No. 41 夢で逢えたら ~このBlogのきっかけ~
昨晩、夢を見た。 父と母が出てきた。 それ以外に、父方、母方の亡くなった多くの親戚が出てきた。 仲の良い、生存中(?)の母方のいとこも二人とも出てきて、皆でどこかへいく、という。 東京のどこかで、皆で泊まったあと、身支度を整えていた。 地方にある、いとこの取引先にいくようであった。 さあ、行こうか、というところで目覚ましのアラームが鳴った。 目覚めて、はっとした。 今日は、8月の14日である。 お盆の中日。 わたしの父と母は東京出身なので、お盆に田舎に帰るという習慣がなかった。 なので、お盆、と言われても、だからなんなの?で生きてきた。 なのに、日本から遠くはなれたアメリカで、今日、お盆を思い出した。 お盆を検索したので、 お盆の意味はここ 。 しかし、親戚一同、夢の中にでてきちゃったのは驚きである。 夢というと、この和歌が、心に何十年も残っている。 思ひつつぬればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを (小野小町・古今集) 意味: 思い慕いながら寝たので、あの人が夢にあらわれたのだろうか。 もし、夢であると知っていたならば、目を覚まさなかっただろうに。 これは、恋歌である。 しかし、歌の中の「人」は広範な意味の愛するひとでもいいではないか。 今年の春、何故だか、いらいら、せわせわ、というか、やたら自分を追いまくる気分になっていた。 頼まれたら嫌といえない性格だから、自分の能力以上のことを引き受けてしまったのか、自分でやります、といっておきながら、忙しくなって、どつぼにはまったのか。 ちょっと疲れてしまったのである。 ウチの教会のWebsiteを、ががががーって、秀吉の 墨俣一夜城 (すのまた いちやじょう)のごとく作ったのは良かったが、その反動が来たのか。 何故ならば、今年の春は母が亡くなって、まだ3-4ヶ月しか経っていなかったときであった。 お葬式の時、年配の方に、「亡くなったあと、暫くしてから、『きます』からね。それは、そのときで通り過ぎるしかありません。」と言われた。 今、思えば、そのいらいらした日々が「きた」ときだったのだろう。 ボクシングのボディーブローだね。 いや、冷酒か? 「親の小言と冷酒はあとから効く」と父が良く言っていた。 その後、亡き母が恋しくて、天のお父さんに、「お願いします。 母に逢わせてください。 母に逢わせてください。