No. 11 シンコ デ マヨ Cindo De Mayo
今日は5月5日。 日本では、子供の日。 メキシコでは、シンコ デ マヨ Cindo De Mayoという祝日。
シンコ デ マヨ? おしんこをマヨネーズでたべるのか?
シンコはスペイン語で「5」。 マヨは「5月」。 なので、5月5日のこと。 ところで、イタリア語で5っていうのは、「チンクエ」である。 男性軍はぞっとするよね。
イタリア語、英語、日本語で同じ発音であるが、それぞれ意味が違う言葉がある。 「Bimbo: ビンボ」
(1)イタリア語:男の子 (2)英語:だらしない感じの女性 (3)日本語: 貧乏。
おっと、軌道修正だ。
メキシコとかかわりの深いテキサス。 そして、アメリカ議会が不法移民を犯罪者にする、という法案を持ち出して、このところ、メキシコ人移民を中心にアメリカ全土でデモが起こっている。 そんな中で迎えたシンコ デ マヨ。 ここダラスでも、学校では、シンコ デ マヨのイベントがあり、この週末では、隣町でフェスティバルがある。 なんで、メキシコの祝日をアメリカでも認知するのか、ちょっと不思議に思って調べた。 下記のWebsiteを訳してみた。 原文はメキシコ政府からのものではなく、多少バイアスがかかっていると思う。 フランスに言わせたら、別の言い方となるだろうから。 まあ、とりあえず、ご参考に。
http://www.vivacincodemayo.org/history.htm
<翻訳>
Cindo De Mayo (シンコ デ マヨ)、5月5日はメキシコの独立記念日ではないが、そうするべきだ。 さらに、 シンコ デ マヨはアメリカの祝日でもない。 だが、そうすべきだ。 メキシコのスペインからの独立記念日は1810年9月15日の夜中である。 しかし、スペイン兵がメキシコから追い出されるまで、11年かかった。
では、なんでシンコ デ マヨが騒がれるのか? なんで、アメリカ人までもが、この日を楽しむのか? なぜなら、1862年5月5日の朝、メキシコシティーの東100マイル(160キロ)にあるプエブラで、8000人のフランス軍兵士と寝返りをうったメキシコ人兵士の軍を、半数の4000人のメキシコ兵士がやぶったからである。
その5ヶ月前、スペイン軍とイギリス軍、そしてフランス軍が、新しく選ばれたインディオでもある民主党大統領のベニト・フアレスから借款返却の口実をつけて、メキシコに来た。 スペイン軍とイギリス軍は、さっさと借金問題にきりをつけて本国に帰っていった。 しかし、フランス軍は別の思惑があって来た。
アメリカ嫌いであった皇帝ナポレオン3世の命令で、フランス軍は残った。 フランス軍はハプスブルグ家の王子を連れてきており、新しいメキシコ帝国をつくるもくろみであった。 王子の名前はマクシミリアン。 姫様はカロロータ。 ナポレオンの軍隊は50年間無敵であった。 最新兵器と新たに編成した外国人兵団をもって、フランス軍は侵略してきた。 フランスは怖いものなしであった。 アメリカは南北戦争の真っ最中であったからだ。
フランス軍はベラ・クルース港から西進して、メキシコ・シティーに向かった。(今まで征服した)ヨーロッパの諸国がそうであったように、フランス軍は首都が陥落すれば、メキシコは降伏すると思っていた。
テキサス生まれのザラゴサ将軍と後にメキシコの独裁大統領になるポルフィリオ・ディアス大佐の指揮下の騎兵隊が待ち構えた。 フランス軍はきらびやかに着飾ったフランス竜騎兵隊(騎銃を持った騎馬歩兵)が敵陣営に対峙した。 メキシコ軍はフランス軍より、格好が劣った。 ザラゴサ将軍はディアス大佐にフランス軍の側面に回るように支持した。 メキシコの騎兵隊は世界で一番強かったのであるが、フランス軍はディアス大佐ひきいるメキシコ騎兵隊を追わせる、というおろかな行動をとったので、フランス騎兵隊はやられてしまった。
のこるフランス歩兵部隊は雷雨のあとのぬかるみの上、マチェッテ(大きめの短刀)だけをもったインディオたちが何百頭もの牛をときはなした、という状況でメキシコ軍と対峙した。 多くのフランス兵は殺され、負傷し、メキシコ騎兵はフランス歩兵を何マイルも追った。 メキシコは勝利を治めた。 ナポレオン3世はアメリカの南部同盟への物資供給が後一年も滞った。 そのため、アメリカ(ここでは、連邦軍=北軍のことでしょう:訳者注)は世界最強の軍隊を作ることができた。 プエブラの戦いの14ヶ月後、アメリカ北軍はゲティスバーグにて南部同盟を打ち破ることができたのである。 とどのつまり、南北戦争の終焉をもたらした。
フィル・シェリダン将軍によって、北軍はテキサスとメキシコとの国境に赴き、フランス軍を追い払うために、メキシコ軍が十分な武器弾薬を与えた。 アメリカ軍兵士は、メキシコ軍に参加し、フランス軍と戦うのであれば、軍からの脱退が認められた。 メキシコ軍に加担したアメリカ人兵士は、メキシコ・シティーでの勝利パレードに参加した。
1862年にフランス軍の半数の数で戦った4000人の勇敢なメキシコ人によってアメリカ合衆国が生き延びた、ともいえるかもしれないし、いえないかもしれないだろう。
恩返しとして、真珠湾攻撃のあと、何千人ものメキシコ人たちが国境をこえて、アメリカ軍に参加した。 最近では、湾岸戦争の時、メキシコのアメリカ領事館には、アメリカと一緒に戦いたい、という電話がなりやまなかった。
このように、メキシコ人は友達を忘れないし、アメリカ人もそうである。 だから、シンコ デ マヨが囃される。 自由と開放を祝うお祭りなのである。 1862年5月5日以来、メキシコ人とアメリカ人が肩をならべて助け合っているのである。 万歳! シンコ デ マヨ!
<翻訳終了>
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シンコ デ マヨ? おしんこをマヨネーズでたべるのか?
シンコはスペイン語で「5」。 マヨは「5月」。 なので、5月5日のこと。 ところで、イタリア語で5っていうのは、「チンクエ」である。 男性軍はぞっとするよね。
イタリア語、英語、日本語で同じ発音であるが、それぞれ意味が違う言葉がある。 「Bimbo: ビンボ」
(1)イタリア語:男の子 (2)英語:だらしない感じの女性 (3)日本語: 貧乏。
おっと、軌道修正だ。
メキシコとかかわりの深いテキサス。 そして、アメリカ議会が不法移民を犯罪者にする、という法案を持ち出して、このところ、メキシコ人移民を中心にアメリカ全土でデモが起こっている。 そんな中で迎えたシンコ デ マヨ。 ここダラスでも、学校では、シンコ デ マヨのイベントがあり、この週末では、隣町でフェスティバルがある。 なんで、メキシコの祝日をアメリカでも認知するのか、ちょっと不思議に思って調べた。 下記のWebsiteを訳してみた。 原文はメキシコ政府からのものではなく、多少バイアスがかかっていると思う。 フランスに言わせたら、別の言い方となるだろうから。 まあ、とりあえず、ご参考に。
http://www.vivacincodemayo.org/history.htm
<翻訳>
Cindo De Mayo (シンコ デ マヨ)、5月5日はメキシコの独立記念日ではないが、そうするべきだ。 さらに、 シンコ デ マヨはアメリカの祝日でもない。 だが、そうすべきだ。 メキシコのスペインからの独立記念日は1810年9月15日の夜中である。 しかし、スペイン兵がメキシコから追い出されるまで、11年かかった。
では、なんでシンコ デ マヨが騒がれるのか? なんで、アメリカ人までもが、この日を楽しむのか? なぜなら、1862年5月5日の朝、メキシコシティーの東100マイル(160キロ)にあるプエブラで、8000人のフランス軍兵士と寝返りをうったメキシコ人兵士の軍を、半数の4000人のメキシコ兵士がやぶったからである。
その5ヶ月前、スペイン軍とイギリス軍、そしてフランス軍が、新しく選ばれたインディオでもある民主党大統領のベニト・フアレスから借款返却の口実をつけて、メキシコに来た。 スペイン軍とイギリス軍は、さっさと借金問題にきりをつけて本国に帰っていった。 しかし、フランス軍は別の思惑があって来た。
アメリカ嫌いであった皇帝ナポレオン3世の命令で、フランス軍は残った。 フランス軍はハプスブルグ家の王子を連れてきており、新しいメキシコ帝国をつくるもくろみであった。 王子の名前はマクシミリアン。 姫様はカロロータ。 ナポレオンの軍隊は50年間無敵であった。 最新兵器と新たに編成した外国人兵団をもって、フランス軍は侵略してきた。 フランスは怖いものなしであった。 アメリカは南北戦争の真っ最中であったからだ。
フランス軍はベラ・クルース港から西進して、メキシコ・シティーに向かった。(今まで征服した)ヨーロッパの諸国がそうであったように、フランス軍は首都が陥落すれば、メキシコは降伏すると思っていた。
テキサス生まれのザラゴサ将軍と後にメキシコの独裁大統領になるポルフィリオ・ディアス大佐の指揮下の騎兵隊が待ち構えた。 フランス軍はきらびやかに着飾ったフランス竜騎兵隊(騎銃を持った騎馬歩兵)が敵陣営に対峙した。 メキシコ軍はフランス軍より、格好が劣った。 ザラゴサ将軍はディアス大佐にフランス軍の側面に回るように支持した。 メキシコの騎兵隊は世界で一番強かったのであるが、フランス軍はディアス大佐ひきいるメキシコ騎兵隊を追わせる、というおろかな行動をとったので、フランス騎兵隊はやられてしまった。
のこるフランス歩兵部隊は雷雨のあとのぬかるみの上、マチェッテ(大きめの短刀)だけをもったインディオたちが何百頭もの牛をときはなした、という状況でメキシコ軍と対峙した。 多くのフランス兵は殺され、負傷し、メキシコ騎兵はフランス歩兵を何マイルも追った。 メキシコは勝利を治めた。 ナポレオン3世はアメリカの南部同盟への物資供給が後一年も滞った。 そのため、アメリカ(ここでは、連邦軍=北軍のことでしょう:訳者注)は世界最強の軍隊を作ることができた。 プエブラの戦いの14ヶ月後、アメリカ北軍はゲティスバーグにて南部同盟を打ち破ることができたのである。 とどのつまり、南北戦争の終焉をもたらした。
フィル・シェリダン将軍によって、北軍はテキサスとメキシコとの国境に赴き、フランス軍を追い払うために、メキシコ軍が十分な武器弾薬を与えた。 アメリカ軍兵士は、メキシコ軍に参加し、フランス軍と戦うのであれば、軍からの脱退が認められた。 メキシコ軍に加担したアメリカ人兵士は、メキシコ・シティーでの勝利パレードに参加した。
1862年にフランス軍の半数の数で戦った4000人の勇敢なメキシコ人によってアメリカ合衆国が生き延びた、ともいえるかもしれないし、いえないかもしれないだろう。
恩返しとして、真珠湾攻撃のあと、何千人ものメキシコ人たちが国境をこえて、アメリカ軍に参加した。 最近では、湾岸戦争の時、メキシコのアメリカ領事館には、アメリカと一緒に戦いたい、という電話がなりやまなかった。
このように、メキシコ人は友達を忘れないし、アメリカ人もそうである。 だから、シンコ デ マヨが囃される。 自由と開放を祝うお祭りなのである。 1862年5月5日以来、メキシコ人とアメリカ人が肩をならべて助け合っているのである。 万歳! シンコ デ マヨ!
<翻訳終了>
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