No. 51 わしらと神さんとの距離
お久しぶり。
前投稿の「断食」に愛の行為を始めた、と書いたよね。
それ、やっと完成した。 ほかに、いろいろやらなきゃならないことがあって、あんれまー、いそがしかったよ~ん。
今日、土曜日の午後は、時間がとれるそー、と思っていたら・・・・・・・・
旦那の同僚で、もう私の友達でもあるジムの息子が死んだ、という連絡が入った。 30代の人で、先妻との間にできた子供だけど、一人息子である。
連絡をうけたときは、日本語学校で当番していた時であった。 ジム夫妻の家は日本語学校からさほど遠くないので、私が旦那の代わりに行くことにした。
家に行くまで、天のお父さんに、言葉を与えてください、と頼んだ。 だって、子供の死って私は経験したことないし、したくもない。 その息子さん、結構大変な人生だったらしい、とは聞いていたし。
家に着いたら、すでにジムのクリスチャンの友達が沢山いた。 ジム夫妻は、寝室で休んでいるということで、待つことに。 夕飯の準備もあるが、旦那はわかってくれるだろうし。
暫くして、出てきたジム夫妻は、しっかりと立ち、微笑みを浮かべていた。 そして、クリスチャンの友人とともに、イエス兄さんありがとう、ありがとう、と感謝していた。
いったい何がおこったんですか? と聞くと。
頭に銃弾2発打ち込まれて死んだ。
殺人であった。
ダラスから3-4時間南のオースティンというテキサスの首都に住んでいた息子さん。 亡くなった場所はそこではなかったそうだ。 仕事関係らしい親子がいて、その父親に殺されたらしい。 詳しいことは、父親であるジムもわからないそうだ。 今、警察が捜査中である。 葬式は火曜日ー水曜日らしい。
私は暫くだまって、ジム、奥さん、友人たちの話をじーっと聞き入っていた。 私の目は息子さんの写真にそそがれていた。
6時半になり、夕飯の支度をしなければならず、家に帰ることにした。 そして、ジムの横に座り、肩を抱き、手を握り祈った。 いつも祈るのは日本語なので、英語がでるかどうか・・・。 でも祈ることが大切だと祈った。
お父さん、
私たちは、こういうことがあると、何故ですか?? 何故なんですか??
と問います。
あなたは、それには答えてくれないときもあります。 答えてくれるときもあります。
でも、こういったこともあなたのプランの一つなんでしょう。
聖書の中に、
生まれるときがあり、死ぬ時がある。
憎む時があり、愛する時がある。
壊す時があり、建てるときがある。
とあります。
これもあなたが選ばれた時なんでしょうか?
どうか、ジムの祈りに答えてあげてください。
そして、ジムと奥さんに人を許す力と勇気を与えて下さい。
強くしてあげてください。
アーメン
生まれて初めて、アメリカ人の人に英語で祈ったのである。
******************************
生まれるときがあり、死ぬ時がある・・・ は、旧約聖書の伝道者の書の第三章。
ジムの家にいく車の中で頭のなかに浮かんできた。
そして、この章は、一年前、母が失っていたイエス兄さんへの信仰をとりもどしたきっかけとなった、私にとって忘れがたい聖書の箇所でもあった。
ジム夫妻にとって、今は、多くの人が毎日訪れ、わいわいしている。 変な話、日本でも葬式で初七日が終わると急に寂しくなる、というけど、同じことなんだろうな、アメリカでも。 ショックもあるけど、それより、忙しくて、悲しみだけしかない、という時期。
でも、一ヶ月、二ヶ月と経つにつれ、怒り、人を責める心、自分を責める心、というのが芽生えてくる。
最初の嵐が過ぎ去ったあとがつらいのである。 これは、私の今年の状態であるから、よくわかる。
ジムの場合、一人息子さんの死は加害者がいる、ということが私ごときのレベルではない。
自分の愛する者を殺した人間を許せるだろうか??
いかなる時にも、喜びなさい、と聖書はいうけど、こんな時に喜べるか??
人を許し、その上に愛の帯をつけよ、とも聖書にある。 殺人者を許す上に、愛せるか??
できっこねーじゃんかよーーーー!!!!!
理不尽だ。 現実と聖書はかけ離れている。 人間と神さんの言葉はかけはなれすぎとるぅぅーー!!!
6月のBlog"父の日”にて書いたが、聖書の父母を敬え、という箇所をみて、小学生の私は、できっこねーいぇー、と教会を離れた。
わしらと、神さんとの間には、何百万光年という天文学的距離がある。 手が届かないってやつ。
「あたしは、クリスチャンだから、許さなきゃ、許さなきゃ、許さなきゃーーー、あーぐぐぐぐぅーー」って苦しむ人も沢山いるだろう。
さらに、追い討ちをかけるように、回りが、
「あんたは、クリスチャンだから、許しなさいよぉ~」
「キミィ、クリスチャンだろぉ。 だったらさぁ、そんなこといってはいかんじゃないの?」
「え~、あの人、クリスチャンのくせに、こんなこといっているぅ~」
「聖書では、こういっているよ。」
「聖書を読みなさい。」
とあほなちゃちゃいれるからさ、クリスチャン人口、アメリカで減ってるし、日本でクリスチャン人口が1%あたりをうろうろしちゃってんじゃないの!?
あたしゃ、最近、思うよ。
クリスチャンだろうが、アグネス・チャンであろうが、かとちゃんであろうが、人間なんだから、「許す」ことは、不可能に近い。 自分や自分が愛する人を傷つけたり、いやなことした人間を許すのってできっこないだろ! と公言する。
ここまで、読んでもらって、なんだこいつ、よくクリスチャンやってるな、と思う人もいるだろう。 そう、よくクリスチャンやっているよ、だよね。
あたしゃ、クリスチャンである前に人間なんだよ。 アダムとイブが善悪を知る実を食べてしまったため、神様に、出て行け~、と勘当された人間さ。 生まれたときから、勘当されているのさ。
さて、ここで、善悪を知るのが何で悪いの? と思うでしょ?
私もわかんなかった。 でも、「クリスチャンの成長を阻む12の誤解」という本を読んでわかったよ。
あのさ、神様と一緒にいたときは、人間って善悪を知る必要がなったんだよ。 だって、アダムとイブが作られたときは、お父さんがそばにいたから、自分で判断しなくても、良かった。 善悪を自分たちで知る必要がなったんだって。 でも、人間は自分たち自身の判断力、ものの良し悪しを自分のレベルで判断しようとしたから、天のお父さんから離れてしまった。 だから、天のお父さんはめったに話しかけてくれなくなったんだ。
そんな人間が私たち。 だから、聖書の通りにできるイエス兄さん、神さんとの乖離(かいり)ができてしまったんよ。 エベレストのクレバスみたいに、大きく、深く、落ちたら命がなくなるような亀裂がね。 実際、落ちる人多いんだと思う。 だから、人間は人を許せない。 愛せない。
じゃあ、どうしたらいいの?
うん、私もどうしたらいいかわからなかったから、神さんに聞いた。
「神さん、あたしゃ、人間だから、許せない! そういうことを可能にするのがあなたです。 だから、私に○○が許せるようにしてください。」と頼んだ。 人間でできはしないことだからこそ、「神頼み」なんだと思う。
神さんとの距離があって、人間では飛び越えられないからこそ、神さんに祈るんだと思う。 必死に祈るんだと思う。 弱い人間のレベルではできないことこそ、神さんに頼むしかないのである。
深い深いクレバス。 下は奈落の底で、暗黒が待っている。 そこに、ある人が体を横たえて、橋になってくれた。 「さあ、私を踏みつけてもいいから、あなたの父の所に行きなさい。」 雪山で、がちがちに寒いなか、両手は片側にあり、血がにじんでいる。 足も震えているが、なんとかしっかりと反対側に届いている。 クレバスに落ちる人があれば、手を伸ばして、しっか、と捕まえて、自分の体の上に上げて、向こう岸に渡してくれる人がいる。
その人はイエス兄さんだ。 天のお父さんとの私たちの間に身を横たえて、架け橋となったのだ。
ジムには、これから本当につらい日々がまっているんだろうなぁ。 それに較べたら、私が今苦悩していることなんて、小さいもんだ。 でも、こんな状況でも、イエス兄さんを称えていたジムには、イエス兄さんがちゃんと橋渡しをしてくれて、奇跡的なことが起こるんじゃないだろうか、と思う。 いや、信じるのである。
でも、一ヶ月たったころ、クリスマスのあたり、ジムたちはつらいだろうから、あたたかいスープを作ってもっていこう。
あかしや番頭
前投稿の「断食」に愛の行為を始めた、と書いたよね。
それ、やっと完成した。 ほかに、いろいろやらなきゃならないことがあって、あんれまー、いそがしかったよ~ん。
今日、土曜日の午後は、時間がとれるそー、と思っていたら・・・・・・・・
旦那の同僚で、もう私の友達でもあるジムの息子が死んだ、という連絡が入った。 30代の人で、先妻との間にできた子供だけど、一人息子である。
連絡をうけたときは、日本語学校で当番していた時であった。 ジム夫妻の家は日本語学校からさほど遠くないので、私が旦那の代わりに行くことにした。
家に行くまで、天のお父さんに、言葉を与えてください、と頼んだ。 だって、子供の死って私は経験したことないし、したくもない。 その息子さん、結構大変な人生だったらしい、とは聞いていたし。
家に着いたら、すでにジムのクリスチャンの友達が沢山いた。 ジム夫妻は、寝室で休んでいるということで、待つことに。 夕飯の準備もあるが、旦那はわかってくれるだろうし。
暫くして、出てきたジム夫妻は、しっかりと立ち、微笑みを浮かべていた。 そして、クリスチャンの友人とともに、イエス兄さんありがとう、ありがとう、と感謝していた。
いったい何がおこったんですか? と聞くと。
頭に銃弾2発打ち込まれて死んだ。
殺人であった。
ダラスから3-4時間南のオースティンというテキサスの首都に住んでいた息子さん。 亡くなった場所はそこではなかったそうだ。 仕事関係らしい親子がいて、その父親に殺されたらしい。 詳しいことは、父親であるジムもわからないそうだ。 今、警察が捜査中である。 葬式は火曜日ー水曜日らしい。
私は暫くだまって、ジム、奥さん、友人たちの話をじーっと聞き入っていた。 私の目は息子さんの写真にそそがれていた。
6時半になり、夕飯の支度をしなければならず、家に帰ることにした。 そして、ジムの横に座り、肩を抱き、手を握り祈った。 いつも祈るのは日本語なので、英語がでるかどうか・・・。 でも祈ることが大切だと祈った。
お父さん、
私たちは、こういうことがあると、何故ですか?? 何故なんですか??
と問います。
あなたは、それには答えてくれないときもあります。 答えてくれるときもあります。
でも、こういったこともあなたのプランの一つなんでしょう。
聖書の中に、
生まれるときがあり、死ぬ時がある。
憎む時があり、愛する時がある。
壊す時があり、建てるときがある。
とあります。
これもあなたが選ばれた時なんでしょうか?
どうか、ジムの祈りに答えてあげてください。
そして、ジムと奥さんに人を許す力と勇気を与えて下さい。
強くしてあげてください。
アーメン
生まれて初めて、アメリカ人の人に英語で祈ったのである。
******************************
生まれるときがあり、死ぬ時がある・・・ は、旧約聖書の伝道者の書の第三章。
ジムの家にいく車の中で頭のなかに浮かんできた。
そして、この章は、一年前、母が失っていたイエス兄さんへの信仰をとりもどしたきっかけとなった、私にとって忘れがたい聖書の箇所でもあった。
ジム夫妻にとって、今は、多くの人が毎日訪れ、わいわいしている。 変な話、日本でも葬式で初七日が終わると急に寂しくなる、というけど、同じことなんだろうな、アメリカでも。 ショックもあるけど、それより、忙しくて、悲しみだけしかない、という時期。
でも、一ヶ月、二ヶ月と経つにつれ、怒り、人を責める心、自分を責める心、というのが芽生えてくる。
最初の嵐が過ぎ去ったあとがつらいのである。 これは、私の今年の状態であるから、よくわかる。
ジムの場合、一人息子さんの死は加害者がいる、ということが私ごときのレベルではない。
自分の愛する者を殺した人間を許せるだろうか??
いかなる時にも、喜びなさい、と聖書はいうけど、こんな時に喜べるか??
人を許し、その上に愛の帯をつけよ、とも聖書にある。 殺人者を許す上に、愛せるか??
できっこねーじゃんかよーーーー!!!!!
理不尽だ。 現実と聖書はかけ離れている。 人間と神さんの言葉はかけはなれすぎとるぅぅーー!!!
6月のBlog"父の日”にて書いたが、聖書の父母を敬え、という箇所をみて、小学生の私は、できっこねーいぇー、と教会を離れた。
わしらと、神さんとの間には、何百万光年という天文学的距離がある。 手が届かないってやつ。
「あたしは、クリスチャンだから、許さなきゃ、許さなきゃ、許さなきゃーーー、あーぐぐぐぐぅーー」って苦しむ人も沢山いるだろう。
さらに、追い討ちをかけるように、回りが、
「あんたは、クリスチャンだから、許しなさいよぉ~」
「キミィ、クリスチャンだろぉ。 だったらさぁ、そんなこといってはいかんじゃないの?」
「え~、あの人、クリスチャンのくせに、こんなこといっているぅ~」
「聖書では、こういっているよ。」
「聖書を読みなさい。」
とあほなちゃちゃいれるからさ、クリスチャン人口、アメリカで減ってるし、日本でクリスチャン人口が1%あたりをうろうろしちゃってんじゃないの!?
あたしゃ、最近、思うよ。
クリスチャンだろうが、アグネス・チャンであろうが、かとちゃんであろうが、人間なんだから、「許す」ことは、不可能に近い。 自分や自分が愛する人を傷つけたり、いやなことした人間を許すのってできっこないだろ! と公言する。
ここまで、読んでもらって、なんだこいつ、よくクリスチャンやってるな、と思う人もいるだろう。 そう、よくクリスチャンやっているよ、だよね。
あたしゃ、クリスチャンである前に人間なんだよ。 アダムとイブが善悪を知る実を食べてしまったため、神様に、出て行け~、と勘当された人間さ。 生まれたときから、勘当されているのさ。
さて、ここで、善悪を知るのが何で悪いの? と思うでしょ?
私もわかんなかった。 でも、「クリスチャンの成長を阻む12の誤解」という本を読んでわかったよ。
あのさ、神様と一緒にいたときは、人間って善悪を知る必要がなったんだよ。 だって、アダムとイブが作られたときは、お父さんがそばにいたから、自分で判断しなくても、良かった。 善悪を自分たちで知る必要がなったんだって。 でも、人間は自分たち自身の判断力、ものの良し悪しを自分のレベルで判断しようとしたから、天のお父さんから離れてしまった。 だから、天のお父さんはめったに話しかけてくれなくなったんだ。
そんな人間が私たち。 だから、聖書の通りにできるイエス兄さん、神さんとの乖離(かいり)ができてしまったんよ。 エベレストのクレバスみたいに、大きく、深く、落ちたら命がなくなるような亀裂がね。 実際、落ちる人多いんだと思う。 だから、人間は人を許せない。 愛せない。
じゃあ、どうしたらいいの?
うん、私もどうしたらいいかわからなかったから、神さんに聞いた。
「神さん、あたしゃ、人間だから、許せない! そういうことを可能にするのがあなたです。 だから、私に○○が許せるようにしてください。」と頼んだ。 人間でできはしないことだからこそ、「神頼み」なんだと思う。
神さんとの距離があって、人間では飛び越えられないからこそ、神さんに祈るんだと思う。 必死に祈るんだと思う。 弱い人間のレベルではできないことこそ、神さんに頼むしかないのである。
深い深いクレバス。 下は奈落の底で、暗黒が待っている。 そこに、ある人が体を横たえて、橋になってくれた。 「さあ、私を踏みつけてもいいから、あなたの父の所に行きなさい。」 雪山で、がちがちに寒いなか、両手は片側にあり、血がにじんでいる。 足も震えているが、なんとかしっかりと反対側に届いている。 クレバスに落ちる人があれば、手を伸ばして、しっか、と捕まえて、自分の体の上に上げて、向こう岸に渡してくれる人がいる。
その人はイエス兄さんだ。 天のお父さんとの私たちの間に身を横たえて、架け橋となったのだ。
ジムには、これから本当につらい日々がまっているんだろうなぁ。 それに較べたら、私が今苦悩していることなんて、小さいもんだ。 でも、こんな状況でも、イエス兄さんを称えていたジムには、イエス兄さんがちゃんと橋渡しをしてくれて、奇跡的なことが起こるんじゃないだろうか、と思う。 いや、信じるのである。
でも、一ヶ月たったころ、クリスマスのあたり、ジムたちはつらいだろうから、あたたかいスープを作ってもっていこう。
あかしや番頭
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