No. 97 「がんばってください」

私も人並みに、Mixiというものに参加している。 ここのところ、ずっとご無沙汰していたが。

MixiはアメリカのMy SpaceやFace Bookのコピーみたいなもので、自分の日記を書いたり、コミュニティーを作ったりできる。 メンバー同士で、メッセージを取り交わすことも出来、使いようによってはまあまあのサイトかもしれない。
(ただ、あまりのめりこみすぎると、自分の時間がなくなるので、ほどほどにしないといけないと思う。 また、誰が見ているか分からないから、個人情報、とくに写真や実名は避けるべき場所でもある。)

日記を書くと、自分の友達がコメントを入れてくれる。 コメントをくれた人には、礼儀として、お礼を書いたり、コメントをさらに付け足す。 時には、泣き言を言ったり、時にはうれしかったことを書いたり。 励ましたり、励まされたり。 時には、悩みを言ったり、聞いたり。 

私も時間に余裕があれば、人の日記にコメントを書く。 そのコメントのなかで、あまり安易に使いたくない、というフレーズがある。 Mixiの日記へのコメントだけでなく、日常の会話でも、あまり使いたくない。 一方、言う言葉がさがせず、安易にこのフレーズを使ってしまったときは、自分が「サボった」感じがして後味が悪い。

そのフレーズとは、「がんばってください。」 なのである。


高校のバスケ部のときの掛け声は、「ファイトファーイト がんばろー!」であった。 

これから何かの目標に向かう人への常套の励ましの声は、大体「がんばってください」だろう。

人に相談を持ちかけた時、あまり詳しい話はしてもらえず、最後の挨拶が、「がんばってね。」の場合が多いだろう。

過去のオリンピックのコマーシャルでは、「がんばれ! ニッポン!」があった。 

ちなみに、中国語でがんばれは、「加油」。 火に油を注ぐってことかい?

例を挙げれば、枚挙に暇がない。 日本国中、「がんばって」のバーゲンだらけである。 なので、「がんばってください。」のフレーズは、私の中では、陳腐化してしまっている。 それでも、めんどくさいとこのフレーズを使ってしまい、また後悔する。


うつ病患者の方へは、「がんばってください。」と言葉をかけないほうが良い、と聞いた人もあるだろう。 「がんばりすぎて」うつ病になってしまった場合もあるからであろう。 

私自身、親のことで、日本とアメリカを行き来していて、時に、本当にもういやだ、という状況に何回か陥った。 そのとき、愚痴を年長の知り合いのご婦人に漏らした。 そうしたら、「あなたは、XX家の長女でしょう。 もっとしっかりしなきゃ。」と言われた。 この「しっかりしなきゃ」も「がんばれ」と同様に曲者であると思う。 

でも、このご婦人は、口だけで終わらず、私と母の困難な日々を実際に行動を起こして支えてくれ、助けてくれた人でもある。 また、私と同じような親の介護をされてきたかたである。 なので、そういう言葉を言われても、最初は、「うぐっ!」とは来たけど、後味は悪くなかった。

演歌や、自虐的なギャグやジョークが受ける日本である。 日本人には、つらさ、悲しさの中に浸ることを潜在的に耽溺する傾向があると思う。 そういう性向があるのに、「がんばれ」を安易に使い、連発するのが、どうも食い違っているようにも思えるのであるが。


今日、ボスから電話があって、昨日ファイルしたTaxが間違っていたそうだ。 このBossはしっかりとフォローしてくれて、お客にも彼女が電話をしてくれる、とカバーしてくれた。 私のほうも、またやっちゃったよ、という感じであるが、何回もしている失敗。 もうつらの皮が厚くなってしまった。 それより、どうしたらこういった失敗を次に避けることができるか、そして、失敗したときに、どう対応するかのほうが大事である。 そうやって前進する。

ふと、日本にいたとき、学校で、会社で、失敗に対して、どういう対応をしていたのか、思い出そうとした。 日本では、失敗に対する許容度がかなり低かったような気がする。 失敗したときにどう対応して、リカバーするかを教わったことは無かったような気がする。 代わりに、いかに失敗をしないか、ということばかり気にしていた、と思う。

また、失敗したときの周りの態度は、かなり冷たいもので、そこには、励ましも許しもあまり無かった、と思う。 一方、アメリカでは、許しもバーゲンか、と思わせられてしまう場合も多いが。


短絡的かもしれないが、今の日本、これだけ自殺が多いのは、もしかして、もしかすると、失敗が許されない社会におかれていて、常に「がんばら」なければいけないようにされて、人々は追い詰められているのではないか?

特に、中年壮年のサラリーマンの男性がつらいのではないだろういか。 会社で失敗したら、周りから冷たい目でしかとされる。 家で愚痴を聞いてくれる人もいない。 しょうがないから、バーのお姉さんに話を聞いてもらう。 そのお金も無い人たちは、インターネットの変なサイトでうっぷんを晴らす。 でも、うっぷんを晴らせるならいいが、それが出来ない人は、追い詰められていく。 そして、行き着くところは、死なのかもしれない。


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10年前、旦那と日本で結婚式を挙げたあと、京都に行った。 西京地区の漬物屋に寄ったあと、バスを待っていた。 そこに、地元のおばちゃんが話しかけてきた。 「旦那さん?」と私の旦那を見て聞いてきた。 

はい、そうです。 と答えると、そのおばちゃん、自分の娘がトルコ人と結婚したはいいが、その男は、(男のくせに)お金をあまり出さず、娘とトルコ人の夫のために、そのおばちゃんは、家まで買ってあげたそうだ。 

そんな話をバスが来るまで延々と私にしてくれた。 それ以外にも、いろいろあるんだろうなぁ・・・としばらく考えていた。 また、男のくせになんて甲斐性がないんだ、とも思ったが、口には出さなかった。

言葉に詰まったが、ただ、私は、一言、こういっただけであった。

「おばちゃん・・・、むずかしいね・・・・・。」と。

そうしたら、そのおばちゃん、はっとした顔をして、ありがとう、というしぐさをした。 そして、ハンカチを出して、口にあてながら、何度も何度も私のほうにお辞儀をしながら、自分のバスのほうに歩いていった。 

あの状況では、「おばちゃん、それでも、がんばらなきゃだめだよ。」なんて言えなかったし、「しっかりしなさい。」とも言えなかった。 

今、思い返せば、私はそのおばちゃんと同じ位置に座って、同じ方向を向いて、少しだけ、気持ちを共有しただけだった。 でも、それがおばちゃんが欲しかったものではなかったのか。 でなければ、まったくの他人の私に涙を流して、お辞儀を何回もしなかったであろう。


そういう経験もあってか、人の悩みを聞くときは、まず、じっくり聞いて、その人の感情をまず肯定することにしている。 決して、「がんばれ」とは言わないようにしている。 むしろ、「がんばらなくていいんだよ。」と言う。 たとえ、それが、怒り、憎しみであっても、まず、それは人間として自然な感情であって、否定しなくてもいいんだよ、と。 また、この年で、多少はいろいろなことを通ってきたから、それまでの経験を当てはめて、人の話を聞くこともできるようになってきた。

私自身、たいした人間ではなく、汚いものをたくさん隠している人間である。 人に怒りつづけたり、批判ばかりしてきた人間である。 でも、神さんとの祈りのなかで、いかに自分の心の奥底に汚いものを貯めてきているかが、明らかになったとき、私は、人のことをとやかく言える人間ではない、という境地に達した。 聖書で言えば、私は罪人である、ということか。 自分がサイテーな人間で、神さんの恵みによって、どうやら生かされている、ということを考えると、もう人を簡単に批判なんか出来やしない。 (そして、天国に行かせてもらえる、というものすごいプレゼントまで貰ってしまったのだから、あれまーどうしましょ。)

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イエス兄さんのことを考える。 聖書で、イエス兄さんは、「がんばりなさい。」と人々にいったであろうか。 聖書を全部読んでいないが、たぶん、そういった発言は書かれていないと思う。 じゃあ、イエス兄さんは、なんといったのか? 代表的なのは、「あなたは、許されている。」なんじゃないか?

上記のサラリーマンに再登場してもらおう。 会社で失敗して、うなだれて家に帰ってきて、妻に窓際族に左遷されるかもしれない、と言う。 妻は、
「あなた! この家のローン、まだ払い終わっていないのよ。 子供たちの大学だってだいぶ先だというのに。 私たちはどうしたらいいの? あなたががんばらなかったからじゃないの!」と責めたとする。 このサラリーマン、居場所が無いよね。 働いてやっと手に入れたマイホームなのに、自分の居場所がない。 もし、他に相談する人がいなかったら、このサラリーマン、うつ病になってしまうだろう。 そして、最悪(でも、可能性として)自殺してしまう。

でも、もし、妻がこういったらどうであろうか。 「あなた、そうですか。 大変ですね。 今、ちょっとおつまみ作ります。 子供が寝たあと、どうしてそうなったのか、話してくれない?」と話を聞いてあげたとしたら? そして、妻が、「失敗は、いやよね。 つらいでしょう。 でも、あなただけの責任ではないとおもいますよ。 それに、もし、この家を売らなければいけなくとも、なんとかやっていきましょうね。」

あまり日本で、こういう会話をもつ夫婦っていないのではないだろうか。 だから、40歳代、50歳代の自殺が多いのかもしれない。

なにも、妻だけを責めるつもりはない。 子供の成績が落ちたり、子供が学校で問題をおこしたら、日本の夫の中には、妻を責める人が少なからずいると思う。 自殺もあるけど、中には、成績の良いクラスメートを殺してしまった妻もいた、と記憶する。


遊女のマグダラのマリアが姦淫の罪で、石打の刑で殺されようとしているところを、「この中で、罪を犯したことの無い人から石をとって、投げなさい。」といって、マリアを救ったのは、イエス兄さんである。 兄さんは、「あなたの罪は許された。 さあ、行きなさい。」とマリアに言った。 兄さんは、「これからは、売春をやめて、がんばって他の仕事を見つけなさい。」とは言わなかった。 当時は、女性が独立して金銭を稼げる仕事はあまりなったのではないか、と想像する。 あったら、占い師とか、売春婦くらいではなかったのではなかろうか。 


日本にいるあなた、日本人社会のなかにいるあなた、アメリカで日本人社会にいるあなたがこれをたまたま読んでいてくれていて、つらいこと、いやなことがあったら、もしよかったら、メールを下さい。 Mixiでもいいです。 ここでもいいです。 私は、解決策はもっていないかもしれない。 でも、少しの間、一緒に歩いて、お話をすることが出来ると思います。

そして、がんばらなくてもいいのです。 憎んでも怒ってもいいんですよ。 それは、自然なこと。 聖書で、ねたみ、そねみ、憎しみがいけないと書いてあっても、あなたはそういう感情がでてくる人間です。 それが人間ってもんです。 それを認めてください。 それでいいんです。 それでも、神さんは許してくれるんです。 イエス兄さんがあなたのために死んでくれているから。

そいういう、負の感情をどうして処理したらいいのか、と疑問に思うでしょう。 それは、神頼みしましょう。 神様は、私たちの心を変ることくらい簡単にできる人です。 自分でできないことは、神様にすべて預けましょう。 そして、ねたみ、そねみ、憎しみ、つらさ、怒り、落胆、すべてを神様になんとかしてちょーだい、とぶっちゃけて下さい。 それでも、神様は、あなたのことを見捨てません。

そして、あなたの横には、一緒に歩いている人がいます。 イエス兄さんも実は一緒に歩いていてくれるのですよ。  だから、あなたは、もうがんばらなくてもいいのです。


あかしや番頭



 

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