No. 74 Have you hugged your children today?: 今日、子供達を抱きしめたかい?
最近、生活のリズムを変えた。
夜、9時から10時が旦那の就寝時間なので、私も同じ時間に床に就く事にした。 朝は、旦那の朝食と昼のお弁当二つを作り、7時には、いってらっしゃい、と送り出す。 その後、洗濯、子供の食事、そして、子供の勉強をみっちりとする。 午後はなんだかんだ買い物などの用が入り、あっという間に6時過ぎには、夕食。 夕食を片付ければ、もう寝る時間。
ということで、コンピューターに向かう時間はほとんど無くなってしまった。
明日は、早く子供達を起こして、ダラスのダウンタウンにある博物館にいこうと思っている。
博物館への行き方をネット検索したついでにこれを書いている。
*****************************
2日前に6年ぶりにフロリダに住んでいた時のご近所さんに用があって電話した。
うちから4件隣にすんでいたレバノン人の家族であった。 1997年、1998年あたりに、そこの高校生の息子さんの数学の家庭教師をしていた。 優秀なお子さんで、優等クラスに入ったはいいが、数学にちょっとついていけなくなった、ということで、彼の母さんから頼まれた。
ご近所さんだから、毎日来ていいよ、値段も安くしておきましょう、ということで始めた。 背の高い子で中近東人の綺麗な顔をしていた。 毎日、学校が終わると、家に荷物を置いて、すぐに私の家に来た。 お父さんが自分で会社を経営していて、お母さんも事業を手伝っているため、時には、かぎっ子状態であった。 なので、うちで、水とスナックを出してあげた。 育ち盛りだから、よく食べた。
いつも勉強のはじめには、「今日、学校で何があったの?」と聞くようにしていた。 だんだんうちとけて、「今日、俺、伝説を学校でつくったんだ! バスケットの試合ですごい業をしたんだよ。」とか、「あの先生ににらまれた。」「麻薬は学校で簡単に手に入るよ。」などと、自分の親には、話さないであろう内容の会話もしてくれる間柄になっていった。
勉強の方も、試験を受けるコツ、見直しの大切さを教え、幾何学では、箱をつかって立体モデルを作って説明した。 結果として、平均して、95点以上の成績をキープできるようになった。
その子は3人兄弟の長男だった。 妹さんと一番下には弟さんがいた。 時に、頼まれて、妹さんが数学で苦労していたときは、タダで見てあげた。 一度、3兄弟が、「家に鍵がかかっていて、家に入れない。」と我が家にきたことがある。 母親も緊急連絡先を我が家にしていた。
9-11のテロの時は、こちらからすぐ電話して、「私たちはサポートするよ。 友達だよ。」と味方であることを宣言した。 彼らの叔父さんは、脅迫電話をもらったそうだ。 家族は、生まれはレバノン人だけど、すでにアメリカ国民になっていた。 しかし、テロ直後の一時的に異常な国粋主義の嵐の中、中近東からの移民は、肩身の狭い思いをしたのだ。
そんなお付き合いのあった、ご近所さんなので、ある用があって電話した。 用を済ませて、「Jad(息子さん)は、どうしています? 今は大学生?」と聞いた。
彼は、コロラドのAir Force Academyにいきたいなぁ、と話していたので、今頃は、空軍パイロットか、希望あふれる立派な青年になっているんだろと。
母親は、暫く沈黙して、「Jadの何を聞きたいの?」
「いやー、Jadは今頃は大学生かな、と思いまして。」
「Jadは亡くなりました。」
暫く沈黙してしまった。
Jadに最後にあったのは、1999年、Publixというスーパーマーケットの入り口で、お母さんと一緒にいた彼。 私は妊娠中だった。 彼とは、言葉を交わさなかったけど、ちょっと影が薄い感じがした。
2003年のクリスマス直前、足が変だ、と言ったJad。 2005年6月に旅立ってしまった。 大腿骨の骨肉腫であった。 19歳だったそうだ。 手術に化学療法でかなり苦しんだそうだ。
同じく、フロリダ時代の私の別の犬の散歩友達は、2年前の3月、一人息子を亡くした。 16歳。 朝、具合が悪い、といって病院にいき、昼には亡くなってしまった。Bacterial Menigitis(バクテリア性 脳膜炎)だった。 その後、友人は、心臓外科医の夫から離婚の要請があった。 ただ、亡くなった子とは、一回しか会っていない。
昨年は、旦那の同僚で私も知っている人の息子さんが、頭に銃弾2発打たれて亡くなった。 その息子さんとは会ったことが無い。
Jadは、毎日我が家にきて、1時間半から2時間、一緒の時を過ごした。 一生懸命教えて、実際に成績が上がっていった。 いわゆる、自分の可愛い教え子であった。 Jadは特別であった。
旧約聖書の伝道者の書の3章に、
「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」
と書かれている。
父の葬式のときは、曹洞宗の坊さんが、「無情の風が吹くと、人はいってしまう。」と言っていた。
人には、それぞれ、神が決めた「死ぬ日」が背番号のように刻印されているのだろう。 その日は、神さんにしかわからない。
フロリダの友人の一人息子が亡くなったと聞いたときも、かなりショックで、「主よ、なんでですか?」と泣いてしまった。 息子を取られ、夫までも取られ、私の友人はどうしているんだろう。 E-mailの返事も来ない。
若くして死ぬこと、夭折、は、以外にも多いのだと思う。 高校の同窓会があったが、やはりクラスメートのうち、各クラス一人から二人はすで亡くなっていた。 10代から20代に亡くなっていた人も、数人いた。
老人の「死」は、ある程度、本人も、周りも「さもありなん」と納得いくものだろうし、心の準備がなんとなくできているんだろう。
しかし、これから花咲く!という十代の若者が召されてしまうのには、どうしても、その理由を突き止めたくなる。 理由なんて、到底、わからないのだが。 でも、主に「どうして?!!」と言いたい。 言いたいのではなく、叫びたい。
Jadの母親へ電話をした時に、最初にでてくれたのは、Jadの妹さん。 当時は、まだ中学生で、数学の方程式をこつこつと丹念に解いていたのを思い出した。 Jadの話をお母さんとしたあと、お母さんは、「今日、Maggieの試験なので、もう行かなければいけないの。」と言った。 Maggieは医者になりたいそうだ。 University of Miamiの医学部へ、奨学金入学となったそうだ。 あの、こつこつとやっていた、あの子が・・・・。 と感慨深かった。
電話を切って、ガレージの横にあるファイルキャビネットを開けた。 今までやってきた仕事のポートフォリオや、ファイルを保存してあるファイルキャビネットである。 そこから、「Jad」とタイトルのついたファイルをだした。
開けると、Jadの為に作った三角関数や、幾何学の問題が出てきた。 教科書に頼らず、Jadの為に、すべて自分で考えた問題集。 ご両親に宛てた、家庭教師のレポート。 教科書のコピー。 試験対策の自作の問題集。 分厚いファイルである。
このファイルは捨てるのを辞めよう、と誓った。
Jadは私の心の中で永遠のもとのなったから。
ファイルを元にもどして、旦那に電話した。
「覚えている? フロリダで家庭教師をしていたJadって子。 Seblani家の長男で。」
「うーーん。」と暫く沈黙し、「あーあの子か。」
600軒あったコミュニティーの中に、Jadと同じ年代の子供はたくさんいた。 でも、旦那のことをちゃんと「Sir」と付けて呼んだのは、Jadとコネクチカットから引っ越してきたシングル・マザーの息子さんの二人だけであった。
なので、Jadには、「あなたは、勉強できるけど、それ以前にあなたは、礼儀、と言うものが身についている。 だから、あなたは、きっと成功するよ。」と褒めたことがあった。
旦那に、「そのJad、どうしているってお母さんに聞いたら、亡くなった、って言われたの。 19才だったんだって。」と言った。
旦那、暫く沈黙した。 そして、こう言った。
「Have you hug your children today? 」
「(今日、子供達を抱きしめかい?)」
私は、「部屋を片付けろ!!」 と子供たちを罵倒したばかりであった・・・・・・・。
あかしや番頭 メールを送る
ps Jadの父親がJadの死後、"Jad Cancer Fund"というチャリティーFundを作っていたのをインターネットで見つけた。 Florida のCharity Fundで、Tax Deductableである。
夜、9時から10時が旦那の就寝時間なので、私も同じ時間に床に就く事にした。 朝は、旦那の朝食と昼のお弁当二つを作り、7時には、いってらっしゃい、と送り出す。 その後、洗濯、子供の食事、そして、子供の勉強をみっちりとする。 午後はなんだかんだ買い物などの用が入り、あっという間に6時過ぎには、夕食。 夕食を片付ければ、もう寝る時間。
ということで、コンピューターに向かう時間はほとんど無くなってしまった。
明日は、早く子供達を起こして、ダラスのダウンタウンにある博物館にいこうと思っている。
博物館への行き方をネット検索したついでにこれを書いている。
*****************************
2日前に6年ぶりにフロリダに住んでいた時のご近所さんに用があって電話した。
うちから4件隣にすんでいたレバノン人の家族であった。 1997年、1998年あたりに、そこの高校生の息子さんの数学の家庭教師をしていた。 優秀なお子さんで、優等クラスに入ったはいいが、数学にちょっとついていけなくなった、ということで、彼の母さんから頼まれた。
ご近所さんだから、毎日来ていいよ、値段も安くしておきましょう、ということで始めた。 背の高い子で中近東人の綺麗な顔をしていた。 毎日、学校が終わると、家に荷物を置いて、すぐに私の家に来た。 お父さんが自分で会社を経営していて、お母さんも事業を手伝っているため、時には、かぎっ子状態であった。 なので、うちで、水とスナックを出してあげた。 育ち盛りだから、よく食べた。
いつも勉強のはじめには、「今日、学校で何があったの?」と聞くようにしていた。 だんだんうちとけて、「今日、俺、伝説を学校でつくったんだ! バスケットの試合ですごい業をしたんだよ。」とか、「あの先生ににらまれた。」「麻薬は学校で簡単に手に入るよ。」などと、自分の親には、話さないであろう内容の会話もしてくれる間柄になっていった。
勉強の方も、試験を受けるコツ、見直しの大切さを教え、幾何学では、箱をつかって立体モデルを作って説明した。 結果として、平均して、95点以上の成績をキープできるようになった。
その子は3人兄弟の長男だった。 妹さんと一番下には弟さんがいた。 時に、頼まれて、妹さんが数学で苦労していたときは、タダで見てあげた。 一度、3兄弟が、「家に鍵がかかっていて、家に入れない。」と我が家にきたことがある。 母親も緊急連絡先を我が家にしていた。
9-11のテロの時は、こちらからすぐ電話して、「私たちはサポートするよ。 友達だよ。」と味方であることを宣言した。 彼らの叔父さんは、脅迫電話をもらったそうだ。 家族は、生まれはレバノン人だけど、すでにアメリカ国民になっていた。 しかし、テロ直後の一時的に異常な国粋主義の嵐の中、中近東からの移民は、肩身の狭い思いをしたのだ。
そんなお付き合いのあった、ご近所さんなので、ある用があって電話した。 用を済ませて、「Jad(息子さん)は、どうしています? 今は大学生?」と聞いた。
彼は、コロラドのAir Force Academyにいきたいなぁ、と話していたので、今頃は、空軍パイロットか、希望あふれる立派な青年になっているんだろと。
母親は、暫く沈黙して、「Jadの何を聞きたいの?」
「いやー、Jadは今頃は大学生かな、と思いまして。」
「Jadは亡くなりました。」
暫く沈黙してしまった。
Jadに最後にあったのは、1999年、Publixというスーパーマーケットの入り口で、お母さんと一緒にいた彼。 私は妊娠中だった。 彼とは、言葉を交わさなかったけど、ちょっと影が薄い感じがした。
2003年のクリスマス直前、足が変だ、と言ったJad。 2005年6月に旅立ってしまった。 大腿骨の骨肉腫であった。 19歳だったそうだ。 手術に化学療法でかなり苦しんだそうだ。
同じく、フロリダ時代の私の別の犬の散歩友達は、2年前の3月、一人息子を亡くした。 16歳。 朝、具合が悪い、といって病院にいき、昼には亡くなってしまった。Bacterial Menigitis(バクテリア性 脳膜炎)だった。 その後、友人は、心臓外科医の夫から離婚の要請があった。 ただ、亡くなった子とは、一回しか会っていない。
昨年は、旦那の同僚で私も知っている人の息子さんが、頭に銃弾2発打たれて亡くなった。 その息子さんとは会ったことが無い。
Jadは、毎日我が家にきて、1時間半から2時間、一緒の時を過ごした。 一生懸命教えて、実際に成績が上がっていった。 いわゆる、自分の可愛い教え子であった。 Jadは特別であった。
旧約聖書の伝道者の書の3章に、
「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」
と書かれている。
父の葬式のときは、曹洞宗の坊さんが、「無情の風が吹くと、人はいってしまう。」と言っていた。
人には、それぞれ、神が決めた「死ぬ日」が背番号のように刻印されているのだろう。 その日は、神さんにしかわからない。
フロリダの友人の一人息子が亡くなったと聞いたときも、かなりショックで、「主よ、なんでですか?」と泣いてしまった。 息子を取られ、夫までも取られ、私の友人はどうしているんだろう。 E-mailの返事も来ない。
若くして死ぬこと、夭折、は、以外にも多いのだと思う。 高校の同窓会があったが、やはりクラスメートのうち、各クラス一人から二人はすで亡くなっていた。 10代から20代に亡くなっていた人も、数人いた。
老人の「死」は、ある程度、本人も、周りも「さもありなん」と納得いくものだろうし、心の準備がなんとなくできているんだろう。
しかし、これから花咲く!という十代の若者が召されてしまうのには、どうしても、その理由を突き止めたくなる。 理由なんて、到底、わからないのだが。 でも、主に「どうして?!!」と言いたい。 言いたいのではなく、叫びたい。
Jadの母親へ電話をした時に、最初にでてくれたのは、Jadの妹さん。 当時は、まだ中学生で、数学の方程式をこつこつと丹念に解いていたのを思い出した。 Jadの話をお母さんとしたあと、お母さんは、「今日、Maggieの試験なので、もう行かなければいけないの。」と言った。 Maggieは医者になりたいそうだ。 University of Miamiの医学部へ、奨学金入学となったそうだ。 あの、こつこつとやっていた、あの子が・・・・。 と感慨深かった。
電話を切って、ガレージの横にあるファイルキャビネットを開けた。 今までやってきた仕事のポートフォリオや、ファイルを保存してあるファイルキャビネットである。 そこから、「Jad」とタイトルのついたファイルをだした。
開けると、Jadの為に作った三角関数や、幾何学の問題が出てきた。 教科書に頼らず、Jadの為に、すべて自分で考えた問題集。 ご両親に宛てた、家庭教師のレポート。 教科書のコピー。 試験対策の自作の問題集。 分厚いファイルである。
このファイルは捨てるのを辞めよう、と誓った。
Jadは私の心の中で永遠のもとのなったから。
ファイルを元にもどして、旦那に電話した。
「覚えている? フロリダで家庭教師をしていたJadって子。 Seblani家の長男で。」
「うーーん。」と暫く沈黙し、「あーあの子か。」
600軒あったコミュニティーの中に、Jadと同じ年代の子供はたくさんいた。 でも、旦那のことをちゃんと「Sir」と付けて呼んだのは、Jadとコネクチカットから引っ越してきたシングル・マザーの息子さんの二人だけであった。
なので、Jadには、「あなたは、勉強できるけど、それ以前にあなたは、礼儀、と言うものが身についている。 だから、あなたは、きっと成功するよ。」と褒めたことがあった。
旦那に、「そのJad、どうしているってお母さんに聞いたら、亡くなった、って言われたの。 19才だったんだって。」と言った。
旦那、暫く沈黙した。 そして、こう言った。
「Have you hug your children today? 」
「(今日、子供達を抱きしめかい?)」
私は、「部屋を片付けろ!!」 と子供たちを罵倒したばかりであった・・・・・・・。
あかしや番頭 メールを送る
ps Jadの父親がJadの死後、"Jad Cancer Fund"というチャリティーFundを作っていたのをインターネットで見つけた。 Florida のCharity Fundで、Tax Deductableである。
コメント
ご無沙汰しております。
日本も暑いなつがやってきました。
ブログを読んで若者、子供達がなぜ先に死んでしまうのか?自分よりも善良である人がなぜ事故にあったりして死んでしまうのか?
その答えとなるのは「新訳」でイエスに兄さんが答えています。
しかしそこに目を通してもあかしやさんの納得いく答えが返ってくるかはわかりません。
しかし納得いかなくても当然でもあるのです。なぜか?それは我々は神においてあまりにも幼い乳飲み子に匹敵するからだとヒゲはかんじるからなのです。赤ちゃんは大人のやっていることは理解できません、かんしゃくを起こして「なんでぇーーー!!」といったところでやはり説明受け手もわかり得ないのです。しかし唯一わかりやすく砕いて我々に伝えてくださった部分がそのイエスに兄さんが言われた部分です。父なる神様のお考えは我々の思っているものとはかなり違っているのではと強く感じます。しかし神様に対してわからないことを教えてもらうための願いを続けていくことは大切な事だと思います。子供はわからないことを遠慮せずに聞くべきですね、そして我々の教えてくださるその教師・父親がこの世の一番の偉大な方なんて素晴らしい事ではありませんか。
ヒゲMac
「新約」の箇所は探してみましょう。 確かイエス兄さんは、「天国は、この子供たちのようなものがいくところだ。」というようなことを言われていたような。
何故、という問いは、このところ、天のお父さんに聞くことが多いですね。 ただ、教えてください、教えてください、とそれだけです。 いつか、私が天国に行くことが出来れば、その時、すべてわかるんだと思います。
でも、やはり知りたいことがたくさん。 しつこく祈ってきいていきます。 神さんが、「おまえ、ほんまにうるさいやっちゃなー。 ほれっ! 教えてやるから、静かにしな!」と言われるまで。 また、神さんはそういった対話を私だけでなく、人間全員から期待しているんだと思います。
ひげさんのコメントはいつも賛美にあふれていて、本当に励まされます。
どうもありがとうございました。
あかしや