリーズ』は?どお?」
私ー「やだよー! それって、『どくろズ』って意味になっちゃうじゃんよ!」
といういうことで、まったくグループ名も決まらないまま、夏が終わった。
このところ、涼しくなったダラスである。冷房も要らない。おまけに、最近、新しい教会に移り、そこには、洗礼の槽がある。
なんと、お湯がはれるので、冬でも洗礼できるのである。私なんぞ、馬牛の飼葉おけだったんだぞ。それも、午前中にお水をはって、外に置いて、天日によって暖めた超自然的な洗礼槽だったんだぞ。
(詳しくは、Blogの多分2005年当たりにある『使用前 使用後』に書いたと思う。)
『It is Well With My Soul』(邦題:やすけさは川の如し:賛美歌476)
この曲の練習の歌詞カードを作成するにあたり、この曲の背景をちょっと調べた。
作詞は、Horatio Spafford (ホーレイショー・スパッフォード) (1828 – 1888)
作曲は、 Philip Bliss (フィリップ・ブリス) (1838-1876)
曲としては、賛美歌のスタンダードであるが、何故、この曲が、100年以上も間、人の心をひきつけて止まないのはなぜであろうか。
時として、素晴らしい作品、とくに詩や音楽は、個人的な困難があったときに書かれている。
例えば、Eric Klaptonの「Teas in the Heaven」はまだ5-6歳だった一人息子がホテルかビルの高層階の窓から落ちてなくなった後に書かれた。
ベートーベンの「運命」はベートーベンが聴覚を失ったときに、書かれた。
Spaffordの「It is Well With My Soul」(「私の心は安らかだ」)は、彼が4人の娘を大西洋での海難事故で失った時、一人生き残った妻を迎えに行くときに書かれた詩であった。
以下は、後に記すWebsiteから抜粋したものである。
1870年代、スパフォードはシカゴで成功した弁護士であった。 彼の財産の多くは、シカゴの不動産に投資していた。また、彼は、プレスバタリアン(プロテスタントの一派で、”おばたりあん”ではない。)教会で長老としても奉仕していた。
妻は、教会の聖書勉強会で教えていた14歳年下のアンナであった。
しかし、一人息子を若くして亡くし、そのあと、1871年10月8日のシカゴの大火事で彼は財産のほとんどを失った。
2年後の1873年、スパフォード一家はヨーロッパで休暇を取ることにした。長男をなくしたあと、彼には、すでに4人の娘がいた。
ちょうど、彼の友人のD.L.Moodyがその秋にイギリスで宣教をすることになったので、行き先はイギリスと決めた。
直前になって、不動産の急な仕事のため、スパフォード自身が家族と一緒に行かれなくなり、妻と4人の娘をイギリスに送り出して、彼は、後から行くことになった。
妻と4人の娘が乗ったパリ行きの「S.S. Ville Du Havre」(多分帆船)はイギリスのスティール船「Lochearn」に衝突され、12分のうちに沈没した。226人の死亡者には、スパフォードの4人の娘たちも含まれていた。
妻のアンナは、「Lochearn」の乗り組み員に救助さた。そのLochearn自体も、沈没しようとしていた。しかし、近くを通りかかった貨物船の帆船の「Trimountain」に救助された。
9日後、アンナは(イギリスの)ウエールズのCardiffから、夫、スパフォードに電報を打った。 「一人だけ、生き残ってしまいました。 どうしたらいいんでしょうか・・・・。」
生存者の後日の話では、アンナは、こういったそうである。「主は私に4人の娘たちをあたえてくれました。そして、今度は、4人の娘をとられました。理由はあとでわかるでしょう。」と。
電報を受け取ったスパフォードは直ちにイギリスに向かった。大西洋を横断しているとき、船の船長がスパフォードを船長室に呼び、彼の4人の娘が命を落とした海域を今通っています、と告げた。
彼が、義理の姉妹のレイチェルに書いた手紙には、こう書いてあった。
「先週の木曜日に、船が沈没した場所を通過しました。大西洋のまっただなかで、水は、3マイルの深さです。でも、私のいとしい娘達は、ここには、いません。あの子達は、今は、安全なところにいて、子羊に抱えられています。」
(子羊=イエスのこと)
「It is Well With My Soul」の詩は、この航海の途中でかかれた。
後記のWebsiteにホテルの便箋に書かれた詩の写真がある。
その後、彼には、さらに二人の子供たちがあたえられた。
息子のホーレイショーが1876年に、娘のバーサが1878年に生まれた。息子は、4歳の時に、紅熱病で命をおとした。その翌年の1881年、スパフォード一家は、エルサレムに発った。
13人の大人と3人の子供達といっしょに。アメリカ人のコロニーをエルサレムに立ち上げるために。
エルサレムでは、スエーデンのクリスチャン達と一緒に、奉仕活動にいそしんだ。イスラム教信者、ユダヤ教信者、クリスチャンであれ、信仰にかかわらず、人々を助け、クリスチャンへの改宗ということも強いらなかった。そのため、多くの人の信望を集めた。
第一次世界大戦後の混乱期では、スープキッチン、病院、孤児院などの奉仕を行った。
ホーレイショー・スパフォードは、マラリアのため、1888年10月16日亡くなった。60歳になるまであと4日であった。
彼の亡骸は、エルサレムに埋葬されている。
<参考にしたWebsite>
1.ウィキペディア英語版(日本語版にはホーレイショー・スパッフォードの項目が存在しない。)http://en.wikipedia.org/wiki/Horatio_Spafford
2.American Clolony in jerusalemに関するWebsiteに載っているスパッフォードと「It is Well With My Soul」の背景にある家族の海難事故についての説明。
http://www.loc.gov/exhibits/americancolony/amcolony-family.html
あかしや番頭
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