No. 49 死んだら、驚いた!のかなぁ?

ご無沙汰しています。

先先週の終わりごろから、体調が思わしくなくなってきて、先週は毎日昼寝をしないと体が持たなくなってきていました。

更年期障害か? ついに私も? と疑いましたが、どうやら風邪ともう一つのことが理由らしいです。

この日曜日から、やっと回復して、前進力が出てきました。 


先日、俳優の丹波哲郎さんが84歳で亡くなった。

私くらいの年代の人には、テレビ番組のGメンのボスみたいな役で出演していたし、たしか千葉真一がでていた「キイハンター」にも出演していた、という記憶のある人もいるだろう。 Gメンには、夏木マリ、范文雀(はん ぶんじゃく:半分弱ではないぞ)、今は料理の鉄人でピーマンかじっている鹿賀丈史などが出演していた。 これは、70年代くらいのことだから、若い人たちは知らないだろうね。

それが、日本のバブルの最中か、はじけた時あたりに、丹波哲郎さんは急に、「霊界」のことを話すようになった。 まるで、昼の奥様向け番組で、夏に特集を組む、「あなたの知らない世界:霊界のありさま特集!」みたいな下世話なことみたいだったので、あまり興味をもたなかったのである。 でも、そのうち、映画まで作ってしまったようだ。 新聞の広告に、「丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる」という映画の宣伝がでていて、あれまー、ここまでやったか、と思っていたら、次は「丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!」 なんてきたから、こけてしまった。 驚いたよ。


その後、渡米した私には、日本の芸能界のことなんて、だんだん疎遠になってきたので、丹波哲郎という名前さえ忘れてしまっていたのである。 

そこで、彼の訃報をネットで知った。 なので、それとなく、彼のことをちょっとネットでサーチしてみた。


      丹波哲郎の霊界サロン  http://www.tamba.ne.jp/ma.html


ここを開けると、彼の系図のことに少し触れていて、スクロールダウンすると、「あの世では、台所、寝室どころかトイレも不要」というパラグラフがある。

ここで、簡単に霊界とはどういうことか、書いている。
かいつまんでみると、霊界とは以下の様なところらしい。

1.おカネなんてものは存在しない。財産や資産なんて発想もな~い。

2.ほとんどの霊界の家というのは諸君が想像する以上に小さいんだ。一見したところでは、茶室のつくりによく似ているな。広さは4畳半から6畳程度。しかも、見事なくらい何もなくてガランとしている。

3.霊界には夜というものがないし、霊人は眠ることがないから、寝室だっていらないんだ。

4.人間界の大きさを野球のボールにたとえれば、霊界は君がいる部屋全体ほどの大きさといっていい。霊界という大宇宙の中に、人間界がぽっかり浮かんでいるようなものさ。


だってさ。 他にもあるけど、割愛した。

さて、なんで今まで興味を示さなかった人の書いたものを何でここで敢えて掲載したか、というと・・・
それは、丹波さんの言っている霊界が聖書に書かれていることと類似しているからなのである。



上の文の「2」ー 霊界って、人間の生理的欲求というものがないようであるが、何故か家がある、と「2」で言っている。 聖書の中で、イエス兄さんはいった。 私はあなたの家を用意して待っている。』と。 どの箇所かは、これから探すので、まっててね。 

あと、たまたま今日読んでいたコリント人への手紙 II の5章一節にも書いてある。
『私たちの住まいである地上の幕屋(昔のテントみたいなものか)がこわれても、紙の下さる建物があることを、私たちは知っています。  それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』



「3」の霊界には夜がない。 
新約聖書 ヨハネの福音書 第一章4-5節 
「この方(=主でありイエス兄さん)にいのちがあった。  このいのちは、人の光であった。 光は闇の中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。」


とあるんだよね。 っちゅーことはさ、やみ=つまり悪なるものが霊界にはないってことか。 



「4」- やはり聖書の中に、天国はすぐそばにあって、すぐ隣にあって、そこにいる人たちは私たちのことが見える、と書いてある。 これも、箇所をあとで探しますよ。  マタイだったかなぁ・・・。 ちゅうーことはさ、私たちが人に隠れて自分のプライバシーの中で、こそこそとやっていることも、見られているってことか。 う~む。 考えちゃうよう。 トイレにいるのも見られているのだろうか。  困ったなぁ。



この丹波の叔父さん、結構いいこと言ってんだよね。 上記のサイトから、「私が霊界研究をはじめたきっかけ」のリンクがページしたにある。 そこにいってみると、一番したのパラグラフに"●『情けは人の為ならず』”というのがある。 そこにこう書かれている。

”もし、あなたが「人間は死んだらそれまでである。すべてが 終わり であり 無 に帰する」と考えているとするならば、それは「旅の恥は掻き捨て」的な人生と言わねばならない。

その反対に、もし、「生命は永遠である」と感じられたならば、うかつな人生は送れないはずだ。どちらが幸せな生き方ですか?

生命が永遠ならば、戦争なんてとんでもない。人をねたむ、うらむなんてとんでもない話になる。一人でも多く、何とか自分の力の及ぶ限り、不幸な人間を助けたいという考えになるはずだ。 そうした言動が巡り巡って自分に返ってくるのだ。”


実は、丹波おじさんがいっているこの箇所がなんと今日読んだ聖書の箇所と一致しているんだよね。

コリント人への手紙 II の5章9-10節

そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いをうけることになるからです。


ここで、ちょっと解説ね。肉体にあってした行為とでてくるけど、これは、現世で生きている間にした行為のことで、死んでから霊界でした行為、との対比だよ。 聖書を読むと、「肉」という言葉が出てくる。 これは、牛肉とか豚肉のことではないよ。 神様などの「霊的」ば者に対して、霊の世界ではない、この世のことを指している。 なんでこんな訳なんだろうねぇ。 多分、"Incarnation"(=肉体をあたえること、権化)の直訳だと思う。 スペイン語やイタリア語では、「Carne」カルネっていって、肉のこと。 料理のチリ・コン・カルネという豆と牛ひき肉をチリペッパーをいれて煮込む料理があるけど、そのカルネが肉。 

で、話を元にもどしてっと。 そうそう、丹波のおじさん、いいこといってんじゃんってことさ。 おじさん、「生命は永遠である」って断言しちゃってるよ。 なかなかこういうこと、確信をもって言える人ってあまりいないよね。 永遠であるから、今、この世での行為に気をつけよってことだ。 ちゃんとしないと、閻魔(エンマ)大王に舌をひきぬかれるんだろうねぇ。 


おじさんのサイトには、霊界では料理する必要ない、と言っている。 これてちょっと残念。 だって、私がもし、天国にいけたら、まず母に会いたい。 そして、母の手料理を食べたいと思っているんで・・・。


なお、この丹波おじさんのサイトを私はすべて見ていない。 この2ページをかいつまんで、たまたま今日読んだ聖書の箇所と一致しちゃったんだよね。 彼が、どのようなことを網羅しているのかは、時間のあるときにでもやってみよう。 

丹波おじさん、昇天したとき、やはり驚いたのかなぁ?

あかしや  メールを送るodroita

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