No. 48 "9-11"
ピアノの続きを書こうと思っていた。
今日の午後、気がついた。 今日は9月11日。 同時多発テロにアメリカがショックを受けた日。 今日は、5周年で、ABC,CNN等で特集を組んでいた。
私は以前、マンハッタンに住んでいた。
最初は、Upper West Sideという、セントラルパークの西側。 84丁目に住んでいた。 ユダヤ人が多かった。 男性で、頭の後頭部に黒い円形の布をピンで留めている人が多い。 私は、あれは「はげ隠し」と思っていた。 それは、ユダヤ人が着用する「ヤマカ」というものであると後で知った。 日本人とユダヤ人の夫婦も多くいたところだと記憶する。 大学の数学と統計学の教授も、ヤマカをかぷった上に、山高帽のようなものをかぶり、黒い服をきて授業をしていた。
はげ隠しはともかく、84丁目のあとは、20丁目に引っ越した。 通っていた大学が18丁目、23丁目あたりにちらばっているので、早朝の授業のスケジュールにあわせるために引っ越したのである。 今の自宅のトイレより狭い19階にある自分の部屋からは、Brooklyn Bridgeが遠くに見えた。
私は日本で会社勤めを11年したあとに、すべてを捨てて、ニューヨークに飛んだ。 貯金と好きな沢山の本だけを抱えて。 学生ビザだから、正規には働けない。 違法で働いている人は沢山いたけど。 でも、働く時間もなかった。 勉強に忙しくて。
しかし、貯金通帳の残高がどんどん目減りしていくのは、恐怖であった。 部屋代、授業料・・。 ニューヨークでは高い。 でも、学生ビザでは、働いてはいけない。
8月にニューヨークに行ったが、ニューヨークは8月下旬となると、涼しくなる。 9月の下旬にはコートが必要。 日も短くなる。 お金使えないから、切り詰めるのは、食費となる。 結構ひもじかった。 なので、たまに教会に誘われて「食べ」にいった。 寿司が頭の中を飛ぶ夢もみた。 そういうときに限り、悪友が寿司の写真をはがきに貼って送ってきたのである。
ニューヨーク時代の極貧生活とある困難を乗り越えた話は別途。
ともかく、ひもじく、寂しく、つらい思いをしながらも、なんとか2セメスターを終えた6月のある日、就職課に足を運んだ。 そしたら、日本語ができるということで、そこからとんとんとアメリカの某大会社への就職が一ヶ月以内に決まってしまった。 留学生もキャンパス内なら働けるから、ちょっとした仕事を、と就職課の部屋に足を踏み入れただけであったのに。
そして、その大会社がH1Bという専門職のビザを取ってくれるというので、一ヶ月半の空白が出来た。 なので、将来の収入がある!と思った私は、バッグひとつ抱えてヨーロッパに一ヶ月放浪の旅にでてしまった。 そこで、今の旦那とであったわけである。
ビザが取れて、厳しいトレーニングに受かり、12月の上旬にミッドタウン(30-60丁目あたり)にあるオフィスに腰を落ち着けた。
仕事は一台何百万とする大型コピー機のセールス。 それも、証券・金融業界の日系企業。
ということで、World Trade Centerと、WTCに隣接するWorld Financial Centerには、毎日のように、顧客開拓やら、顧客訪問で足を運んでいた。 証券業界はご存知Wall Street界隈に集中しているからである。
私のオフィスからWTCへは、地下鉄のグリーン線の6番4番あたりにのって、28丁目あたりで、オレンジ線に乗り換えたような記憶がある。 そして、最終的には、赤線(ん??)の1番、9番にのって、WTCに南下したのであった。 地下鉄を降りて、地下道をずっと歩く。 途中、右側にCinnabonとかいうコーヒーとペストリーを売っている店があり、たまにそこでパンを買って食べた。
地下道を右に曲がり、WTCの入り口につく。 受付が大きく、コンピューターがずらっと並んでいて、セキュリティーオフィサーが一人一人身分証明書を確認して、コンピューターに打ち込み、アポのある人しか入れてくれないようになっていた。 それは、私が働く半年前ほど、WTCの地下駐車場で爆弾が仕掛けられて、爆発し、大騒ぎになった事件があったためである。 それ以来、日系企業の一部は、お隣の、World Financial Centerかミッドタウンに引っ越したところもあった。
セキュリティーポイントを抜けて、階層別に行くエレベーターに乗る。 大体、途中で乗り換えとなる。 それでも、100階以上にいく場合は、超高速エレベーターなので、耳が気圧で圧迫されるのであった。
ある大手銀行は確か100階ちかいところに2階層を借りていたっけ。 見晴らしは良かった。 自由の女神も見えた。
World Financial Centerへは、World Trade Centerの2階から西に向かって、渡り廊下みたいのが出来ていて、そこを歩いていった。 そちらは、銀行より、大手証券会社が多かった。 World Financial Centerの中には、オアシスのようなものがあって、たまにそこで息抜きをした。 ハドソン川がすぐ目の前であった。
上記の渡り廊下のたもとに、日本の美味しいラーメン屋があった。 そこのじゃあじゃあメンが美味しかった。
World Trade Centerの東側には、WTC4だったか5だったか、これまた高いビルがあった。 そこにも、私のサテライトオフィスがあった。 一階には、Pasquaというコーヒー屋があって、そこでコーヒーを買って、上に上がった。 サテライトオフィスからは、バッテリーパーク、自由の女神が見えた。
Wall Street, Broad Streetの方にも足を運んだ。 Wall Streetの西の終わりには教会と墓地がある。 また、マクドナルドもある。 どうしようもない時だけ、マクドナルドを利用した。 あとは、Canal Street(China Town)まで何とか足を運んで、Mott STの真ん中にある、3ドル95セントのかものそばが美味しい店で食べることが多かった。
学校には夜通った。 授業を3つもがんばって取っていたから、毎日寝るのは3-4時であった。 マンハッタンの夜は、車の警報機やら、銃声やらで騒がしい。 勉強を終えて、朝の3時に寝ようとすると、下の道から急に車の警報機が鳴り出して、起こされてしまうこともしばしば。 警察のヘリコプターからのサーチライトが突然、部屋の中にはいってきたこともあった。
今、思うと、そのときの私は独身で、お金もなく、この先どうなるのかも知らずにひたすら生きていた。 今のような生活と自分に子供ができるとも想像だにしなかった。
1995年の12月、フロリダに移り、私の独身ニューヨーカーとしての生活は終わりを告げたた。 ハドソン川をニュージャージー側に渡り、旦那の運転する86年アコードの窓から、ニューヨークの摩天楼を再度見ようとしたが、その日は雨もようで、私の愛するニューヨークは姿を見せてくれなかった。 さよならじゃない、また逢おうってことか。
ニューヨークは、困難を自力で乗り越える事ができた思い出深い場所。 力をくれた場所。 自分を成長させてくれた場所である。 私にとって、第二の故郷である。
1997年12月にフロリダの州立大学を卒業した。 会計と経営のBBAの学位であった。 1999年に双子を出産した。 体外受精によってであった。
大学の費用は、何故だか、自分の貯金と働いたお金で学費を払えてしまった。 体外受精も一回150万円かかる。 これも、不思議なことに、フリーランスの仕事が何もしないのに、どんどん舞い込んできて、資金ができた。 あとは、会計が専攻であり、特別に税制の民間コースを勉強したので、医療費控除を駆使して、どーんと税金還付金をもらえるようにTaxファイリングをした。 それで、体外受精の費用の残りを払えてしまえた。
アメリカにきて、大学を出ることと、双子を出産することは、天のお父さんの計画であったと、今、確信する。 大学の費用も、体外受精の費用も、天のお父さんが供えてくれたとしか思えないことが重なって、全額払えることができてしまった。
さらに、15年前に、「行け!」という声をロス・アンジェルスの南、Palos VerdesにあるWayfare Church (Glass Church)で聞いたのであった。 そのときのイメージが1年半前の、ある朝の祈りのなかで、突然イメージとして飛んできたのであった。 「主よ、なんで命をたすけてくれ、ここダラスまで私たち家族を導いてくれたのですか?」という祈りへの答えであった。 まったく忘れていた建物であったが、強烈に新鮮にガラスでできた教会のイメージが忽然と脳裏に飛び込んできたのであった。
***********************
それは、双子が一歳半のとき。 私たちがフロリダに住んでいた頃。
2001年の8月、双子を旦那に見てもらい、私はニューヨークとコネチカットに遊びにいった。 マイレージで貯めた、無料飛行機券の期限が切れてしまうためであった。 懐かしい友人たちにあい、楽しい3日間をすごした。
一ヵ月後のある朝、朝食を終えて、テレビをつけた。 突然、WTCから煙が出ている映像が映った。 次には、WTCが崩れ落ちていった。 スローモーションで。 「映画かな?」と思った。 現実として、把握できなかった。 ずっとテレビをみているうち、体中に旋律が走った。
私は、テロの一ヶ月前、当地にいた。
結婚しないで、あのままニューヨークにいたら、私は死んでいた。
可愛い双子たちは、白いタイルの上で、朝日を浴びながら、無邪気に遊びまわっていた。
北京に出張中の夫に電話した。 彼は、夕食を終えて、ホテルに向かう途中、車が天安門広場の横に差し掛かったとき、同乗していた同僚にかかってきた国際電話で事件を知った。 私が電話をしたときは、旦那がちょうどホテルに入って、CNNをつけた時であった。
フロリダにあった我が家から、ちょっと離れると、飛行機の着陸進路の下に行くことができる。 空を見上げた。 普段なら頻繁に飛行機が着陸態勢に入るのがみえるのに、その日は、機影が何一つなく、ジェットエンジン音も聞こえない静かな青空だけが広がっていた。
その夜は、緊急帰国命令が出た旦那のフライト調整で大騒ぎであった。 旦那の上司が協力的であった。
南フロリダのフォートローダデール国際空港に翌々日、旦那を迎えにいった。 夜であったので、双子はお隣さんに預けた。 空港の検問が厳しく、警官も緊迫した表情をしていた。 車の中、トランク、すべて調べられた。 いつもならかますジョークも、ここでは「いったらあかん!」という雰囲気であった。 フロリダでも旦那の出張は多く、そのたびにマイアミ空港へ何度も迎えにいっていた。 しかし、この日ほど、旦那を待つ時間が長く感じられた日はなかった。
その後、ニュースでは、繰り返し、繰り返し、飛行機がWTCに飛び込むシーンとビルが倒壊するシーンばかり流されていた。 Wall Stの終わりにある教会のお墓に、紙が降り積もっている映像がでた。 みる映像映像、すべて親しみのある場所ばかり。
さらに、私の昔のサテライトオフィスがあったビルも倒壊した。 WFCに続く渡り廊下の窓ガラスが一面にわたって割れていた。 うまいラーメン屋も倒壊したであろう。
そんな悲劇の中で、奇跡がCNNのバーバラ・ウォルターの特別番組の中で報道された。
ニュージャージーからWTCに通勤していた男性がいた。 いつも8時前にはWTCに入っていた。 この彼には、三つ子が生まれたばかりであった。 9月11日の朝、三つ子の世話で、遅刻してしまったのである。 遅刻して、Pathとうい電車を降りて、WTCに赴こうとしていた時に、飛行機がWTCに突入したのである。 天のおとうさんはこうして、三つ子のお父さんを守った。
かたや、Bondトレードの会社を経営しているポニーテールの社長がいた。 その日は、息子の授業参観で、会社に遅れていく予定であった。 部下の何人かが犠牲になった。 そのポニーテール社長は、テレビの前で泣きながら、亡くなった社員の子供たちの生活費と教育費用のファンドをつくり、それを無料でマネージしていく、と叫んでいた。
生と死の境は、一分か二分であることもある。 電車のドアが目の前で閉まった。 それが命をすくうことでもあるんだ。 飛行機に乗り遅れた。 そうしたら、その飛行機が墜落した、という話もある。
9-11は一度に5000人以上の命が失われるという「神の間引き」か、と思う人もいるであろう。 インドネシアの津波、阪神大震災もしかり。 しかし、その中にも、神の選びがあったのであろうか。 少なくとも、三つ子のお父さんはそうであろう。
では、私は?
2001年9月11日より、ずっと前にフロリダに移っていたから、急遽免れたという感じではない。 しかし、旦那と結婚していなかったら、ニューヨークのその会社で働いていただろうから、私は死んでいた可能性が高い。
と、夕飯のあと、旦那に「あなたと結婚していなかったら、私は死んでいたかもしれないね。」といった。
旦那、「そうか。 感謝してくれるんだねぇ。 じゃあ、マッサージしてくれよ。」だと。
マッサージをせず、これを書いている。
あかしや番頭 メッセージを送る
今日の午後、気がついた。 今日は9月11日。 同時多発テロにアメリカがショックを受けた日。 今日は、5周年で、ABC,CNN等で特集を組んでいた。
私は以前、マンハッタンに住んでいた。
最初は、Upper West Sideという、セントラルパークの西側。 84丁目に住んでいた。 ユダヤ人が多かった。 男性で、頭の後頭部に黒い円形の布をピンで留めている人が多い。 私は、あれは「はげ隠し」と思っていた。 それは、ユダヤ人が着用する「ヤマカ」というものであると後で知った。 日本人とユダヤ人の夫婦も多くいたところだと記憶する。 大学の数学と統計学の教授も、ヤマカをかぷった上に、山高帽のようなものをかぶり、黒い服をきて授業をしていた。
はげ隠しはともかく、84丁目のあとは、20丁目に引っ越した。 通っていた大学が18丁目、23丁目あたりにちらばっているので、早朝の授業のスケジュールにあわせるために引っ越したのである。 今の自宅のトイレより狭い19階にある自分の部屋からは、Brooklyn Bridgeが遠くに見えた。
私は日本で会社勤めを11年したあとに、すべてを捨てて、ニューヨークに飛んだ。 貯金と好きな沢山の本だけを抱えて。 学生ビザだから、正規には働けない。 違法で働いている人は沢山いたけど。 でも、働く時間もなかった。 勉強に忙しくて。
しかし、貯金通帳の残高がどんどん目減りしていくのは、恐怖であった。 部屋代、授業料・・。 ニューヨークでは高い。 でも、学生ビザでは、働いてはいけない。
8月にニューヨークに行ったが、ニューヨークは8月下旬となると、涼しくなる。 9月の下旬にはコートが必要。 日も短くなる。 お金使えないから、切り詰めるのは、食費となる。 結構ひもじかった。 なので、たまに教会に誘われて「食べ」にいった。 寿司が頭の中を飛ぶ夢もみた。 そういうときに限り、悪友が寿司の写真をはがきに貼って送ってきたのである。
ニューヨーク時代の極貧生活とある困難を乗り越えた話は別途。
ともかく、ひもじく、寂しく、つらい思いをしながらも、なんとか2セメスターを終えた6月のある日、就職課に足を運んだ。 そしたら、日本語ができるということで、そこからとんとんとアメリカの某大会社への就職が一ヶ月以内に決まってしまった。 留学生もキャンパス内なら働けるから、ちょっとした仕事を、と就職課の部屋に足を踏み入れただけであったのに。
そして、その大会社がH1Bという専門職のビザを取ってくれるというので、一ヶ月半の空白が出来た。 なので、将来の収入がある!と思った私は、バッグひとつ抱えてヨーロッパに一ヶ月放浪の旅にでてしまった。 そこで、今の旦那とであったわけである。
ビザが取れて、厳しいトレーニングに受かり、12月の上旬にミッドタウン(30-60丁目あたり)にあるオフィスに腰を落ち着けた。
仕事は一台何百万とする大型コピー機のセールス。 それも、証券・金融業界の日系企業。
ということで、World Trade Centerと、WTCに隣接するWorld Financial Centerには、毎日のように、顧客開拓やら、顧客訪問で足を運んでいた。 証券業界はご存知Wall Street界隈に集中しているからである。
私のオフィスからWTCへは、地下鉄のグリーン線の6番4番あたりにのって、28丁目あたりで、オレンジ線に乗り換えたような記憶がある。 そして、最終的には、赤線(ん??)の1番、9番にのって、WTCに南下したのであった。 地下鉄を降りて、地下道をずっと歩く。 途中、右側にCinnabonとかいうコーヒーとペストリーを売っている店があり、たまにそこでパンを買って食べた。
地下道を右に曲がり、WTCの入り口につく。 受付が大きく、コンピューターがずらっと並んでいて、セキュリティーオフィサーが一人一人身分証明書を確認して、コンピューターに打ち込み、アポのある人しか入れてくれないようになっていた。 それは、私が働く半年前ほど、WTCの地下駐車場で爆弾が仕掛けられて、爆発し、大騒ぎになった事件があったためである。 それ以来、日系企業の一部は、お隣の、World Financial Centerかミッドタウンに引っ越したところもあった。
セキュリティーポイントを抜けて、階層別に行くエレベーターに乗る。 大体、途中で乗り換えとなる。 それでも、100階以上にいく場合は、超高速エレベーターなので、耳が気圧で圧迫されるのであった。
ある大手銀行は確か100階ちかいところに2階層を借りていたっけ。 見晴らしは良かった。 自由の女神も見えた。
World Financial Centerへは、World Trade Centerの2階から西に向かって、渡り廊下みたいのが出来ていて、そこを歩いていった。 そちらは、銀行より、大手証券会社が多かった。 World Financial Centerの中には、オアシスのようなものがあって、たまにそこで息抜きをした。 ハドソン川がすぐ目の前であった。
上記の渡り廊下のたもとに、日本の美味しいラーメン屋があった。 そこのじゃあじゃあメンが美味しかった。
World Trade Centerの東側には、WTC4だったか5だったか、これまた高いビルがあった。 そこにも、私のサテライトオフィスがあった。 一階には、Pasquaというコーヒー屋があって、そこでコーヒーを買って、上に上がった。 サテライトオフィスからは、バッテリーパーク、自由の女神が見えた。
Wall Street, Broad Streetの方にも足を運んだ。 Wall Streetの西の終わりには教会と墓地がある。 また、マクドナルドもある。 どうしようもない時だけ、マクドナルドを利用した。 あとは、Canal Street(China Town)まで何とか足を運んで、Mott STの真ん中にある、3ドル95セントのかものそばが美味しい店で食べることが多かった。
学校には夜通った。 授業を3つもがんばって取っていたから、毎日寝るのは3-4時であった。 マンハッタンの夜は、車の警報機やら、銃声やらで騒がしい。 勉強を終えて、朝の3時に寝ようとすると、下の道から急に車の警報機が鳴り出して、起こされてしまうこともしばしば。 警察のヘリコプターからのサーチライトが突然、部屋の中にはいってきたこともあった。
今、思うと、そのときの私は独身で、お金もなく、この先どうなるのかも知らずにひたすら生きていた。 今のような生活と自分に子供ができるとも想像だにしなかった。
1995年の12月、フロリダに移り、私の独身ニューヨーカーとしての生活は終わりを告げたた。 ハドソン川をニュージャージー側に渡り、旦那の運転する86年アコードの窓から、ニューヨークの摩天楼を再度見ようとしたが、その日は雨もようで、私の愛するニューヨークは姿を見せてくれなかった。 さよならじゃない、また逢おうってことか。
ニューヨークは、困難を自力で乗り越える事ができた思い出深い場所。 力をくれた場所。 自分を成長させてくれた場所である。 私にとって、第二の故郷である。
1997年12月にフロリダの州立大学を卒業した。 会計と経営のBBAの学位であった。 1999年に双子を出産した。 体外受精によってであった。
大学の費用は、何故だか、自分の貯金と働いたお金で学費を払えてしまった。 体外受精も一回150万円かかる。 これも、不思議なことに、フリーランスの仕事が何もしないのに、どんどん舞い込んできて、資金ができた。 あとは、会計が専攻であり、特別に税制の民間コースを勉強したので、医療費控除を駆使して、どーんと税金還付金をもらえるようにTaxファイリングをした。 それで、体外受精の費用の残りを払えてしまえた。
アメリカにきて、大学を出ることと、双子を出産することは、天のお父さんの計画であったと、今、確信する。 大学の費用も、体外受精の費用も、天のお父さんが供えてくれたとしか思えないことが重なって、全額払えることができてしまった。
さらに、15年前に、「行け!」という声をロス・アンジェルスの南、Palos VerdesにあるWayfare Church (Glass Church)で聞いたのであった。 そのときのイメージが1年半前の、ある朝の祈りのなかで、突然イメージとして飛んできたのであった。 「主よ、なんで命をたすけてくれ、ここダラスまで私たち家族を導いてくれたのですか?」という祈りへの答えであった。 まったく忘れていた建物であったが、強烈に新鮮にガラスでできた教会のイメージが忽然と脳裏に飛び込んできたのであった。
***********************
それは、双子が一歳半のとき。 私たちがフロリダに住んでいた頃。
2001年の8月、双子を旦那に見てもらい、私はニューヨークとコネチカットに遊びにいった。 マイレージで貯めた、無料飛行機券の期限が切れてしまうためであった。 懐かしい友人たちにあい、楽しい3日間をすごした。
一ヵ月後のある朝、朝食を終えて、テレビをつけた。 突然、WTCから煙が出ている映像が映った。 次には、WTCが崩れ落ちていった。 スローモーションで。 「映画かな?」と思った。 現実として、把握できなかった。 ずっとテレビをみているうち、体中に旋律が走った。
私は、テロの一ヶ月前、当地にいた。
結婚しないで、あのままニューヨークにいたら、私は死んでいた。
可愛い双子たちは、白いタイルの上で、朝日を浴びながら、無邪気に遊びまわっていた。
北京に出張中の夫に電話した。 彼は、夕食を終えて、ホテルに向かう途中、車が天安門広場の横に差し掛かったとき、同乗していた同僚にかかってきた国際電話で事件を知った。 私が電話をしたときは、旦那がちょうどホテルに入って、CNNをつけた時であった。
フロリダにあった我が家から、ちょっと離れると、飛行機の着陸進路の下に行くことができる。 空を見上げた。 普段なら頻繁に飛行機が着陸態勢に入るのがみえるのに、その日は、機影が何一つなく、ジェットエンジン音も聞こえない静かな青空だけが広がっていた。
その夜は、緊急帰国命令が出た旦那のフライト調整で大騒ぎであった。 旦那の上司が協力的であった。
南フロリダのフォートローダデール国際空港に翌々日、旦那を迎えにいった。 夜であったので、双子はお隣さんに預けた。 空港の検問が厳しく、警官も緊迫した表情をしていた。 車の中、トランク、すべて調べられた。 いつもならかますジョークも、ここでは「いったらあかん!」という雰囲気であった。 フロリダでも旦那の出張は多く、そのたびにマイアミ空港へ何度も迎えにいっていた。 しかし、この日ほど、旦那を待つ時間が長く感じられた日はなかった。
その後、ニュースでは、繰り返し、繰り返し、飛行機がWTCに飛び込むシーンとビルが倒壊するシーンばかり流されていた。 Wall Stの終わりにある教会のお墓に、紙が降り積もっている映像がでた。 みる映像映像、すべて親しみのある場所ばかり。
さらに、私の昔のサテライトオフィスがあったビルも倒壊した。 WFCに続く渡り廊下の窓ガラスが一面にわたって割れていた。 うまいラーメン屋も倒壊したであろう。
そんな悲劇の中で、奇跡がCNNのバーバラ・ウォルターの特別番組の中で報道された。
ニュージャージーからWTCに通勤していた男性がいた。 いつも8時前にはWTCに入っていた。 この彼には、三つ子が生まれたばかりであった。 9月11日の朝、三つ子の世話で、遅刻してしまったのである。 遅刻して、Pathとうい電車を降りて、WTCに赴こうとしていた時に、飛行機がWTCに突入したのである。 天のおとうさんはこうして、三つ子のお父さんを守った。
かたや、Bondトレードの会社を経営しているポニーテールの社長がいた。 その日は、息子の授業参観で、会社に遅れていく予定であった。 部下の何人かが犠牲になった。 そのポニーテール社長は、テレビの前で泣きながら、亡くなった社員の子供たちの生活費と教育費用のファンドをつくり、それを無料でマネージしていく、と叫んでいた。
生と死の境は、一分か二分であることもある。 電車のドアが目の前で閉まった。 それが命をすくうことでもあるんだ。 飛行機に乗り遅れた。 そうしたら、その飛行機が墜落した、という話もある。
9-11は一度に5000人以上の命が失われるという「神の間引き」か、と思う人もいるであろう。 インドネシアの津波、阪神大震災もしかり。 しかし、その中にも、神の選びがあったのであろうか。 少なくとも、三つ子のお父さんはそうであろう。
では、私は?
2001年9月11日より、ずっと前にフロリダに移っていたから、急遽免れたという感じではない。 しかし、旦那と結婚していなかったら、ニューヨークのその会社で働いていただろうから、私は死んでいた可能性が高い。
と、夕飯のあと、旦那に「あなたと結婚していなかったら、私は死んでいたかもしれないね。」といった。
旦那、「そうか。 感謝してくれるんだねぇ。 じゃあ、マッサージしてくれよ。」だと。
マッサージをせず、これを書いている。
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