No. 54  落ち葉を踏みしめ、ワーズワースの詩をおもふ

前、ブログを書いたあと、なんと胃に来る風邪に子供と一緒にかかり、一週間ほど機能しない状態になっていた。 お腹は痛いし、気持ち悪いし。 子供たちはげろげろでその洗濯やら。 そんな時に、日本の盆暮れ正月のような季節が到来したアメリカ。 11月23日はサンクスギビングって言って、親戚家族一同が集まる日。 陸、空ともに、往来の多い忙しい日。 

やっと調子が戻ったが、今度は、日本に野暮用で帰国する。 その準備で忙しいんだが、なんか神さんに「書け」といわれとるようなので、帰国前に、書くことにした。

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毎朝、森の中で祈りの時を持つようになってから、もう一年以上になる。 いつも歩く小道の上は、今は、落ち葉で一杯である。 祈りの場所へは、森の中にはいる小さな道がある。 落ち葉を踏みしめて、祈りの場所にいく。 さくさく、という音があり、雨のあとは、ぐしゅぐしゅと音を立てながら。


母は膠原病を25年以上、わずらっていた。 常用していた多くの薬があったが、そのなかの薬で骨髄をやられ、白血球が激減する症状を死までの2年間繰り返した。 一年の間に、入退院を10回近くくりかえした末、実家から2-3時間かかるところに訳あって連れてこられてしまった。

去年の10月、入院中の母の元に帰った。 自分の家から引き剥がされて、狂ってもいないのに、精神科の病棟にいれられ(そこしか受け入れ先が無かった)、周りはまともな話が出来る人間は看護婦以外にはいなかった。 母は長期入院がたたり、歩けなくなっていた。 自分が好きだった身の回りのものも一切もってこれず、ただ、一人、病室のベッドにいた。 母は、私が死ぬのはここかねぇ、とぽつんと言った。


奇跡的なことが起こり、普通では起こらないことが起こった。 婦長さんが独自の判断で、私は母の病室に泊まって良い、ということになった。 海外から遥々来た人でも、普通はそういう待遇はしない、といわれたが、特別に、と言われた。 荷物を病室に運び、私は病室で母と時間を過ごした。 疲労と戦いながら、夜中に体が痛いという母に起こされ、背中をさすり、寝れない日々であった。 それでも、母に按手し、祈り、聖書を読んであげた。 本当に疲れたある夜のこと。 ある聖書の箇所を読んでいた時、母はイエス兄さんの元に回帰した。 「今まで信じなかった私をお許しください。 イエス様、あなたを信じます。」と。 聖なるバディーが母のそばにいた。 

私がアメリカに戻るため病室を去るとき、母は言った。 「もう会えないかしらね。」 「次の春に会えるよ。 もし、あえなくても、ママはイエス兄さんを信じると言ったよね。 だから、また、天国で必ず会えるよ。」

母は、私の姿を網膜に焼き付けようとしていたんだろう。 ベッドの柵にしがみつきながら、ただ、ただ、じっと私を見つめていた。 まばたきもせずに。


アメリカに戻り、また、いつもの朝の祈りに森に通った。 11月になり、寒い風が吹いた。 リスたちが地におちたどんぐりを拾うのに忙しく働いていた。 紅葉も始まったか、と思いきや、あっという間に葉は地に落ちていった。 そして、秋の雨が降った。


落ち葉は、ひらひらと舞い落ちる。 その葉は、木についていた時は、太陽の光をうけ、風に枝とともになびき、人生の栄華を誇ってた。 時が絶ち、光を浴びて輝いていた葉の光沢は失せ、緑から黄色、茶色、赤色に変わる。 そして、風が吹くと、なんの前触れも無く、無情にも、はらりと地面に落ちる。 落ちた葉の上を人間が、動物が歩く。 なんどもなんども歩く。 踏みにじられる。 雨が降る。 また、踏みにじられる。 これでもか、これでもか、と。 地に落ちても、ようしゃなく。 そんな濡れ落ち葉は、まるで母の晩年であった。 なんと悲しく哀れな母の人生であったことか。 汚い落ち葉のまま木につる下がり、そして、地に落ちて、さらに残酷に踏みにじられた母の晩年であった。 


そんなことを考えているうちに、12月。母の訃報が届いた。 母がイエス兄さんに回帰を遂げてから2ヵ月後のことであった。 死は早く、安らかであったらしい。 敗血症であった。 


母の葬式から戻り、クリスマスを旦那の両親と過ごし、ダラスに戻ってきた。 新年の前後は、大風邪をひいて、ぶったおれた。 回復し、また森の中に入り、祈りの日課に戻った。 さくさくと落ち葉の上を歩いた。 祈りの場所へのけものみちを歩いた。 

落ち葉が踏みつけられて、細かくなっていた。 一部、土が見えていた。 よーくみると、土の部分から、だんだんと細かい葉の残骸に続き、やや大きな葉の破片、そして、全体が残っている落ち葉へと、落ち葉が土になっていく経過が見られた。 時を重ねるに従って、落ち葉はだんだんと土に変わっていった。


落ち葉は踏みにじられて土に変わっていくのである。


その土に木の根が這い、栄養を吸収していく。 春には、ものすごい力で、硬い木や枝の表面から新芽が出、花が咲く。 新芽は春、夏の太陽を受け、輝く。 そこで光り輝くのである。 その原動力は何か?


それは、踏みにじられた落ち葉なのである。


突然、高校生の時に親しんだワーズ・ワースの詩が蘇った。



草原の輝き 花の栄光

再びそれは還らずとも

嘆く無かれ

その奥に秘められたる力を見出すべし



この詩は年配の方ならご存知の方がいると思う。 ナタリー・ウッド、ウォーレン・ビーティー主演の1961年の映画「草原の輝き」の中で読まれた詩であるから。 

私はこの詩の意味がわからなかった。 高校のときからだから、もう30年、わからなかった。 「その奥に秘められたる力」ってなんだろう、と思っていた。


しかし、今、わかった。「その奥に秘められたる力」は、朽ち果てて、踏みにじられた落ち葉が土に戻り、分解され、木の根に吸い上げられ、翌春、新芽を出し、花を咲かせる「力」なのであった。


この詩の原文を記す。 今、夜中の1時になってしまったので、訳す時間は今日はないが。

What though the radiance
which was once so bright
Be now for ever taken from my sight,

Though nothing can bring back the hour
Of splendour in the grass,
of glory in the flower;

We will grieve not, rather find
Strength in what remains behind;
In the primal sympathy
Which having been must ever be;
In the soothing thoughts that spring
Out of human suffering;
In the faith that looks through death,
In years that bring the philosophic mind.

William Wordsworth


上記の日本語訳は映画の中に出てくる。 しかし、原文を読んでみると、「再びそれは還らずとも
嘆く無かれ。 その奥に秘められたる力を見出すべし」(We will grieve not, rather find
Strength in what remains behind;)の後にとてもいいことが書いてある。 「力」を見出すのは、残ったもの(what remains behind)だけではないのである。


In the primal sympathy
Which having been must ever be; いたわりの気持ちの中に(力を見出す)

In the soothing thoughts that spring
Out of human suffering;  苦しみからわき出でるなだめる思いの中に(力を見出す)

In the faith that looks through death, 死の向こうまでも見通す信仰の中に(力を見出す)

In years that bring the philosophic mind. 時とともに思慮深くなった心の中に(力を見出す)



今、あなたには、病気の親がいて苦しんでいるかもしれない。 愛するものが苦しむのを見るのは、耐え難い。 また、介護をする者にとっては、身体的、経済的負担がものすごくかかる。 海外にいて、日本にいる病気の親を思って涙する人もいるだろう。 死へ至る道はきれいではない。 時にむごく、時に残酷であり、神はいるのか?と考えざる終えない状況おある。 

私はその道を去年、おととしと通ってきた。 何故?という問いかけに、私は回答は用意できない。 私個人が通ってきた限られた経験から言わせてもらえば、こういうことかもしれない。


母の苦しみは、母が天国に行くために必要だったのかもしれない。 

母が濡れ落ち葉なら、その落ち葉のお陰で、夏の光を受けて輝く次の世代の私がいるということ。

母の苦しみ、それに続く私が今、受けている試練によって、神さんが私の心に刻印したいことがある、ということ。


苦しみの中にいて、先が見えない人にとっては、ちょっと超越した考えかもしれない。 でも、この2年、祈り続けた結果、私はそう思う。

このワーズワースの詩が、あなたの心に少し安らぎを与えてくれれば幸いである。



母の一周年の命日は12月10日である。 12月9日から19日まで日本に帰国します。


あかしや

コメント

匿名 さんのコメント…
>>母の苦しみは、
母が天国に行くために必要だったのかもしれない。

ずっしり来る一言ですね。
とても大変な思いをされた、ということが伝わってきました。

私も年末日本に一時帰国します。
その時は家族に優しくしようと思います。
Akashiya さんの投稿…
最大の愛とは、その人を天国に行かれるようにしてあげること、だといいます。 去年の修養会に来られた中條牧師というかたがおっしゃっていた。 それは、真実である。

しかし、生きている間に出来ることがあると思う。 死んだ時の葬式、法事は慣習として日本にあるが、それは、残された人の為であって、亡くなった本人の為ではない。

だから、力を尽くして、生きている間に孝行なり、優しいことばをかけるなりすべきだと思う。 死んだら、もう遅すぎるから。

気をつけていってきてね。

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