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No. 106 宗教ロック by 忌野清志朗さん

今も清志朗さんのビデオをいろいろ見ている。 以下のビデオ、ものすごく気に入った。 本当に、日本ってそうだ。 女性雑誌を開けてみると、ものすごいページを割いて、サイキックのページやら、オーラのナントカというページ。 百鬼夜行の日本である。 清志朗さんのメッセージは鋭い! あかしや

No.105 忌野清志朗さん

うちの旦那はメキシコに出張に毎週のように行っている。 出張先がメキシコ・シティーだと、必ずホテル・ニッコー=日航ホテルに泊まる。 私も以前、仕事でメキシコ出張したときに一ヶ月ほどお世話になったホテルである。  顧客には、日本人が多いので、(ユダヤ人も多かったと思う。)日本語の新聞や雑誌のサービスがある。 ということで、メキシコ・シティー出張のお土産は、日経新聞と共同通信のダイジェスト版である。 昨日、もってきてくれた7月中旬の日経新聞をベッドでぼーっと見ていたら、一つの記事があった。 キヨシローが喉頭がん克服した、という矢先に、今度は、腰の腸骨にがんが移転していた、という記事であった。 キヨシローとは、RCサクセションの忌野清志朗さんである。 私の世代より一回り上の団塊の世代の人で、日本を代表するといってもいいロッカー。 特に有名なのが、「雨上がりの夜空に」という歌。 題名と歌詞がまったくマッチしないけど、こんなサビのある歌。  ♪ どうしたんだ Hehe Hey 俺のポンコツ~ ♪ というと、ああ、あの歌、と思い出す人もいるだろう。  この曲は、サブリミナル・メッセージがあるので、クリスチャンとあまり結びつかないかもしれないけど、でもこういう歌です。 彼が、喉頭がんで治療に専念していた、というのは、海外にいる私でも知っていた。 でも、やっと復帰した矢先に、がんの転移ってのは・・・。 私は中学のときは、井上揚水、吉田たくろう、古井戸、かぐや姫、NSP、などなどのフォークソングのグループが華々しい活躍をしていた時代であった。 当然、私もギター担いで中学校に通っていたわけ。 でも、ロックはしなかった。 だって、エレキギターやドラムは手が届かなかった。 お金のあるお兄さんお姉さんしか出来ないことだと思っていた。 だから、清志朗さんの存在はそのときは知らなかった。 彼の存在を知ってからも、別にファンになったわけではなかった。 そのころは、浜田省吾に没頭していた。 省吾さんのことは、また別の機会に書こう。 でも、たまにテレビなどに出てきた清志朗さんを見ていて、何故か私はこの人に一目置いていた。 存在感もあったし、やさしさというのか、純粋な感じも受けていたからかもしれない。 清志朗さんのニュースを読んでから、改めて、彼の音楽を聴いてみた。 つくづく、彼のロックは、歌詞といい、曲

No. 104 おちこぼれ (その1)

この書き込みは長くなってしまったので、3部に分けた。 辛抱して、読んでくれれば幸いですだ。 ***************** ダラスはこのところ、ものすごく暑い。 華氏98度の連日である。 摂氏にして、35度位だろうか。  先週は月曜日から金曜日まで、ダラスの南にあるCFNI(Christ For the Nations)という聖書学校で、子供たちの日中のキャンプがあった。 そのため、朝、8時前に家を出て、他の通勤車と混じって、ダラスの南まで延々片道30マイル(48キロ)位を通った。  子供をCFNIで下ろしたあと、更に南に向かって、税制の講座を受けていた。 講座が終わったら、CFNIに戻り、お弁当を食べて、図書館にいって、聖書辞書を見ていた。 そして、4時に子供たちをピックアップして、帰宅。 なので、家に帰れば、5時。 6時過ぎには、夕食なので、すぐ夕飯の準備。 結果、自由時間がまったく無い一週間であった。 それに、疲れた。 働いているお母さんって、いつ、掃除、洗濯するんだろう、と思いいった次第。 今は、先ほど漬けておいた韓国焼肉を焼いて味見している。 今は、夜中の11時。 夜食にしては、ヘビーである。 でも、少しおなかがすいた。 ようかんよりは、いいか、と緑茶をすすっている。 昆布茶でないところが、まだ、モダンであろうか??  ようかん、と書いたら、ようかん、食べたくなったなぁ・・・。 島根県から送っていただいた、ようかんがあるんだよなぁ・・・。 島根県のお茶とお茶菓子は、品のある味で、美味なんだよね。   ええい! たべちゃおう! イエス兄さんは、40日間断食をしたのち、悪魔に試みられた。 悪魔が今、私に、「ようかん、たべれるんだぜ。」と言われたら、私は簡単に食べてしまう。 あーあ。 所詮、神と人間。 出来が違うわ。 ******************* 先週の日曜日の礼拝後、教会の日本人の人達と言葉を交わしていた。 十代、つまり、ティーンになると、難しい、という話題。 私自身、十代のとき、悪かったんだよねー。 というと、「ええっ! そう見えない。」といってくれた慈悲深い方がいた。  事実、私はタバコを辞めたのが、14歳のときであった。 始めたときではなく、辞めたとき。 お酒は、10歳から。 親に口答えするわ、とにかく何もかも、反抗的であった。  中学のと

No. 104 おちこぼれ (その2)

(その2):劣等感、短大、会社 さて、私の成績と大学進学はどうだったか、というと、「おちこぼれた」。 一年生のときは、クラスで17番くらいだったらしい。 でも、2年になって、びりけつ。 3年もたいしたことがなかった。 何故か、というと、恥ずかしいが書こう。 2年のとき、クラスの男の子のことが好きになって、勉強が手につかなくなったのである。 あー、はずかしいが、これが事実。 3年のときは、別に付き合い始めた男の子と2ヶ月くらいで別れてしまい、これまた落ち込んだ。 つまり、男が原因であった。 ああ、中学までの優等生がこれである。 ほんとうにださかった。 さらに、私たちの年代は、共通一時試験元年。 英語を勉強したいのに、なんで、物理や化学を勉強せにゃあかんのか! というのが私の大いなる怒りであった。 だって、物理の先生は、紙一重だったので、授業聞く気にならなかった。 化学は、あの化学記号の表を覚えるのが気違い沙汰に思えた。 なので、物理と化学は自主カットしていた。 卒業できたのが不思議である。 まあ、こじつけはともかく、授業料の安い国立大学ははなから考えなかった、という親不孝であった。 さらに、まったく勉強していなかったし、受験勉強がいやだった。 有名私立女子大、英語で有名な私立大学など、一応は受けたけど、受験料の無駄であった。 親には、悪いことをした。 それでも、母が「ここはどうかしら」と持ってきた入学願書があった。 上智短大であった。 「希望が丘を出て、短大なんて。」という自尊心が私にはあった。 でも、一応受けた。 そうしたら、情けないことだったが、補欠合格した。 多くの人たちが滑り止めに受けていたため、入学を辞退する人たちが多かったからだろう。  結果として、自分の意思にそぐわない、女の園の短大に入ることになった。 上智短大は、上智大学のある四谷にはない。 神奈川県のそれも箱根方面にある、秦野(はだの)の山ふたつにある小さな、英語科しかない女子短大。 一学年250人。 たったの250人。  高校までは、バンカラな校風(早稲田に近い)で、一学年540人x3=1080人のマンモス校にいて、それも、すごい輩がいる型破りな学校で謳歌していた。 それが、都落ちというのか、お嬢様が多く全学年500人で、教授は、スペインから来たシスターや、神父様ばっか、というイエズス会(カトリッ

No. 104 おちこぼれ (その3:最終)

(その3):留学~現在 あるときから、私は留学を考え始めた。 それは、会社で出世したいから、というより、「杭をぬきにいく」、ただそれだけであった。 そのため、当時としては、700万円の年収があったが、それを捨てた。 貯金は、余り無かった。 それでも、TOFELなど、こつこつと勉強し、休みのたびにアメリカに赴き、学校を訪問するなど、親にも、友人にも、会社にも内緒で一人でこつこつと準備していた。 無言実行だ、と自分の心に刻印して、飽きやすい私としては、珍しいほど地道に準備と努力をしたのであった。 留学の決意を親に話したときのこと、留学後のひもじい極貧生活、勉強の苦労、そして、就職など、今回の書き込みでは、書ききれないので、別の機会にゆずる。 ただ、母は、「あなたには、やり残したことがある。」と自分が病気なのに、娘を出してくれた。  到着地のニューヨークでのひもじい生活、勉強で寝れない日々はあった。 本当にあった。 しかし、遊びというものをかなりの規模でかなりの深さで、日本での会社員時代に済ませてしまったので、ニューヨークでは、ただ、ただ、勉強に没頭できた。 当時、32歳。 学生ビザだけであったし、会社はおさらばしてしまったので、収入は無かった。 毎日、予習のために、分厚い教科書をかなりのページ数を読まなければならない。 英語を日本で勉強して、仕事に使っていたからといっても、アメリカの学生生活には、足らないレベルでしかなかったのである。 なので、教科書を読むということだけで、ものすごく苦労した。 教科書は当然、英語。 私は帰国子女ではないから、ものすごいハンデがあった。 ニューヨークは8月の下旬から寒くなる。 9月になれば、吐く息が白くなる。 ひもじいわ、勉強は大変だわ、一人ぼっちだわ、寒いわ、金はないは、食べるものはないわ・・・というときに、愛犬の死の知らせが真冬に届いたときは、「私はここで何をしているのだろう。」と半日泣いていた。 しかし、春になって、スピーチのクラスで大きなハードルを越えられたことがあった。 寝ずに、努力した結果であった。  それまで、自分は、日本人にしては、英語が多少は出来るほうだという、お門違いの自負があった。 しかし、スピーチのクラスの教授に、「あなたの言っていることは、クラスのほとんどが分かっていない。」とはっきり言われて、がーん。 大ショッ

No. 103 訃報の折々

今は、夜中の一時近い。 明日は、朝6時起床なんだが、ちょっと書かないといけないなと思う。 いつものぶっちゃけ口調ではなく、今回はちょいとまじめ。 それも、イエス営業部として、まじめに書く。  先ほどまで、日本から来た訃報に返信していた。 父方親戚の3人の訃報の知らせ。 日本とは、半分音信不通の状態であったが、おじが亡くなったので、送ってきたらしい。 おじの訃報以外は、過去の訃報の報告であった。 私は、近年、日本に帰るたびに、「今しかできないこと」を両親と親戚と友達にしてきた。 上記訃報を受け取った3人の方たちには、近年、お見舞いと訪問をしていた。  一人には、泊めさせていただいて、昔の話などを聞かせてもらっていた。 なので、自分なりの満足感というのがある。  葬式は、残された人たちの心のやり場の行き着くところ、死を周りが受け入れるための儀式であって、亡くなった本人のためだけではないと思っている。 だって、死んでしまっていて、この世では本人はやることがない。 それより、本人が生きている間に精一杯のことをしてあげるほうが、同じ生きている者がすることだ、という思いがある。 なので、帰国のたびに、「今しかできないこと」をしてきた。 父が突然亡くなる直前には、シンガポールから飛んでいった。 母の入院と夏の暑さで、げんなりしていた父に食事を作ってあげた。 また、私が母の面倒をみるから、休んでいて、と。 短い滞在を終えて、私が空港に向かうタクシーに乗ったときは、いつものように、半分喧嘩状態であった。 その4日後、父は自宅で一人で倒れてなくなっていた。 その直後は、私は、父が私に言いたかった愚痴を半分だけ聞くだけにしてしまったので、泣いて悪かったと反省した。 しかし、日本に駆けつけてあげたこと、食事を作ってあげたこと、短かったけど、時間を一緒に過ごし、話を聞いてあげた。 それが、私にとって心の平安につながった。 母は・・・。 これは、圧巻であった。 まだ、ここに書けるほど、私の中で熟成していない。 しかし、母が亡くなる前の一年は、激動の一年であり、私が主にものすごい勢いで引き寄せられ、奇跡や不思議なことを体験させられていた。 あっという間にイエス営業部になった。 そして、苦しい道を通り、泣きながら祈る毎日であった。 母は、クリスチャンであったが、このまんまだと、地獄にいっちゃうぞ、

No. 102  夏休みだ!

投稿を書き始めて、No.102と書いた。 そうか、もう102以上も、トピックを書いているのかぁ、と改めて驚く。 よくもまあ、つづけられるものである。 下手の横好きというのか。  夏休みが始まった。 といっても、私のではない。 子供の夏休み。 ここ、北テキサスの我が家がある学区では、5月下旬から8月下旬までの3ヶ月が夏休みとなる。 日本は、7月20日あたりから、8月下旬くらいまでだったと記憶する。 なので、日本の子供たちの学校の時間はアメリカと比べて長い。 私の時代なぞ、土曜日も半ドンだった。 ちなみに、半ドンは死語になりつつあるのだろう。 私の両親が働いていた時代、昼には、「どーん」という太鼓か何かを鳴らして、お昼を一般市民に知らしていたとの事。 一日の半分の時間にどーんとなるから「半ドン」というのである。 今年は、日本には、帰らない。 過去15年で妊娠中を除いて、初めてのことである。 日本には、もう帰る場所がなくなったのと、飛行機代がないからである。 石油高騰の折、飛行機代だって、ものすごい。 4人で帰れば、簡単に五千ドルは超えてしまう。 私のへそくりも、母の遺品を片付けに帰った2年前の渡航時で消えた。 それまでは、無理せずとも、日本には帰れた。 これも、今は、帰るな、と言われているのだと思っている。 昨年の今頃は、子供たちを金沢の片田舎の小学校に入れた。 小中高の同級生も帰国に関して、よく助けてもらった。 しかし、アメリカに戻ってきたら、ものすごい時差ぼけで一ヶ月使い物にならなかったこの私。 子供たちは放牧状態だった夏であった。  一方、この夏は、じっくり座っていろいろな計画が立てられて嬉しいのである。 まず、新しいパティオ家具を買ったので、朝一番はコーヒーを野外のパティオ家具に座りながら飲む。 そして、聖書を読む。 新聞も。 朝は気持ちが良いものである。 パティオの正面には、池があって、小さな滝のようなものがある。 水の流れる音が涼しげであり、リラックスさせられる。 そのあと、家庭菜園つくりの土方を早朝する。 日向でする作業と日陰でする作業には、大きな違いがある。 体が楽である。 そして、子供たちと朝食をとり、何をするか決める。 今の所、Mommy’s Summer Schoolと謳って、いろいろな勉強や理科の実験などをしている。 毎日はなかなかできないけれど

No. 101 誕生日のプレゼント (その二)

(その一からの続き:スクロールして、この書き込みの前にその一があります。) 実は、あまり他言しなかったのであるが、私は先週の木曜日に胃カメラと大腸内視鏡の検査を受けた。  具合が悪いからではなかった。 春は、毎年健康診断の時期としている。 3月下旬から4月半ばまでは、Taxの仕事で忙殺されていたので、いつもより、多少おくれた健康診断であった。 でも、一般検診、婦人科検診、歯のクリーニング、マモグラムも5月までに、全部済ませた。 3月の一般検診の時、医者に大腸内視鏡のことを話したら、早速専門家を紹介してくれて、Taxが終わったあとの5月下旬に検査となった。 検査前日は、固形物を一切取らない上に、夜から下剤を飲んで、腸と胃の中をからっぽにする。 夫が2002年に大腸内視鏡をしたとき、頻繁なる下痢に苦しんだのをみていたので、躊躇する心があった。 しかし、ファミリードクターは医者を紹介してくれていて、その専門医のオフィスから予約の電話が入っていた。 なので、勇気を出して、日時を決めた。 何故、大腸内視鏡をしようと決意したのか。 それは、母方の祖父が60歳で大腸がんで亡くなっている。 私が生まれる半年前であった。 そして、昨年の12月に歳の近い従妹が大腸がんでこの世を去ってしまった。 まだ、十代のお子さんがいる、というのに。 なので、40歳代後半となるので、もうした方がいいな、という思いがわきあがったからである。 小心者の私である。 検査前日の下痢の苦しさを見ているので、何もしない前から少しびびっていた。 また、あの内視鏡のくだを口から、そして、菊の御紋からいれられる時に気持ち悪くなるんではないか、という不安があった。 なので、先週の礼拝の後、パタリロ牧師に祈ってもらった。 そして、一週間、祈った。 果たして、恐怖はふっとんで、怖くなくなった。 それは、検査当日も、まったく怖くなかったのである。 すべては、神さんに任しているという安心感があった。 さて、検査前日、下痢は別に大した苦労でもなかった。 ただ、下剤につかうPhosopho Sodaがまずい! あの味なんとかならんか。 それだけが、ちょっと大変といえば大変。 べつにといえば、別になんでもないという程度のこと。 検査当日は、綺麗な病院だったし、検査室で麻酔というか、睡眠薬を投与してくれる看護婦さんか医者がなかなか気のき

No. 101 誕生日のプレゼント (その一)

今日は、6月2日。 横浜の開港記念日であり、また、私の誕生日である。 小学校と中学校は横浜市立の学校に通っていたので、私の誕生日は学校はいつもお休みであった。 さらに、山下公園では、花火が上がる。 横浜中が私の誕生日を祝ってくれていたようなものであった。 しかし、ダラスは・・・くそ暑い! 今日も30度は越えていたかもしれない。 一昨昨日の土曜日は、旦那とディナーに行った。 Mi Piaci (イタリア語で、You like me.)というGazatに出ているレストラン。 http://www.zagat.com/Verticals/PropertyDetails.aspx?VID=8&R=65311&AJX=Ntk%253DGeoChildID%25257cHomepage+Search%2526Ntt%253D850%25257cmi%25252bpiaci%2526VID%253D8%2526N%253D120%2526Ntx%253Dmode%25252bmatchall%2526Nr%253DOR%2528Item%25252bStatus%25253aActive%25252cItem%25252bStatus%25253aTemporarily%25252bClosed%2529 たとえ、土方をしている私でも、イタリア料理には、ちょいとうるさい。 イタリアには、合計3週間くらい滞在していて、いろいろ味わってきた。 南イタリアには行ったことがないけど、中部から北部は巡った。 昔、イタリア人の彼氏がいたから、彼を通して、イタリアの文化、言語、食を勉強したのである。 アメリカでは、パスタのゆで方からなっていない。 水が違うからかもしれないけど、どうしても「うどん」状態のパスタがこの国では出てくるので、いつも落胆している。 ということで、なかなか本当のイタリア料理にはなかなかめぐり合えないもんだわ、と諦めていた。  しかし、このレストランは、北イタリア料理専門。 だったら、リゾットと海産物だろう、ってことで、オーダーした。 かなりレベルが高かった。 サービスも肩が凝らず、Maitre’Dのイタリア人のおじさんもイタリア人ならではのジョークで話してくれて、心地よかった。 お値段もあれだけ頼んでも、$200超えるだろう、と構えていたら、ウエイターへの

No. 100  土方祈祷

5月にはいり、土方ばかりしている。 なので、あかしや番頭という名前より、ひじかた(土方)番頭という名前のほうがあっているんじゃないか、と思うこともある。 それに、この書き込み、一ヶ月ぶりである。 朝から夜までくわとシャベルをもち、土を掘り起こしているから、コンピューターの前に座る余裕もなし。 今は、日曜日の夜の11時。 もう寝なくてはいけない。 しかし、ちょっと書かないといかんなぁ、と思う。 土方って、結構自分にあっている、と思う。 脳みその容量が一ビットの私にはうってつけである。  また、土を掘り起こしながら、雑草や芝の根を引っこ抜きながら、神さんに話しかける。 こんな作業や土や草からいろいろ考えさせられる。 ミントをだいぶ前に旦那が植えた。 はみがきこが作れるくらいに、繁茂して、手がつけられない状態である。 抜いても、根が残っていると、しばらくして、生えてくる。 イチゴ畑には、ミントが生えている。 抜いて、これで大丈夫、と思った一ヵ月後に、またはびこっている。 ちょっとした他人への批判を口にだすと、それがいつのまにか、周りの人に広がって、人々の心に巣食って侵食するのと同じだなぁとシャベルの柄に寄りかかって思う。  庭にはバミューダという種類の芝が生えている。 日本のゴルフ場で使っているかもしれない。 この芝がある表土をくわではがして、畑を裏庭に作っている。畑、といっても、せいぜい、一畳の大きさのを数個作るに過ぎない。 そんな小さな面積でも、芝をはがすのは重労働である。  芝をはがして、ブロックを積み重ねて囲んで、そこへ、土を入れる。 芝を全部とったつもりでも、小さな根っこが残っていると、一週間後には、バミューダが芽をだす。 それを引き抜くこのごろ。 まさに、バミューダ開戦である。 人間のねたみ、うわさ、というのもほっておくと、バミューダの芽のように、ぼこっぼこって出てくる。  一方、神さんと個人的な関係を経験したイエス営業部の人たちもそうであるんだ、と思う。 たとえ、芽を摘まれても、根がのこっていれば、また新芽を出すことが出来る。  中国では、共産主義が席捲したとき、宗教は禁止というか、払拭されてしまった。 しかし、根は残っていたのだろ。 中国では、90年代から、イエス営業部の人たちがどんどん増えている。 地下教会も増えているし、表にもでてきている。  キリシタ

No. 99 ないがしろにしてすんまへん

つくづく、言うは易し(やすし)、行うは難し、と実感している昨日と今日。 聖書を読んで、御言葉に感じ入っても、本当にそのとおりにしているか、というと、実際には、そうではない。  祈らなければ、と意識しても、実際に祈らないことが多かったこの4ヶ月であった。 せっかくの御言葉も馬耳東風であった。 仕事が4月15日で終了したのは、前回の書き込みで書いたとおり。 次の仕事・・と焦ってみたものの、感触はなし。 祈っていないからなぁ・・・というのが前回の内容であった。 でも、神さんはメッセージを送ってくれていたんだ、とこの日曜日実感した。  昨日の日曜日にいつものように教会へ。 週報を手にとって、席へ。 週報に目を通したら、あれまー、前回頭に浮かんできた聖書の箇所がしっかり載っている。  ・・・・・しかし、あなた方の天の父は、それがみなあなた方に必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義を第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものは、すべて与えられます。 (マタイ6:32,33) ああー、やっぱり、いわれてしもた。  礼拝のあとの祈りの時間にパタリロ先生に祈ってもらう。 先生を通して、天のおとっつあんに言われたことは、「祈りなさい」。 あーあ・・。 それとなく、言われているのに気がついていた。  「お~いい。 最近、わしを慕う声、呼ぶ声が聞こえてこんぞ。 どうしとんのや。 わしゃ、いつもここにおるで。 おるっちゅーのに、お前は、勝手にCraigslist.comで勝手に仕事さがしおって。 その前にやることがあるだろうが。 わしを頼れっちゅーことや。 まったく、お前はしょうがないやつだなぁ。 仕事なんちゅーもんはなぁ、ぎょうさんあるんやって。 そんなん、わしがいつでも都合つけたるわ。 わしんとこ、くりゃいいだけや。 それより、お前のすることあるやろ。 最近さぼっていること、やり直せい。 4ヶ月の間は、目をつぶっておったが、わしかて、そんなに待てへんのや。 わしはなぁ、自分のこどもと話がしたいんじゃ。 話しかけてもらいたいんじゃ。 お前の欲しいものはすべてわかっとるからなぁ。 必ずナントカしてやるからいいのじゃ。 ただ、話しかけてくれんことには、わしだって、なにもできへんがなぁ~。」  てなことだわさ。 江戸っ子に書かせたら関西弁もめちゃくちゃである。

No. 98 Taxの仕事終わり一休み

4月15日から一週間経つ。 アメリカでは、日本の確定申告のようなものを国民の多くがすることになっている。 その締め切りが4月15日。 私の仕事もその日で終わった。 久々の仕事で、初めてのTax Filingということで、当初はものすごくびびった。 でも、ナントカ生き延びた。  当初、新人は6人であった。 12月下旬から始めて、第一ピークの終わる2月17日あたりが契約が切れる日であった。 その時が評価の時期。 なにせ、びびりまくっていたし、失敗も結構したから、こりゃー、首だわ、と思っていた。 でも、首はいやだなぁ、みっともないし、かっこ悪い、と思い、ストレスでいっぱいになった。 心配したのである。 見かけによらず。 ストレスに多忙。 水さえ飲む時間が無かった一月のピーク時には、脱水症状も起こしていた。 でも、ある日、思った。 心配なのは、自分の自尊心のことだけ考えているからである。 失敗を恐れるのは、外聞を気にするからである。  これって、自分だけが大事だから、という考えだ。 聖書的にいうなら、自分を偶像崇拝している、ということである。 ええい! もし、神さんがこの仕事を続けなさいっていうのなら、契約更新となるだろう。 この仕事が私に向いていない、という神さんの判断なら、契約は更新されないだろう。 代わりに、別の私にもっと適した仕事が与えられるはずだ!と、ひらきなおった。 強いていえば、神さんにこの件は投げ打っちゃったのである。 そうしたら、気持ちが楽になった。 他人に、いや、神さんに責任をすべて押し付けてしまったから。 こうなったら脳天気の私。 更新のことなどすっかり忘れてしまったのである。 ほんとうに単純なアホである。 ある日、仕事が一段落したとき、ボスに呼ばれた。 おおっ! そうだ、更新の話か。 期待しないで、首になる、と思っていたほうが、ショックが少ないから、そう構えて会議室に入った。 そうしたら、「契約更新します。 週一回くらいしかないけど、それでもいいですか?」だって・・・。 唖然としていたら、ボスが「6人のうち、残ったのは二人だけよ。」とのたまわれた。 ************************* その後は、いろいろなTaxのFilingをした。 そして、いろいろな人生を見た。 離婚した夫にクレジットカードを使い込まれていて、クレジットカード会社に

No. 97 「がんばってください」

私も人並みに、Mixiというものに参加している。 ここのところ、ずっとご無沙汰していたが。 MixiはアメリカのMy SpaceやFace Bookのコピーみたいなもので、自分の日記を書いたり、コミュニティーを作ったりできる。 メンバー同士で、メッセージを取り交わすことも出来、使いようによってはまあまあのサイトかもしれない。 (ただ、あまりのめりこみすぎると、自分の時間がなくなるので、ほどほどにしないといけないと思う。 また、誰が見ているか分からないから、個人情報、とくに写真や実名は避けるべき場所でもある。) 日記を書くと、自分の友達がコメントを入れてくれる。 コメントをくれた人には、礼儀として、お礼を書いたり、コメントをさらに付け足す。 時には、泣き言を言ったり、時にはうれしかったことを書いたり。 励ましたり、励まされたり。 時には、悩みを言ったり、聞いたり。  私も時間に余裕があれば、人の日記にコメントを書く。 そのコメントのなかで、あまり安易に使いたくない、というフレーズがある。 Mixiの日記へのコメントだけでなく、日常の会話でも、あまり使いたくない。 一方、言う言葉がさがせず、安易にこのフレーズを使ってしまったときは、自分が「サボった」感じがして後味が悪い。 そのフレーズとは、「がんばってください。」 なのである。 高校のバスケ部のときの掛け声は、「ファイトファーイト がんばろー!」であった。  これから何かの目標に向かう人への常套の励ましの声は、大体「がんばってください」だろう。 人に相談を持ちかけた時、あまり詳しい話はしてもらえず、最後の挨拶が、「がんばってね。」の場合が多いだろう。 過去のオリンピックのコマーシャルでは、「がんばれ! ニッポン!」があった。  ちなみに、中国語でがんばれは、「加油」。 火に油を注ぐってことかい? 例を挙げれば、枚挙に暇がない。 日本国中、「がんばって」のバーゲンだらけである。 なので、「がんばってください。」のフレーズは、私の中では、陳腐化してしまっている。 それでも、めんどくさいとこのフレーズを使ってしまい、また後悔する。 うつ病患者の方へは、「がんばってください。」と言葉をかけないほうが良い、と聞いた人もあるだろう。 「がんばりすぎて」うつ病になってしまった場合もあるからであろう。  私自身、親のことで、日本とアメ

No. 96 君子蘭 (くんしらん)

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前回のBlogが2月10日に書いたままであった。 Taxの第一ピークが終わりつつある頃で、まだ、寒い頃。 ダラスでは、雪が2回降った。 今日は、3月27日。 気温は、25度近く、うちの旦那は、家の冷房をつけた。 一ヶ月前は、雪が降ったのに、もう、冷房の季節となった。 人が忙しくしている間に、庭には、雑草が芝生をしのいで、繁栄してしまっている。 久々に仕事のない明日の金曜日は、雑草取りと、鉢の植木の土を新しくしてあげる日とするか。 ****************** 一昨年の2006年の12月日本に帰った。 帰路、私は密輸をした。 密輸をしたのは、かんきつ類でもなく、薬でもなく、動物の毛皮でもなく、食品類でもなかった。 なにかというと・・・・    根がついた小さな植木 であった。  大事に、大事に、ティッシュで包んで、ジップロックに入れて、バックパックに忍ばせた。 税関をなんとかすり抜けて、密輸に成功して、ダラスに戻ってきた。 ダラスの自宅に着いたあと、すぐに鉢に植え替えた。 2-3鉢できた。 それから、1年半ちかくなろうとしているが、今は、2鉢しか残っていない。 一鉢は、夏の暑さで死んでしまった。 残りの2鉢も順調とはいえない。 一鉢は、とても小さな葉である。 もう一鉢は、元気に葉をだしていたのだが、この秋から冬にかけて、外に出しっぱなしにしてしまったのが、まずかった。 寒い夜のあと、へなへなになりつつあって、いそいで、屋内にいれた・。 葉が抜けて、もしかすると手遅れであるかもしれない。  その植木は、「君子蘭」(くんしらん)という。 私はお江戸生まれである。 しかし、3歳半から育ったのは、横浜である。 私の部屋は南向きの四畳半であった。 縁側もついている。 その縁側にそって、植木棚があった。 冬だったか、秋だったか、早春であったか、あまり記憶が定かではない。 君子蘭のオレンジ色の花が、その植木棚の上で列をなして咲き誇っていたのが、脳裏に焼きついている。 その君子蘭は、母の父親、つまり私の祖父が大事に育てていたらしく、母がそれを横浜の家に株分けして持ってきたらしい。 鉢もすばらしいものが多く、絵を施して焼いたもの。 彫り物が入っている鉢に植えられていた、と記憶する。 冬の間の暖かい昼間には、母は、君子蘭を外に出して、太陽に当ててやっていた。 冷え込む夜は、部屋に

No. 95 金は天下のまわりもの

息もつけず、昼飯もとれないほどの忙しいTaxシーズンのピークが、すこし収まった。 今日は久しぶりの休みである。 それに、日曜日で、安息日である。 昨日の土曜日は、かなり疲れていて、夕食を作った後は、自分ひとりのお風呂と決めた。 いつもは、子供たちを先に入らせて、自分は、あとからぬるくなった湯船に浸かって、体を洗っていた。 でも、昨日だけは、自分ひとりのお風呂がほしかったので、客用の小さなお風呂に入った。 それでも、一夜明けた今朝でも、疲れが残っている。 ストレスあり、あまり食べないで、2週間やってきたからであろう。 昔、母も私たちの学費や生活費のため、無理をして働いてくれて、それがたたり、難病になってしまった。 母の轍を踏まぬよう、今ここで私は、休息をとることにした。 幸い、仕事のスケジュールも、バレンタインデーのあるこの週は、一日しか入っていない。 その一日の仕事も休むことにした。 実は、一泊で、隣の州にいくことになっているのが本当の理由でもあるが。 さて、今のTaxのファイリングの仕事である。 顧客は、オフィスの位置する場所柄、年収が300万円に満たない層が半分くらい占める。 たまに、700万円台の顧客もいる。 私が今までファイリングしたお客には、年収が一千万円を超える人がまだ一人もいない。 これから、そういう人たちがオフィスに来る時期になるのだろう。 年収が高い人たちは、私が働くTaxの会社を使わない人が多いだろう。 自分でソフトを使って、Taxを済ませてしまうか、専任の会計士に頼むのだろう。  一方、年収が300万円に満たない方たちは、リファンド(税金の還付:”かんぷ”)を求めて、私のいるオフィスに長蛇の列を作る。 なぜか、というと、子供が一人、または二人いる人で、年収が約33,000ドル以下の人には、税金の還付以上に、政府から還元金がある。 つまり、福祉である。 これは、Earned Income Credit(EIC)という。  このEIC、最高額が4000ドル位になる。 また、Child Tax Creditという別のCreditがあって、16歳以下の子供一人当たり、1,000ドル還ってくる。 したがって、16歳以下の子供が二人いて、年収が20,000ドル弱のシングルマザーは、時に7,000ドル近い税金の還付がもらえるのである。 さらに、私の勤める会社

No. 94 輪廻転生

突然、なんだ、仏教か? というタイトルである。 輪廻転生=りんねてんしょう。 仏教やヒンズー教などの根底をいく理念である。 人間が死んで、次に生まれ変わるときは、人間ではないかもしれない。 生前に、この世で積んだ業が次にどの動物となって「生まれ変わってくる」かが決まるらしい。 たとえば、悪いことをこの世でしたから、次は豚になって生まれ変わってくるとか。 ブラッド・ピットが主演した映画で、チベットが舞台になった映画がある。 題名もストーリーも忘れたが。 ダライ・ラマのことも述べられた映画だったかは、記憶が定かではない。  ともかく、その映画の中で、ある建物をチベットの僧院の庭に建てようと計画したブラッド・ピットふんする主人公。 ある障壁にぶちあたる。 ブルトーザーで土を掘り起こそうとしたら、僧侶全員が大騒ぎ。 辞めてくれ、という。 なぜかというと、土の中にいる「みみず」を殺してしまうからである。  チベットでは、「みみず」は「母」の生まれ代わりであると信じられているからということだ。 土は、「母なる大地」といわれるように、土からいろいろなものが生える。 だからかもしれない。 実際、みみずは、土作りに大切な働きをする。 みみずのウンチがよい土壌をつくるのである。   え・・・・となると、アダムは土から作られたから、言い換えれば、みみずのウンチでできているのか??????? この輪廻転生のことや、仏教の考えには、地獄あり、天国ありなのである。 また、六道といって、天上界、人間界、修羅界、畜生界、飢餓界、地獄界がある。 天上界は、吸う空気も甘露であるらしい。 でも、仏教の根底とかいちゃったけど、ブッダって、ただ「悟り(さとり)」を開くことだけを精進した人であって、仏教といわれる宗教には、もともと「教義」はない、ということだ。 これは、大好きな作家の司馬遼太郎氏の言である。 彼は、関西外語大学のモンゴル語課を卒業して、関西の新聞社に勤務していたときは、「宗教」の記事を担当していた。 なので、あながち、間違いではないだろう。 仏「教」としての体系は、後進の人たち、いわゆるお坊さんたちが、いろいろ哲学をつけていったものだと思う。 ある法典を垣間見すると、聖書と似ている箇所がかなりある。 仏教という宗教体系が出来上がる過程には、景教(原始キリスト教で、中国の唐の時代:6世紀? に栄

No. 93 びびり後日談

びびったーという前回のBlogを書いたのが、日曜日。 びびって、夜も遅くまで調査と勉強したせいか、たまたま潜伏期間がおわったか、月曜日からインフルエンザみたいな軽い症状が出た。 節々の痛み、だるさ、倦怠感、胃の調子もちょっと悪かった。 インフルエンザではなく、ただの風邪かもしれないが、疲れ、緊張、ストレスから来ているのは明らかであった。 たまたま、今週は、水曜日の昼まで、仕事が予定にはいっていなかったので、2日、ベッドの中で過ごした。 本当は、しなければならない、勉強もあったのだが。 勉強というのは、H&R BlockのComputer Based Trainingなどの、コース。 本来のTax Filing以外に、いろいろなことをしなければならない。 リファンドを当てにしたローンの組み方、IRA(Individual Retirement Account)の設定のしかた、ソーシャルセキュリティーに変わる番号の取得の仕方、訂正Taxのファイリングの仕方・・・・、と付随する仕事のほうが、本来のTaxにかける時間より、多い。 なので、こういったことは、自宅で、コンピューターに向かって勉強することとなる。 当然、勉強の時間は、無給となるが。 なにせ、わからないことだらけ。 はやく、こういったトレーニングを済ませないと、とも焦っていた。 なので、びびっていたのだ。 しかし、だるさと関節のいたみで、何も出来ず。 とにかく、水分たくさんとって、なるべくベッドで時間をすごしていた。 話はすこしずれるが、シアトルに研修にいっていた旦那も現地で具合が悪くなったのだが、研修仲間がよい薬がある、とそれを使っていたそうだ。 風邪の症状を抑えて、回復が通常一週間から10日かかるところを短縮できる、というものである。 薬というよりは、キャンディーなのだが、これが以外にも、役に立った。 Cold-EZというZinc(亜鉛)を使っているものである。 このキャンディーというか、薬のおかげで、昨日の水曜日には、仕事に行かれた。 この薬のWebsiteは: http://www.coldeeze.com/ なぜ、効くかというメカニズムも面白い。 Zinc(亜鉛)はイオン化傾向が高い。 +のMolecular Chargeがある。 一方、風邪の原因の80%は、ライノビールスで、こちらは、-のMol

No. 92 びびりばびりぶー

アーサー・ホランド氏の十八番に、「びびりばびりぶー」ってのがある。  「びびりまくった。」という意味である。 一体、「びびる」は日本語なのか? 私には、わからない。 正統(?)な日本語で言うとすれば、「恐れおののく」という意味であろう。  しかし、この一週間の私の心境は、「びびっている」という語感がぴったりなのである。 先週から、Tax Advisorのパートの仕事を始めた。 えらそうに聞こえるが、Tax のファイリングの季節労働者に過ぎない。 Taxファイリングの大手のH&R Blockという会社である。 でも、サービスの内容は、Taxであっても、歩合制。 また、Tax以外のサービスも提供しなければならない。 ということで、私に言わせれば、セールスとあまり大差ない。 仕事の初日、まだシーズンまえなので、オフィスは閑散としていた。 さあ、帰るか、というときになって、次にくる人が遅れる、という連絡。 そして、突然、客は来た。  そのお客は、Taxというより、TaxのRefund(リファンド)を当てにした、ローンを求め来た人であった。 そして、15分くらいで、すぐ終わる、と期待してきたはず。 そこで、対応したのは、そのローンのことをあまり知らない、私であった。 また、そのローンは、去年とは、いろいろ変わっていて、お客の期待通りの金額が貸し出せなくなっていた。  ということで、そのお客をプロセスしたはいいが、そのお客さん、あまり満足したようすではない。 あったりまえだ。 だって、応対したのが、ペーペーの新人だったし、マネジャーが横で、手取り足取り教えながらやったので、時間がかかった。 私としても、わるいなぁー、という気持ちがあった。 また、そのローンの商品のことは、Taxのトレーニングには、含まれていなくて、個人勝手に勉強せよ、というものであった。 つまり、まったく準備できていなかった私であった。 同じ日に、電話の対応もした。 Taxの質問が多い。 夏から勉強して、テストも90%以上で合格したのに、クリスマス休暇で、ワイプアウト、つまり白紙に戻ってしまった。 なので、質問ひとつひとつにすぐ、答えられなかった。 しびれをきらした、電話の向こうの人間は、ぶちっと電話を切ってしまった。 私は・・・・びびった。 びびりまくった。 ずぶとそうに見える私らしいが、ほんまに、「

No. 91 新年だからってわけではないが

2008年になって、一週間が過ぎましたが、明けましておめでとうございます。  さて、新年だからってわけではないのですが、このブログを少しアップグレードしました。 といっても、デザインは変えていないんですけどね。  このブログは、グーグル(Google)社のBloggerを使って作りました。 当初は、ベータ版だったので、林立する日本の無料ブログプログラムに較べると、多少使い勝手や、昨日の面でちょっと劣っていたんです。 でも、やっとバージョンのアップグレードが完成して、かなり使いやすくなりました。 やはり、さすが、Google。  Google株、買っておきゃーよかった。 今は、高すぎてちょっと。   新しいバージョンを使って、ちょっと手を加えました。 ちょっと視線を右へ。 黄緑色のバックグラウンドの内容をすこし変えました。 そこには、<お知らせ>欄を追加。 ①(1月8日現在、変更)ブログ更新のお知らせをE-mailで受け取れる機能を追加しました。 ・・・・が自分のメールでテストしても、なかなかうまくいかず。 どなたか、テストして教えてくださいな。  ②「投票」コーナーを作りました。 当てはまるものをクリックして、"Vote" ボタンを押していってくださいな。 結果は、すぐわかります。 "Show results”をクリックすると結果がでると思います。 是非、試していってください。 ③広告を載せました。 広告は、Googleが自動的に選んで載せるようです。 クリックするとGoogleに広告収入がはいるそうです。 私の方にも、おこぼれがくるとのことですが、果たしてどうなのか?? マクドナルドのコーヒー一杯分かもしれません。 暇だったら、クリックしてねー。 **************** 2008年、ということは、日本では、平成20年ってことっすか。 昭和天皇崩御の号外を品川駅の前で受け取ってから、20年経った、ということですね。  では、ユダヤ人のカレンダーでは? 何年か? 5768年っす。 ユダヤ人の5768年の新年は、2007年9月13日の日没から。 これは、毎年同じ日ではない。 新年のお祝いは、ロシュ・ハシャナ(Rosh HaShana)といって、ユダヤ人の正月は、9月13日の日没から14日まで。 詳しくは、英語ですが、このサイトを参

No. 90 年越し・おせち料理

日本では、とっくに年が明けているのに、ここダラスでは、まだまだ。 あと30分でやっと2008年である。 旦那は、さっき見に行ったら、いびきをかいて寝ていた。 私も、今日は、早く寝るとする。 風邪がものすごくはやっているので、休養は十分にとらんといかん。 さて、サンタフェから3日前に帰ってきた。  行きは強風の向かい風の中を走っていったので、燃費がものすごく悪かった。 中間地点にある、アマリロ(Amarillo)に到着したときに、I-40というハイウエイの反対に向かう車線で、ものすごい事故があった。 私達が通りかかった直前に起こった様だ。 大型トレーラーが数台、くの字型になっていた。 その間に、何台もの乗用車が連続衝突をおこして、積み重なるようになっていた。 救急車は20台はいただろう。  走りながら、旦那と二人で、「うっわーーーーーー」。 サンタフェについて、テレビを見たら、CNNや全国放送網でその事故が報道されていた。 60台の車が巻き込まれ、すくなくとも5人の死者を出したそうだ。 これからクリスマスを家族と一緒に過ごそう、という人たちが多かったはず。 子供もいただろう。 哀れな気持ちになった。 一方、旦那は、「ガソリンが無い。」とのこと。 燃料タンクのインジケーターに赤いランプがついているではないか! 向かい風のせいで、普通なら、もっともつはずのガゾリンが、カラになりつつあった。 近くのガソリンスタンドに行ったが、その地域が停電していたため、ガソリンが入れられない。 事故のせいだろうか。  2件目にいったけど、そこも駄目。  暫く、その場で停車してぼーっとしていた。 ここで、夜を過ごすのか? と不安になり、祈った。 でも、もう少し先に行けば、電気が通っている場所があるはずだ、と旦那がいうので、車を走らせた。 そして、あった。 ガゾリンスタンドが。 そこで、ガソリンを満タンにして、サンタフェに向かった。 次回は、予備のガソリンタンクを持っていくことにしよう。 サンタフェでは、子供をスキーに連れて行った。 自分のスキーウエアを着たら、きつくなっていた。  20年着ていて、今まで大丈夫だったのが。 これは、やばい。 健康によろしくない。 また、子供にスキーを教えていたのだが、そのあと、ものすごく疲れた。 体力も筋力も衰えていて、体重が増えていたせいだ。 中年太り、なん