No. 30 父の日 <長文>
今日は父の日。
今朝は、子供たちが作ったカードと、クリップオン(お札を挟む幅広のクリップ)が付いた、カード入れを子供たちから、旦那に渡してもらった。旦那は出張先でカード入れを紛失したきたので、とふと思いついて、この機会に購入した。
旦那はとても、良い父親である。
一緒に子供たちと遊んでくれるし、毎晩、子供たちの歯ブラシに歯磨き粉をつけて、洗面所においておいてくれる、という人である。
子供たちが悪いことをしたときで、いつもがみがみ言うマミーでは、効き目がない、というときは、旦那に登場してもらう。ちゃんと、理論で説明して躾けるので、感情で叱りがちな母親の躾とのバランスが取れる。
しかったあとは、子供をしっかりと抱きしめて、「愛しているから、怒るんだよ。」と言う人である。
一度、子供たちに 「ダディーとマミー、どっちが偉いの?」と聞かれたので、「そりゃー、ダディーだよ。」と答えると、神妙な顔をして、それ以上聞いてこなかった。
やっぱ、一家の中では、お父さんが大黒柱だな、と私らしくないようだが、そう思う。 また、そう思わせてくれる夫である。
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私の父は2004年8月20日に自宅で一人死んでいるのを警察に発見された。
入院中の母が何度も電話をかけても誰もでないので、近所の人に見に行ってもらった。そしたら、郵便受けに新聞が溜まっていたので、警察を呼んで天窓から入ってもらい、発見となった。
検死の結果、脳内出血が原因であった。検視医が注射針をうなじの方から刺して、注射器のピストン部を引いた所、血がでてきたので、死因がわかったそうだ。
猛暑の中の寂しい死に方であった。
目撃者は犬一匹。
この犬は、私がアメリカに留学したあとに両親が保健所から引き取ってきた犬。
父はこの犬をとても可愛がっていて、二人でよく晩酌をしていた。犬もビールを飲んだ。私が両親の為に買ってきた高いトロも、私たちが「あー!!」と言っているうちに、その犬にあげてしまっていた。
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父はお酒が入ると、私たちのことをよく怒鳴った。私たちが子供の時は、よく殴られた。人を傷つけることを平気で言った人であった。母のこともよくいじめた。
一度、私はあまりにも傷ついたので、母に「なんでこんな人間と結婚したんだ!」と、泣きながら、詰め寄ったことがあった。
思春期になってからは、私は、反抗を始めた。理論で父をたしなめたりしたから、喧嘩が絶えなかった。娘は母親との絆が強いものだから、私は母を守ろうと、父によくたてをついた。とにかく、家の中には、平安はなかった。特に、食事の時間はいつも喧嘩であった。ちゃぶ台ではなかったから、星一徹のようなことはしなかったけど。
*星一徹は漫画「巨人の星」の星飛馬(ひゅうま)の父ちゃんで、怒るとちゃぶ台をひっくりかえす、昔かたぎの男だ。
小学校の頃、友達に誘われて地元の教会に行った。 以前、書いたように、そこに通っている近所のお兄さんに恋心を抱き、教会に通いつづけたので、不純な動機からであった。
ある日、牧師先生が聖書のお話というのをされた。「父と母を尊敬しなさい」という箇所であった。 モーセの十戒(旧約:出エジプト20章)の4つ目か5つ目にそう書いている。
「父と母を尊敬しなさい」と言われても、母のことは出来ても、父のことは絶対にできない、と思った。
そのときから、私は教会に行かなくなった。
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1991年、私がアメリカに留学する日、縁側に母が正座して、「いつか一緒に住んでくれ。あの人が家にいるようになったら殺される。」と頼まれた。
父が退職して、家にいるようになってから、母にとっては、地獄の毎日であった。私への国際電話も文句言われ、食費にいくらつかったかも、こまかく目をひからせたそうだ。また、朝からお酒をのむようになってしまった。
母の入退院が頻繁になったのも、このころからである。それにつれて、私の帰国も頻繁になってきた。
2001年の、ある暑い夏の最中であった。
母が緊急入院した、という知らせがあった。何かの原因でで吐いた胃酸が逆流して気管から肺に入ってしまい、急性の肺炎を起こた。
呼吸困難をおこして、母が意識を失って倒れたときも、父は、はずかしいから救急車を呼ばずに、自分で運転して病院に連れて行った。
私は怒りを通り越して、哀れさと諦めともいえない、アンビバレンスな気持ちになった。
父の説明では埒があかないので、直接担当医に国際電話して、状況を確認した。 危くなる可能性はある、とのことで、まだ一歳半だった双子の女の子の方だけを連れて、当時住んでいたフロリダから横浜まで30時間かけて家に帰った。
空港から直行した病室で見た、母の顔色は土色で、酸素吸入器を付けていた。 それから毎日、時差ぼけと猛暑のなかで、病院通いと父の食事作り、子供の世話をこなした。
母の兄、つまり私の叔父も前立腺がんで手遅れ、という話もきいたので、東京は板橋まで、見舞いにも行った。
娘には、「ごめんね。 大変な思いさせて。でも、マミーのお母さんが死にそうだから、わかってください。」とお願いした。 娘はうんうん、とうなずいていた。
すごいのは、この子は一度もぐずらなかった。マミーが大変だ、というのがわかっていたんだろうか。1歳半で、ちょうど、離乳食が始まったときであったが、またミルクに逆戻りし、あまり食べなくなってしまった。
一日の行脚が終わると、背負われていても、娘はかなりつかれたのであろう、そのまま寝てしまい、朝まで起きなかった。
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ある晩、あまりにも暑かったので、冷房のある居間の床に寝るこにとした。家の中は、物だらけで、ぐしゃぐしゃで、ろくに歩けない状態であった。体が悪い母は家の中は片付けることはできなかったから。
通路の横にあるピアノの脇に娘と身を寄せて寝ていた。そしたら、夜中にトイレに起きてきた父に「じゃまだ!」とけとばされたのである。本人曰く、覚えていない、とのこと。 そりゃー、あんだけ飲めば人事不詳になるわい。母の睡眠薬もちょろまかして飲んでいたから、かなり変になっていただろう。
私だけだったら我慢するが、娘がいたので、翌日から埼玉の友達の家に避難した。そこから片道2時間かけて、毎日、横浜にある母の病院に通った。
帰国の日が近づいてきた。医者にもう少し、いられないか、といわれたが、夫ともう一人の双子も残してきていたので、もう限界であった。 母とは、これが最後か、と泣きながら、空港に行った。本当に情けなかった。
両手を同時に反対方向からひっぱられるという状況であった。
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その後、母はもち治して、退院した。しかし、酸素が必要な生活となってしまい、どこへいくのにも、小さい酸素ボンベを持って行かねばならないし、それも2時間くらいしか、もたなかった。
こんな父でも、退職後は母とドライブや夏の旅行に出かけていたので、その楽しみが奪われてしまった。 父にしては、子供たちが二人とも遠くにいってしまい、残ったのは病気の妻だけ。いったいこれからどうなるんだ、という不安だらけだったんだろう。
そのころから、父のうつ状態が始まった。母は私に父がベッドから起きてこない、食事もろくにとらない、お風呂に入らない・・・と。
同じ2001年だったろうか、また、母が入院したので、帰国。
今度は病院の横のウイークリーマンションに滞在することにした。自分が育った家があるのに、そこに帰れない、帰りたくない、という家無き子である。
親がいながら、なぜ、こんなに悲しく、苦しい思いをするのか。日本には、もう私の帰る場所はないと、とても悲しかったね。
さて、その滞在中、母と相談して、父のうつ状態を何とかしなければと、父の糖尿病の先生に長い手紙を朝4時までかかって書いた。結果、心療内科への紹介状をいただいた。そして、父の心療内科の初診に私はついていった。
問診表を渡されたが、父は目がよく見えないから、お前書いてくれ、と頼まれた。 私が父に聞く形で、記入していった。
質問の中に、結婚は、お見合い・恋愛、という箇所があり、「パパ、お見合い結婚だよね。」と言ったら、「恋愛だ!」と言いのけたのである。
!!???!!!
平静を装ったが、心のなかでは、ぶったまげの大驚きであったのだ。
さて、診察が始まった。医師は、父の話をじっと聞いていた。父はとても小さくなって、子供たちが遠くにいってしまったこと、妻が病弱であることを話していた。
私がちょっと口をだすと、「黙っていなさい。」という無言の態度を医者が見せたので、ひっこんだ。
医者の診断では、うつ病。 しかし、飲酒量が多いんで、薬は出せない、と言われた。寝ているときに息が止まる可能性があるからだ。
医者がいうのには、妻にしてあげたいことと、実際に出来ることのギャップに苦しんでいるということである。なので、自分を褒める、まわりが父を褒めてあげることをしてくれ、と言われた。
この日以来、私は少し父を見直した。そして、母と、通ってきてくれるホームヘルパーさんたちに、経緯を話し、できれば、これから父を「一生懸命やっているね。」と褒めてあげてください、と頼んで帰国した。
私はアメリカから、父によくやっているね、との手紙を書いた。
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時は流れたが、それでも、実家の状態は良くなったか、というとそうでもなかったね。2002年?ごろかな、一月の寒い日、父と母がいつもの喧嘩をしたらしい。 そして、母はついに出て行く!と荷物を詰め込み始めたら、父に殴られ、首をしめられたそうだ。
後日の母の検診のとき、医者にどうしたんですか?と首のあざの理由を聞かれたそうだ。
この首絞め事件を私が知ったのはずっとあと。そのことを母が書いた手紙を何故か私は気がつかなかった。または、敢えて開けずに、そのままにしておいて、忘れていたのか・・・・あまり記憶していない。 ずーっと後、テキサスに移ってきてから見つけた。
この家庭内暴力沙汰は、もしかすると、心療内科でその後出された精神安定剤とお酒のせいだったのかもしれない。
まあ、実家はそういう状態であった。
なので、日本に帰るのを楽しいとは、過去10年間思ったことが無かった。むしろ、苦しい思いだらけ。自分の育った部屋の天井に張ってある板の木目をじーっとみて、どうしてこうなんだろう、とため息をつく帰国ばかりであった。
2004年7月の中旬、母が定期検診のあと会計を父がしているときに、母が胃液をどばーっとバケツをひっくりかえしたように吐いたそうだ。そして、そのまま入院。白血球が800まで減少して(通常は3000から9000)感染に弱い状態になったので、ビニールの囲いの中に入れられてしまった。
バブルボーイならぬ、バブルおばさんだね。
それまでは、母の入院レンチャンが収まり、小康状態がつづいて、父も一息ついていた時であったから、父としてはがっかりしたんだろうな。
大変そうだから、急遽、シンガポールから帰国した。
家に入ると、「来てくれたか」と父が言った。食事を作ってあげて、「大変そうだから、パパは休んでいてください。私が母のことをします。」と。
私と二人きりのときは、素直な父親であった。
父は弟にも電話を頻繁にかけて、寂しさ、絶望感への救いを求めていた。しかし、大阪から埼玉へ引っ越してきたばかりの弟は、娘、という存在ではではない。あまりにも頻繁なる電話に対して、居留守を使ってしまったのである。
父はそれを知って、「あいつはひどいやつだ。」といった。
それが父の最期の言葉であった。
弟への文句はかなり前から頻繁に聞かされてきたけど、私では解決できない。父は、いろいろ言いたそうであったが、私が、「もう弟はそのレベルなんだから、あまり聞きたくない。」と突っぱねてしまったのである。
父は、「そうか」と言ったきり、言葉を飲み込んでしまった。
その翌日、母は入院中であったが、シンガポールに戻った。その後に予定のあったシンガポールからダラスへの引越し。そのために一旦帰らなければいけなかった。
「また、すぐ来るからね、今度は可愛い双子と一緒だよ。」と父にタクシーの窓から言った。 そして、横浜シティーエアーターミナルにむかった。
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日本からシンガポールに戻って4日後の夜中の12時すぎ。いとこから電話があり、「おじさん、死んだんだって!?」。
何、冗談いうか、この馬鹿!
よくわからないので、個室に入院中の母に電話したら、そうだ、とのこと。
それでも信じられなかったので、発見してくれた人を夜中の2時であったが電話して、たたき起こしてしまった。やはりそうだ、という。
やすらかな死に顔で、これがいつものお父さんかしら、と驚いたとのこと。
妻がまた入院、それもいつ退院かわからん、という白血球減少。そして、それまで、近いシンガポールにいた娘がまた遠いダラスにいってしまうこと。息子には電話の居留守を使われる・・・・。
ついに、限界がきたのか、それが父の「時」でもあったのだろうか。
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通夜の前の夜、かけつけてきてくれたホームヘルパーさんたちが言ってくれた。
「ヘルパーのお仕事で、色々な家を訪問いたしますが、あかしやさんのお宅はきちんとしていらして、本当に変な扱いをうけたことがありませんでした。」
「お父さんは、ヘルパーが『お勝手が暗いので、もう一つ電灯を取り付けてくれますか?』、とお願いしたら、すぐに買い物にいって、取り付けてくださいました。」 「他の家庭でありがちなセクハラもありませんでした。 お父さんは紳士でした。」「奥様を助けておられて、立派でした!」といってくれた。
後日、別のヘルパーさんが、父がしみじみと「○○さん、娘・・ってのは、いいもんですね。」と言っていた、ということである。
くそ暑い最中の葬式。でも、父の顔は確かに穏やかであった。
ちょっと変な話であるが、酒好きの父の為に、山田錦を竹でできたコップについで祭壇においてあげた。たまに、両親と3人で横浜ジョイナスの店に食べにいったとき、いつも山田錦を父と飲んだから。
一晩あけた告別式の朝、弟がその竹のコップを指差した。たしかに、酒が減っている。そして、飲んだあとがあった。
うーむ。 父は、自分の葬式でも、しっかりと飲んだか。 さすが、飲ん兵衛。
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告別式。
父の兄弟姉妹、母方の親戚、私の従妹たち、父の友人、多くがきてくれた。
長ーいお経の間、父の兄=私の叔父は、参列している息子を脇から突っついて遊んでいた。
私の旦那は父のお棺に花をいれるとき、泣いていた。
夫との結婚を決めたとき、旦那を両親に紹介するため、日本に連れて行った。そのとき、言葉が全く通じないのに、旦那と父はお酒を楽しそうに酌み交わしていたなぁ。翌朝は二人で二日酔いで死んでいたけど。旦那、それを思い出していたんだろうな。
葬式が終わり、入院中の母を見舞い、シンガポールからまたアメリカに引き上げる為の引越し準備もあるので、シンガポールに戻った。
当時の働いていたアメリカ大使館で、大使館所属の医師に「脳内出血での死は苦しいのですか?」と尋ねた。「意識がなくなってあっという間だよ。」と答えてくれた。
不思議なことに、死の一ヶ月前に父は遺言書を残していた。すべて妻に残す、と。
また、父が亡くなった週末は、私たち家族は、タイのカオラックというリゾートに家族で行く予定であった。それが、おじゃんになった。
この二つの事柄:遺書とカオラックはこの後書くであろうブログの伏線である。
その後、私と母と私の家族に起きたことは、これまたすごかった。
このことを書くのには、かなりの力と時間と自分の心の平安がいる。 そして、苦しいことがあったが、これが私と母の為の神さんの計画の始まりだった。 このブログを書いている時点では、 事の結果が出ていないので、機を見て投稿する。
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父の日の今日、夕飯後、子供たちと一緒にお風呂に入った。
この間まで、赤ちゃんだったのに、こんなに大きくなったな、と思った。
私が湯船につかり、子供たちを立たせて、体を洗ってあげるのだ。娘のおへそをみていて、突然、昔の光景がフラッシュバックした。
ちょうど私が子供たちの年頃、6-7歳であっただろう。お風呂から出てきた私たち姉弟を父がバスタオルで拭いてくれた。私たちが居間に立ち、父が座っていた。
父が私たちのおへそあたりにぶーっと音を鳴らしながら、ちゅ-して父は言った。
「パパは、お前をとても愛しているよ。」と。
突然、涙があふれて、あふれて、止まらなくなった。いま、夜中の一時半だけど、泣きながらこれを書いている。
父の生まれた家は、事業の失敗の為、娘を売り、一番下の女の子も養女に出したらしい。そんな中でも、長男だけはものすごく大切にされた。 父は4人(本当は5人)兄弟の末っ子であった。だから、プライオリティーは低かったであろう。
第二次世界大戦の空襲(昭和20年かな?3月の東京大空襲)で家が焼けたらしい。一時期、一家は離散していたそうだ。父の母親というのも、片目がなく、意地の悪い人であったそうだ。
母によれば、父は愛の無い家庭に育ったらしい。
聖書の言葉が浮かぶ。
「神は愛である。」
「愛は寛容である。」
「最後に残るものは愛である。」
天のおとうさん、父によろしくお伝えください。天のおとうさん、父はあなたを知る前に亡くなりました。今はどこにいるかわからないけど、もし、天国にいなければ、お願いします、父を天国に連れていってください。
父の日、おめでとう。
パパ、あなたのお陰で、私の命があります。
パパ、有難う。 愛していてくれたんだね。
あかしや
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