No. 87 とんでもねえ祈り
盆暮れ正月が一気にくるこの季節のアメリカ。 先週の木曜日は、Thanksgiving(サンクスギビング)=感謝祭、であった。
旦那の93歳の母親と旦那のいとこ夫婦で、子供達のゴッド・ペアレントが来た。 犬も、もう一匹きた。 友人も来た。 気の合う家族と友達でわいわいと、食べてばかりいた一週間であった。
毎日、ほとんどの時間を台所と食卓の周りで過ごした。 食べてばっかり。 音楽をきいたり、いろいろな話をしたり、と本当に楽しい家族の時間。 特に、ばあちゃんと旦那のいとこはパナマ人だから、ラテン系。 私も、今は、すっかりラテン化している。 ラテン系のよいところは、こうやって家族沢山あつまってわいわい、他人が来ても、いつの間にか家族にしてしまい、わいわい、とやるところである。
こんないい家族に囲まれて、わたしゃ、幸せだべよ~。
さて、この日曜日の25日は、双子の洗礼式であった。 この話は後日書く。 なにせ、今度の日曜日は子供達の誕生日で、午後一番は、子供達のパーティー。 夜は、世話になった人たちを呼んでいるので、また、忙しい一週間なのである。 なので、今回は簡単に。
先ほど、洗礼式の写真を見て、ショック。
ま た ふ と っ た ・・・・・・
前回のブログの「先はまだみえないけれど」の最後は、宝くじあててください、という祈りでおわった。 宝くじは、ギャンプルだから、やってはいけない、と教会の人が言っているのを聞いたことがある。
う~ん。 祈っていいのかなぁ? でも、神さんは、なんでももっていて、何でも出来てしまうから、どうかなぁ。 頼むだけ、「ただ」だし。 沢山、お金があれば、沢山献金できるし、仕事しなくても、伝道に専念できるし。
といっても、宝くじ、買っていないから、あたるわけないか。
やっぱ、私は、ばかだなー。
じゃあ、太ったので、「痩せさせてください。」という祈りは、どうなんだろうか。
おっと、祈りは、「具体的」出なければいけないから、「病気や心労で痩せるのではなく、健康そのもので、健康的に痩せさせてください。」と祈らないとだめだろうなぁ。
この間の試験のこと。 正統な(?)理由があって、読むべきところの一章を読まなかった。 時間がなかったので、「試験、受からせてください。」と祈ったら、読んでいなかったその章のある場所が示された=心?頭?に浮かんだ。 そこが試験に出た。 なので、勉強をあまりせずに、試験は99%で合格してしまった。 こんな、なまけものの祈りは聞かれてしまったのであーる。
これに甘んじて、今後勉強しなくなる、というのは、大問題だが。 今回だけは、サボったのではなかったから、上から見ていてくれたんだろう。
なので、たとえ、あほ!と思える祈りでも、私は大胆に祈ってしまうことにしている。 あまりにも、都合良すぎる、自分勝手、清貧でない祈りをどんどんしてしまう。
だって、天にいるのは、なんでももっていて、なんでもできる親方日の丸の「おとっちゃん」だぜ。 まずは、ねだってみたって、ばちはあたらんだろう。 むしろ、いつも、「おとうちゃん、おとうちゃん。 頂戴? 頂戴?」ってなついてくる子供はかわいいだろう。 たとえ、こんなに太っても・・・・・。
祈りは、人に聞かせるものではない、と思っている。 イエス兄さんだって、いつも山にのぼったり、寂しいところで、「独り」で祈っていたやんけ。 天のお父さんと二人きりでいられるんだから、他人の目をはばかることなく、大胆に、言いたい放題、ねだってしまったほうが、勝ちだ、と思う。
お父さん、XXXXXX円、くださーい。
お父さん、健康のまま、痩せさせてください。 まず、5kgくらいは痩せさせてくださいーい。
おとうさん、旦那に新しい車、与えてくださーいい。
おとうさん、おとうさん、おとうさーーん。
きっと神さんは、「うるせーやっちゃなー。 ほんまに! ええい、黙らせるために、これをやるか!」ってくれるかもしれない。
ほんまに、あほやで。 でも、お父さんはすぐそばにいるんだよー。
あかしや番頭
旦那の93歳の母親と旦那のいとこ夫婦で、子供達のゴッド・ペアレントが来た。 犬も、もう一匹きた。 友人も来た。 気の合う家族と友達でわいわいと、食べてばかりいた一週間であった。
毎日、ほとんどの時間を台所と食卓の周りで過ごした。 食べてばっかり。 音楽をきいたり、いろいろな話をしたり、と本当に楽しい家族の時間。 特に、ばあちゃんと旦那のいとこはパナマ人だから、ラテン系。 私も、今は、すっかりラテン化している。 ラテン系のよいところは、こうやって家族沢山あつまってわいわい、他人が来ても、いつの間にか家族にしてしまい、わいわい、とやるところである。
こんないい家族に囲まれて、わたしゃ、幸せだべよ~。
さて、この日曜日の25日は、双子の洗礼式であった。 この話は後日書く。 なにせ、今度の日曜日は子供達の誕生日で、午後一番は、子供達のパーティー。 夜は、世話になった人たちを呼んでいるので、また、忙しい一週間なのである。 なので、今回は簡単に。
先ほど、洗礼式の写真を見て、ショック。
ま た ふ と っ た ・・・・・・
前回のブログの「先はまだみえないけれど」の最後は、宝くじあててください、という祈りでおわった。 宝くじは、ギャンプルだから、やってはいけない、と教会の人が言っているのを聞いたことがある。
う~ん。 祈っていいのかなぁ? でも、神さんは、なんでももっていて、何でも出来てしまうから、どうかなぁ。 頼むだけ、「ただ」だし。 沢山、お金があれば、沢山献金できるし、仕事しなくても、伝道に専念できるし。
といっても、宝くじ、買っていないから、あたるわけないか。
やっぱ、私は、ばかだなー。
じゃあ、太ったので、「痩せさせてください。」という祈りは、どうなんだろうか。
おっと、祈りは、「具体的」出なければいけないから、「病気や心労で痩せるのではなく、健康そのもので、健康的に痩せさせてください。」と祈らないとだめだろうなぁ。
この間の試験のこと。 正統な(?)理由があって、読むべきところの一章を読まなかった。 時間がなかったので、「試験、受からせてください。」と祈ったら、読んでいなかったその章のある場所が示された=心?頭?に浮かんだ。 そこが試験に出た。 なので、勉強をあまりせずに、試験は99%で合格してしまった。 こんな、なまけものの祈りは聞かれてしまったのであーる。
これに甘んじて、今後勉強しなくなる、というのは、大問題だが。 今回だけは、サボったのではなかったから、上から見ていてくれたんだろう。
なので、たとえ、あほ!と思える祈りでも、私は大胆に祈ってしまうことにしている。 あまりにも、都合良すぎる、自分勝手、清貧でない祈りをどんどんしてしまう。
だって、天にいるのは、なんでももっていて、なんでもできる親方日の丸の「おとっちゃん」だぜ。 まずは、ねだってみたって、ばちはあたらんだろう。 むしろ、いつも、「おとうちゃん、おとうちゃん。 頂戴? 頂戴?」ってなついてくる子供はかわいいだろう。 たとえ、こんなに太っても・・・・・。
祈りは、人に聞かせるものではない、と思っている。 イエス兄さんだって、いつも山にのぼったり、寂しいところで、「独り」で祈っていたやんけ。 天のお父さんと二人きりでいられるんだから、他人の目をはばかることなく、大胆に、言いたい放題、ねだってしまったほうが、勝ちだ、と思う。
お父さん、XXXXXX円、くださーい。
お父さん、健康のまま、痩せさせてください。 まず、5kgくらいは痩せさせてくださいーい。
おとうさん、旦那に新しい車、与えてくださーいい。
おとうさん、おとうさん、おとうさーーん。
きっと神さんは、「うるせーやっちゃなー。 ほんまに! ええい、黙らせるために、これをやるか!」ってくれるかもしれない。
ほんまに、あほやで。 でも、お父さんはすぐそばにいるんだよー。
あかしや番頭
コメント
ヒゲMac
そうっすよね。 なんでも持っていて、私達のことを「高価で尊い」といってくれているお父さんなんだから、どんどんおねだりしちゃいましょう。 聞いた上で、決めるのはお父さんだし。
でも、いつもいつも「感謝」をしないとね。 要求ばかりでもねえ。