No. 67 時間のやりくりと要領

ここで告白する。

私は遅刻大王である。 

中学の頃から、遅刻は得意であった。 まだ、時間あるやーっていつも構えていて、直前になって青くなって、ばたばた・・・。 早くいって待ってりゃいいのに、どうもぎりぎりまで、うだうだしている。 結果遅刻となる。 

高校のときは、学校まで7分というところに住んでいて、学校と家の間に担任が下宿していたので、歩いて学校に向かっている担任を走って追い越せば、遅刻にならなかった。 まったく自慢にならない。

母に生前言われた。 あなたは、このことでいつか大失敗する。と。

失敗、とは意識しないまでも、信頼は失っているんだろう。 あーあ。 子供にも悪い影響、与えてるんだろうなぁ。


さらに、私は時間の使い方がへたくそである。 これを少しここでやって、次にこれをここからやって、という芸当ができない。 何か始めて、それに没頭してしまうと、途中で止められない。 次に計画していたものが出来なくなる。 一度始めたことは、集中してしまうと、かっぱえびせんの状態。 ♪やめられない、とまらない、かっぱえびせん♪、なのだ。 以前、上司に「お前は竹槍投げだ!」といわれたくらい、何かを始めると、職場にも帰ってこなかったり・・・。 しかし、竹やりって、今でもあるのか? まあいいや。

そんなことで、毎週のように、後悔ばかりしている。 このBlogだって、今日は辞めとくかと、思っていても、書き始めると一気に書いてしまうので、結果として、寝るのが遅くなり、翌朝つらいのである。 そんなことしてるから、朝は、子供たちを短時間で食べさせたり、あげくのはてに、送っていく車のなかで食べさせるということになる。 ぐうたら母親である。


さて、こんなアホがMIXIというオンラインコミュニティーにはまったらどうなるか、それは火を見るより明らかである。 28年ぶりの高校の同窓会の連絡をMIXIでやっていた、という理由もあるが、別のコミュニティーで、いろいろあり、そこで時間をさいて、投稿していた。 なので、結構時間を取られていたようである。

いつものことながら、どつぼにはまっていたんだと思う。  これが度を越すと、日本語では、「○○中毒」「○○依存症」と呼ばれて、英語だと、「○○Abuse」とか、「○○Addiction」となるんだろう。


しかし、先週の日曜日から一日のスケジュールを変えた。 

朝は、いつものように森のなかでお祈り。 そのあと、ピアノの練習を兼ねて、賛美。 いつもなら、そのあと、コンピューターの電源をいれていた。 

でも、日曜日からは、賛美のあと、聖書を読むことにした。 一日一章、というけち臭い読み方ではなく、小説を読むように、物語の筋を捕らえるように、かなりの章を読んでしまう。 読み始めると、結構面白い。 メモもとってしまう。

聖書は旧約、新約合わせて全体の30%-40%くらいは読んでいる。 でも、目標は、全部読んでしまうことである。 できれば、5月の終わりまで、新約聖書のすべてが読み終えられればいいな、と思う。

今、ルカによる福音書を読んでいるんだけど、マタイの福音書とはまた違って、私はルカのほうが面白い。 物語を読むように流れで読むのだけど、イエス兄さんは実にに多くの人たちを癒している。 それも、

「あなたの信仰があなたを治したのです。」

という箇所がたくさんある。今日まで読んだところでは、ルカ8章48節、50節、17章19節、18章42節) 

そうか、病気を治すのは、イエス兄さんでもなく、ただただ、信じる、それだけのことで、治るんだ、と改めて気がつかされるのである。 ふーむ。



このように、祈って、賛美して、聖書を読み始めてしまうと、あっという間に11時とかお昼前。 早やお昼を食べて、やるべきデスクワーク、たとえば公共料金の支払い、教会の会計のこと、諸連絡事項などを済ませる。 意外にも、効率よく終わるのである。 気がつくと、子供を迎えにいく時間まであと15分。 

この15分だけをインターネットに費やすことにした。 子供を迎えに行く時間がくれば、開けてあるInternet Exploreを閉じてしまう。 MIXIでメッセージが来ているとか、日記にコメントがある、というメールがきても、それを削除してしまう。 

子供が帰ってきてからは、おやつ作り、宿題、そのあとは、夕飯つくりに追われる。 以前は、その間でも、コンピューターに向かうことが多かったが、それも辞めてしまった。


こうやって、聖書を一日のはじめに読むことによって、以外にも、それ以降の一日のスケジュールが効率よく行くのだ、ということを実感したのであった。 


さて、こうやって読むようになったきっかけの「ひとつ」だけ話そう。
その週の日曜日、朝の礼拝は近くの急成長しているメガ・チャーチにいってみた。 賛美がとても良い、ということで、誘われて。 旦那は出張でいなかったので、出やすかったのもある。

そこでの主任牧師のメッセージがすんなりと心に入ってきたのであった。 聖書の言葉は命である。 それを吸い込みなさい。 そうすれば、命があたえられる。 今、多くの人たちが体の具合がわるいけど、それは当然で、聖書の言葉を呼吸していないからだ。 という内容であった。

この「ことば」=「いのち」という概念は一般の、それも特に日本人には、なじみの薄い方程式である。 でも、この方程式の解説はヨハネによる福音書に一章にある。 この箇所だけは、何故か覚えていた。

ヨハネによる福音書 第一章

一節 初めに言葉があった。 言葉は神とともにあった。 言葉は神であった。

二節 この方(イエス兄さん)は、初めに神とともにおられた。

四節 この方に命があった。 このいのちは人の光であった。

五節 光は闇のなかに輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。


では、数学してみようか。

一節 言葉=神
二節 言葉=神=イエス
四節 言葉=神=イエス=命=光
五節 言葉=神=イエス=命=光=闇に勝つ

従って、言葉=命、 言葉=光、 言葉=ネガティブなものを打ち消す

っちゅーことになるかね。

じゃあ、その言葉ってどこさ、と聞かれれば、それは、聖書にあるのが言葉。 神様が言葉になって、それがこの書物にある? うーむ。 神さんもポータブルになったもんだわい。 これだったら、神さん、バッグにいれたり、手で抱えて歩けるっちゅーことだわい。


でもさ、よく考えると、だからそうか、と思えることが湧いてくる。

クリントンのモニカ・ルインスキーとのSexスキャンダル、記憶に新しいい人多いかな? 国会での証人喚問の最初に聖書に手を置いて、真実を語ることを誓うか、と宣誓させられる。 そうか、あれは、命と神さまに誓って嘘つかないと宣言することか。 事実、クリントンがImpeachment:弾劾裁判にかけられた理由というのは、実は、ホワイトハウスのインターンと不埒なことしたからではないんだよ。 それは、聖書に手を置いて、うそいわない、インディアンうそいわない、って誓ったくせに、嘘ついたからなんだよね。 

あと、これもよく思うことなんだけど、チンパンジーと人間のDNAって99%同じなんだよね。 生物学的にはかなり近い存在であるんだけど、なんでこれだけ違うんだろうか? 大きな違いって、「言葉」を持っているか持っていないか、なんだよね。 たかが、言葉。でも、DNAの違いたった1%しかなくても、言葉があるかどうかで、人間とチンパンジーの差ってものすごく大きい。 やっぱ、これは、言葉が単なる情報の伝達手段だけではないってことだと思う。 言葉と脳の機能と発達は気っても切れない関係があるしね。 人間だけが、言葉をもらった。 つまり、神様が体の中に入っていて、命が与えられているっちゅーことなのかもね。



話がだいぶ飛躍しちゃったけど、この聖書を朝第一に読むってのは、その日一日の効率がものすごくよくなる、ってことを言いたかっただけ。 聖書を読む時間がない、という人、まだ全部読んだことないってひと、一回も読んだことがないってひと、一度おためしあれ。

この遅刻大王が人体実験済みである。

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