N0. 107 帰宅後雑感

昨日の8月22日(金)、2週間の休暇を終えて、ダラスの自宅に戻った。 その間、まったくコンピューターとインターネットにかかわらない生活であった。

いつもの通り、今回も爺婆のいるニューメキシコ州のサンタフェへ。 でも、いつもと違うのは、オクラホマ経由で行き来したことと、中一週間、Ghost Ranchというところで、RVキャンプをしていた、ということである。

オクラホマ経由となったのは、旦那がオクラホマに出張していたので、私と子供たちがオクラホマに3時間北上して、そこから旦那と一緒にサンタフェに行くことになった。 通常、フォートワースの北から287という田舎のハイウエイにのってアマリロという町経由でI-40というインターステート(州横断)のハイウエイでサンタフェにいくのである。 北西に斜めに突っ切る感じのルートである。 オクラホマ経由だと、我が家から北上して、オクラホマでI-40を西に向かうという経路になり、三角形の二辺を行く形になる。 それでも、オクラホマからは、8時間。 我が家から直接行くと11時間。 少し、体が楽であった。

Ghost Ranchは、画家のGeorgia O'Keefe(ジョージア・オキーフ)をご存知の方なら、ぴんとくる場所である。 

詳しくは、英語の記述しかなくて申し訳ないが、以下のWebsiteにて。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ghost_Ranch
http://www.ghostranch.org/

このGhost Ranchは、谷間に在って、修養所、自給自足の放牧場、キャンプ場、ハイキングコースがある。 その中の、RV(Recreational Vehicle)専用のキャンプサイトに滞在した。 一般のキャンプ場の一角に、水道と電気のコンセントを設置した場所があり、そこにRVを留める。 水道と電気をRVにつなげば、RV内には、電気と水道が使え、家に居るのと同じ要領で生活が出来る。 もちろん、トイレもテレビも使える。

これまでは、テント生活のキャンプだったが、今回はこのようにものすごく甘やかされたキャンプとなった。 確かに快適ではあるが、私としては、あまりにも資源の使いすぎで、ここまですることもないんじゃないか、とは思う。 しかし、今回は、94才の老人をキャンプに連れていく、という計画もあったので、RVを使った。

ちなみに、このRV、爺婆がこの春に友人から買ったものである。 爺婆の住むところは、モービルホームのコミュニティーとRV Parkといって、RVで旅行する退職者たちのための施設も経営している。 普段は、このRVは、コミュニティー奥にある保管所においてある。 私たちが泊まりにくるときは、宿泊施設として、駐車場から出してきて、一泊$25を払い、滞在している。 子供は泊まってはいけないという老人コミュニティーのルールがあるので、子供たちは、爺婆のモービルホームに泊まり、私たち夫婦と犬がこのRVに泊まっている。 今回のキャンプは、このRVを購入してから、初めての遠出であった。

ほぼ同じモデルの写真があるので、以下にリンクを載せる。 車の写真の下に"click here for next photo"とかいたリンクがあるので、それをクリックすると小さいウィンドウが現われる。 再度、"click here for next photo"をクリックすると、内部の写真が出てくる。 大きさは、路線バスくらいである。 後部にクイーンサイズのベッドがある。 中部に、洗面所とトイレ。 新幹線のトイレくらいだろう。 運転席の後ろにソファーとベンチ、テーブルがある。 これらは、ベッドになる。
http://www.chooseyouritem.com/rvs/files/99500/99608.html

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バケーションといっても、ほとんどオサンドンをしていたし、2日に分けて1000キロ近い道のりを運転した疲れもあるので、今回は、一つのテーマについて書くのではなく、雑感として、複数の思いをつれづれに羅列するに留めようと思う。


インディアンの石のナイフ

Ghost Ranchの平原部のトレイルを歩いたときのこと。 ラボックから参加した家族ぐるみの付き合いをしている夫婦が草が何も生えていない箇所を指して、「ここでインディアンが昔火を炊いていたはず。 きっとやじりなどが見つかる。」と探し始めた。 確かに、半透明の白い石で削られたやじりを見つけた。 私も探したら、インディアンの石で出来たナイフを見つけることが出来た。 

刃先は包丁ほど鋭いというものではないが、ほんの一ミリほど出っ張った場所があり、その箇所で、獲った獣の皮と肉の間に穴を開けて、皮をはいだのだと思う。 石鹸ほどの大きさであるが、これがまた手にしっくりくる形に出来上がっている。 親指を当てるところには、かすかに削れているし、手のひらがあたるところは、平になっている。 人間工学的デザインになっていて、ルイジ・コラーニ以上のデザインである。 

その場所には、火山石、黒曜石、花崗岩など、いろいろな種類が転がっている。 インディアンたちは、そのなかでどの石がナイフに適していて、どの石で削れば、鋭い刃先が出来上がるかも知っていたはず。 

さらに、移動するときは、重いから、そういう石はその場に置いて移動したかもしれない。 つまり、物を所有し続けるということをインディアンはしなかったのだろう。 彼らは石垣で家も作らなかったのかもしれない。 廃墟が見当たらないので、ただそう思っただけだが。 また、鉄器を使わなかったであろうから、農業は発達しなかったであろう。 川沿いに小さな畑をつくり、そこでとうもろこしを栽培して、採種するとともに、狩猟もして、食料としていただろう。

人間は、文明というものをその手で作り始めてから残酷になった。 大量殺人も文明が起こってからの現象であろう。 文明の起こりの起因は、農業である。 定住生活をはじめ、道具を使って土地を耕し、灌漑をはじめ、さらに、鉄器の導入で生産性が伸びた。 生産高が増え、人の口を満足させる以上の食料が蓄えられるようになると、非生産者つまり、農業に直接たずさわらない階層が出来上がる。 たとえば、司祭階層、シャーマン階層、支配する階層など、鍬(くわ)を持たないい人たちが。 その人間たちから、今度は文化が発生する。 文化の英語は、Culture。 語源が「 Cultivate>Cultivation(耕作)」。 なるほど、と思う。

農業生産高が増え、人口が増え、文化の華が開く。 しかし、時に、凶作があり、民の口を満足させられないときがくると、『あいつらの土地を奪って、俺たちの空腹を満たそう。』ということになる。 鉄器は武器にもなる。 武器を作る技術も発達する。

生産高は人間で多少コントロールができるが、天候だけは、人間には、コントロールできない。 さらに、凶作などで、飢饉がくると、その後は、争いがある、というのが人間の歴史である。 日本では、飢饉のあとは、百姓一揆があった。 近代では、ドイツの第一次世界大戦後のハイパーインフレーションで国民が窮したあと、ナチスが結成されている。 1929年のアメリカの大恐慌も、第二次世界大戦の遠い原因かもしれない。 1980年代のロシアのアフガニスタン侵攻にせよ、今月のジョージア侵攻にせよ、多くの土地が凍土となってしまうロシアにとっては、南下政策は生存本能によるものだと思う。

インディアンや未開の原住民のように、小規模の耕作と狩猟生活をしている人たちは、文明の中で力と知恵を得た人間よりは、平和的であると、私は思う。 確かに、人食い人種や、よそ者を殺してしまう人種もいて、人によっては、未開の原住民のほうが残酷であるという方もいるだろう。 しかし、「大量殺人」ということは、文明のもうひとつの顔であると私は思うのである。 事実、今世紀、軍人ではない民間人を一番多く抹殺している国がある。 それは、アメリカである。


聖書の創世記には、神さんが人間の食物を地から生えるものとした。(創1:29) また、アダムが禁断の実を食べて、神さんから離れてたあと、神さんは、言われた。 「土地はのろわれ、あなたは一生苦しんで食を得なければならない。」(創3:17)

そういった意味で、人間が耕作をし、互いに殺しあうようになるのは、人間が神さんから離れてしまったことに発端するのである、と思う。


農業の発祥の地は、現在のイランまたは、メソポタミア文明圏にあたる「肥沃な三日月地帯:Furtile Cressent」といわれる。 5000年前と言われる。 その場所は、イスラエルも含まれるのではないだろうか。 そして、その地域は、聖書の舞台でもある。 イスラエルの暦年は中国4千年より長く、5000年以上である。 (今年はイスラエル暦何年であるかは、またあとで。 ちなみに年代の測定法には二種類あって、どちらの方法で5000年といっているのか、これもあとで調べて記す。)

農耕の発祥の場所と時代がなんとなく聖書と一致するのが面白い。

さらには、土地の所有というコンセプトが幕末にヨーロッパ地域とアジアとでは違っていて、それが大政奉還がどうして無血でできたか、ということにも繋がるのだということにまで思いが馳せる。

インディアンの小さな石器。 石のナイフを手に握り締めて、その触感を味わいながら、そう思いをめぐらせた次第。



マナ

Ghost Ranchはサンタフェから北西に1時間半ほど行ったところにある。 EspanolaとChamaという町の間にある。 この地域は概して夏は乾燥していて高温。 道路の分離帯にある草は乾燥していて、通常茶色なのである。 しかし、この2-3年、気候の変化で夏に雨が降るようになった。 なので、あちらこちら緑が溢れている。 14年通い続けているが、こんなに緑が見える夏はこの2年である。 それでも、Ghost Ranchは、この夏ほとんど雨が降らなかった。 

なので、キャンプ場は、乾燥しきっていて、赤い土の表面が吸着力を失って、土ぼこりが舞い散っていた。 典型的な西部劇の場面の表土である。 ばあちゃんは、なんで下に砂利を敷かないのか、これでは、RVの中も土ほこりだらけになる、と自然に対して憤慨していた。 

無理だっちゅーに。 自然には、かなわない。 神さんがつくったんだし。 それに、私らも、結局、元の土にいつかは戻るのだから、いいじゃないの。

しかし、RVの中を掃除するのは、この私。 小さな掃除機を買っても、フィルターを通して、土ぼこりが出てきてしまう。 寝ていても、のどの奥が土ほころでざらざらする感触が就寝中におこる。 窓を開けて寝ているからだろうけど。 

RVでのキャンプ滞在が一週間ということで、一週間分の食料を買い込んだ。 RVには、冷蔵庫があり、そこに食料を保管できる。 水は、蛇口をひねれば出てくる。 なんという贅沢。 家を丸ごと自然の中に移動する、というコンセプトがアメリカ人らしい考え方である。 ある意味では、自然を満喫せずに、自然の中にごり押しして、便利さをもってくる、ということか。 これでは、あまり自然のありがたさが分からんだろう。 


本格的なキャンプ、というかバックパックをすると、40キロ、50キロの荷物を背負わなければならない。 それ以上に、行程中は、午後の3時までに、テントを張れる平らな土地を探し、且つ、水のそばでないといけない。 ただし、川のすぐそばは危険であるので、多少上った場所にキャンプを設置する。 

テントを張って、水を岩から吹き出るところか、川から運んでくる。 それを沸かして、食料に使う。 日が暮れる前に、片づけを終わらせる。 特に、熊の出る地域では、食料を一つの袋にまとめて、テントからかなり離れた場所に背の高い木を見つけにいく。 ロープを巻いた石を投げて、枝にロープをかける。 そして、食料の入った袋を吊り下げる、という作業をしなければならない。 食料をテントにおいておくと、においをかぎつけてきた熊に襲われるからである。 万が一、熊がキャンプサイトに来てしまった場合には、大急ぎで、山を降りないと危険である。

そういった作業を、日がある時間帯に済ませ、暗くなると同時に眠りにつく。 シャワーなぞ浴びる余裕もなく、汗をかいた服のまま、寝袋に転がり込み、寝るだけである。 夜中に、コヨーテの遠吠えを聞いたり、時に、熊の荒い息使いが遠くから聞こえることもある。 そして、夜明けとともに起き、オートミールだけの簡単な食事を済ませ、水を汲んできて、フィルターで濾して携え、重いバックパックを担いで山の中を歩くのである。

モーゼに率いられた100万人以上(いや、200万人以上だっけ?)のイスラエルの民は、エジプトを出たあと、荒野で宿営した。 シナイ半島の荒野の気候と水源は、現在とは多少違っていたであろうが、民は飲み水が無くて苦労した、と聖書に書いてある。 水が無ければ、食事をすることは非常に難しい。 また、それまで430年間エジプトの「文明」の中にいたイスラエルの民は、多くが狩猟ということをしなかったであろう。 

だから、彼らは、モーゼに叫んだ。 この荒野で私たちを殺すのか、と。


今回の軟弱キャンプでも、イスラエルの民の状況は少しは経験できる。 雨の降らない乾いた土地で土ぼこりになるだけでも。 本格的キャンプでは、まさに民の状況となる。

そんな民の非難に悩まされたモーゼが神さんにお願いしたので、神さんは、岩から水を出し、マナという食べ物を40年間欠かさず降らせ、うずらの大群をよこして、たんぱく質を補給させた。

ただ、ウズラの量が多すぎて、食べきれず、結果的に疫病が流行って、多くのイスラエルの民が死んだ。

キャンプ場の赤い乾いた土の上で、マナはどんな味だったのだろうか、と思った。 子供のころ、「マンナ」という子供のお菓子があった。 牛乳だけで練った子供の栄養食であった。 あのマンナというお菓子は、聖書のマナから来たことばだったのか、と自分の子供が5歳を過ぎてから気がついた次第。 


9年ほど前、夫と二人きりで、モンタナのBob Marshall Wildernessで、100マイルの行程をバックパックした。 頼るのは、自分の足と小川の水、岩から出る水、小さな平らな場所だけであった。 熊にも注意しなければならなかったから、毎日毎日がサバイバルであった。 イスラエルの民と同じ状況であった。

岩から美味しい水がふんだんに出て、マナというほんのり甘そうなふわふわしたようなもの(と勝手に想像する)が食べれてるだけでも、ものすごい祝福だと思う。 なにせ、水と食料を探さなくていいのだから。 

文明とは、残酷でもあり、人間を甘やかすものであると思う。 今、コンピューターの前に座っているが、家の中は冷房がある。 水道もある。 冷蔵庫もある。 人間の生活はある意味では進歩しているが、人間の脳は後退してるのではないか、と思う。


子供の遊び


RVのキャンプ場では、最初はテレビが無かった。 というか、受信しないだろう、と思い込んで、RVの中にあるTVをつけることをしなかった。 当然、携帯もインターネットもなし。

なんとシンプルな生活であろうか。 

でも、こうして現実に戻ると、コンピューターの前にすわり、タイプしている。 昨日は、DVDを見てしまった。


キャンプ場では、子供たちをつれて、ほとんど毎日ハイキングをしていた。 しかし、後半になって、キャンプ地にとどまる時間があった。 暗い雲が来るのが見えるのと、風の中に雨のにおいがあったので、これはハイキングにでないほうがよいとの判断で、キャンプ地にとどまった。 

そのとき、子供たちは何をしていたか、というと、そとで、蟻を捕まえて、水攻めにしたり、石を見つけて、それを割ってみたり、変わった模様の石を見つけてきたり、と土と戯れていた。

水を流して、土の上にダムをつくり、そこに蟻を泳がしたり、と結構残酷なこともしていたが、そのダム、といういか、古代都市の有様のオブジェであった。

子供というのは、自然が回りにあれば、その中で遊ぶものである。 

私は、子供のころは、テレビは見なかったし、ビデオなんてものもなかった。 コンピューターというか、パソコンが存在するまえの時代。 コンピューターがあったとしたら、Mainframeと呼ばれる大型のコンピューターが日本にあったかどうかの時代。

遊びは、近くの田んぼや森にいって、かえるを爆竹で飛ばしたり、ターザンしたり、桑のみを食べ過ぎて下痢した、ということばかりであった。 蓮華草で冠を作ったり、花でお人形さんごっこをしたり・・・。 ともかく、自然の中で遊んでいた。

ダラスに戻り、子供たちは何をしたか、というと・・・Webkinsなどのオンラインゲームを帰宅するなり始めた。

あーあ。

子育ては、つくづく環境だ、と思うのであった。

****************

と、ここまで書いて、老眼がひどくなったので、もう辞める。

午後3時少し前であるが、まだなんとパジャマのまんま。
これから昼寝を少しするか。

目の前の藤棚の藤がだいぶ大きくなっている。 棚を全部覆ってくれるにはあと2年かかりそうだ。

来週から子供の学校が始まる。 自然に囲まれていない現実。 でも、これが置かれた状況。 すこし暑さがおさまったら、裏庭をもっと「自然界」に近づけることをしてみよう。


あかしや番頭

コメント

ヒゲMac(BinkyBlue) さんの投稿…
ご無沙汰です!(^_^)
お元気してますね。
日本は暑かったです、特にヒゲの岡山は・・・38度の連続でした。(体温こえてるぜーですよ・・トホホ)
相変わらず教会にまったく顔を出していませんが、それでも毎日日々父なる神の祝福をうけているのが実感できるのですが、その事から前々からメール等で記してきたことですが「やはり神様の想いは我々の人知を超えている、よって人が思っている事とは全然違う想像すらできない理由がそこにあって我々を導いてくれている感じがする」でした。
その証に「ヒゲの様な内容の人物だと聖書の(特に旧約)教えだと救ってもらえない、見放された存在」なのですが、こうして毎日祝福を受けています。(1ヶ月や半年ではありません、何年も)
神様が我々に現したい事は今クリスチャンと言われている人達がよく口にする救いやこうあるべきと決めたようなものでは全然ないのではないかと感じるようになり、そしてそれは日増しに強くなっていってます。
よく新約を読むとイエスが民に言っていました「モーセの律法などは私の今このときまでで終わっている」と言うセリフがあります。
とにかくまだまだ旧約に縛られて律法に縛られている人々が多くいる事がわかります。
ヒゲは自分がこうしてイエスキリストと父なる神様に多く助けてもらい正直とても嬉しいです、しかし一番この事で人々に言いたいのは自分は助けて貰ってるラッキー!では全然まったく毛頭ありません!
一番言いたいのは「このような聖書ではダメとされている事をとことんやっている人間をも平等に救ってくださっている事によって、社会的に罪人でも、聖書の中で記されている罪人でもまったく関係なく神の愛(アガペの愛)はおしみなく注がれ続けていると言うこと、聖書をそのまま鵜呑みして自分はダメなんて決しておもわないで良いこと」が強く理解してもらえたらと思うのでした。
ですからクリスチャンでなくても「何か自分が心の底から、出来るのなら命をかけられるぐらい信じられる存在」と手を結んでいるとその存在は「神」となると言うことです。
聖書を通して父なる神がイエスキリストを通してまでも伝えたのが「信仰」です。
Akashiya さんの投稿…
ひげさん、

本当に御無沙汰してしまって、すんまへん。

私は、ひげさんのだいぶ前のメールで、まさに、イエス兄さんの「救い」というのは、旧約に書かれたことを超越した、と実感しました。

新約時代、つまり、イエス兄さんによる新しい契約の時代の現在でさえ、律法主義にとらわれている人がたくさんいます。 クリスチャンのなかには、「パリサイ人」がまだたくさんいる、ということです。

人の顕在的な罪を揶揄する人は多い。 でも、その人たちも罪びとであり、同じ穴の狢(むじな)にしか過ぎない。 見えない罪はたくさんそれぞれの人間の心にすみついています。 あなたが非難している人と同様にあなたも罪人である、ということを認識できれば、争いも、他人への批判も少なくなるのでしょうけど。 

この世に正しい人間は一人も存在しない。 正しいのは神さんだけだ、と私は思います。 というか、そう聖書に書いてあるし。


イエス兄さんも神さんも懐のでっかい方たちです。 そして、私たちのために流されたイエス兄さんの血潮は、心で信じ、口で告白した人たち、「全員」に降り注がれています。 そこには、なんの優越も差別もないんです。

これは、ものすんごいプレゼントですよね!

ところで、38度ですかぁ! 車のボンネットで目玉焼き、できるかも。 

こちらは、心持すこーし暑さがおちついたようです。
ヒゲMac(BinkyBlue) さんの投稿…
 そうですそうです(o^^o)
おっしゃる通りですねぇ。
みんなに世界中のみんなに平等に注がれている。それに気づくかどうかです。

 でもイエス兄さんがおっしゃてたのに、中には盲目にされている人もいると・・・見ても見ず、聞いても聞かない・・・辛いです。

 天国って先の者が後になり、後の者が先になる・・・この例えのように今の我々の世界感では納得できない場であるという良い例ですね。

 この世界に埃の出ない人は誰もいません。そして埃は叩いても叩いても出てきます。それだけ我々の罪(埃)は際限はないって事です。埃まみれの中に住んでいるのですから仕方有りません、でもそこを少しでも白く生きようとしていくことが大事ですねぇ。そしてあなたの十字架を背負ってきなさいと言われます。そのままの今のままの貴方で良いと・・・とても嬉しい言葉ではありませんか!

 罪を捨てて清くなるのですとは言われてません。貴方の罪を(十字架を)そのまま背負って私の所にきなさいなのですから。人間の事がよくわかってらっしゃる(o^^o)

 さて38度はまだ可愛いのですが、去年埼玉の熊谷は40度を超えてましたですねぇ。とにかく体温を超えた状況では身の回りの物が体温より温かいのでどれを触っても温かい、床なんて真夏の床暖房でしたよσ(^◇^;)

 こんな状況でも人は学習しないようです。

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