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No. 62 恩人の言葉

2007年、2月ももう終わろうとしている。 速いもんだなぁ・・・。  私がマンハッタンに留学生として降り立ったのが、1992年の8月だから、アメリカ滞在、もう15年目となるんだ。 日本では、バブルが1991年にはじけて、その打撃が個人レベルで感じられるようになった年に日本を出た。 なので、「失われた10年」というものを経験していない。  ここまでの15年、いろいろあり続けたけど、今日も、朝起きて、私は生きている。 毎朝、毎朝、それを第一に、天のお父さんに感謝している。  1992年当時、私は30歳をちょっと越えたばかり。 そんな年で、結構よかった年収の仕事を辞めて、アメリカに留学、と決めた。 でも、母は難病を抱えていたし、そんな状態で親を置いて、出ていいものか、という躊躇もあった。 一応、私は長女で、父と母は私を頼りにしてくれていた。 そんな時、高校からの親友の旦那さん交えて、食事をした。 彼は、大企業の部長さんに、30台後半で昇格したばかり。 北陸出身の人で、北陸の有名国立大学を卒業して、東京に本社のある会社に勤めた。 彼は、私に言った。 「いつかは、親を捨てる時がくる。」 と。 その一言が私の運命を後押ししてくれた、と言っても過言ではない。 この人の言葉で、私は踏ん切りがついた。 彼自身、若いころ、父親を亡くした人であった。 東大に入れた人でもあったようだ。 しかし、母親を残すことに躊躇し、地元の国立大学に入った。 その後悔があったらしい。 彼は、その後悔を私に託し、前進しろ、と背中をこの言葉で押してくれたのであった。 難病の母も、私には、やりのこしたことがある、とわかっていたらしい。 「行ってきなさい。」と言ってくれた。  父は、ぶすっとしたままであった。 そして、両親と多くの友人たちに見送られて、1992年の8月の上旬、成田空港から飛び立った。 英語の苦労、極貧生活の最初の一年であった。 つらい日々の後は、仕事が与えられ、口糊をしのぐことが出来るようになり、さらにそれがきっかけで - といっても、風が拭けば桶屋がもうかるの類のきっかけであるが - 旦那にもドイツでめぐり合うことが出来た。 今は、双子の元気(すぎる)子供と2匹の犬たちと、私にはもったいないくらいの旦那と、楽しい家庭を持つことが出来ている。  だいぶ後の2年前にわかったことだが、アメリカ行きは、

No. 61  うちのばか犬 その2

いっそがしい一週間であった。  バレンタインズデー、娘の初めての歯医者、息子をドラムのコンサートに連れて行き、日本人学校、娘のクラスメートのお誕生会に・・・と、学校と家を何回も往復したり、子供のクラスで、バレンタインズデーPartyするってんで、御菓子一人一人包んだり。  双子で、二クラスだから、子供36人。 足すことの、先生二人。 こんなにキャンディーもらってどうすんねん! だから虫歯になるんだ! それに、キャンディーの色っちゅーたら、赤青黄色・・・。 どれも人工着色料じゃないか。 あれは毒だ!! と叫んでも、いつのまにか、娘は平気な顔をして、キャンディーをあっというまになめ終わっているのである。  さて、そんな忙しい一週間であっても、うちのばか犬は一向に反省する気配なし。 最近は朝、人が寝ているところに、どーんとのっかってきて、べろべろしながら、手(犬の)で人の顔を殴るのである。 起こしてくれるのは、ありがたいが、お手柔らかに頼む。 先々週の金曜日の夜、掃除機を解体した。 夜、食事が終わり、お皿を洗ったあと、新聞紙をひいて、ドライバーを出してきて、よっこらせっ、っと床に座って始めた。 なぜ、解体か? Mixiの日記にも書いたので、Mixiで日記読んでくれている人はご存知である。 金曜日の日中、家の掃除をしようと、まず、リビング・ルームから掃除機をかけた。 タイルの上にカーペットが引いてある。 赤、茶色、ベージュの一般的なイラン模様のカーペット。 その上も掃除機をかけた。  しばらくして、やたら臭い。 ん?????????? やっぱ臭い。 ん???????? なんと、うちの馬鹿犬のウンチがカーペットにあったのだが、うんちがカーペットと同じ色だったので、気づかずに、その上を掃除機でがーっと・・・・・。 ウンチは、カーペットの上にのりのようにのばされ、へばりついていた。 知らぬまま、別の場所に、ウンチ付き掃除機かけたもんだから、うんちは、一箇所だけにとどまらなかった。 さらに!掃除機の車輪の中にもめりこんでしまったのであった。 ひえぇぇぇぇぇーーーーーーー!!!! 当然、犯人はあのばか犬。 少し下痢気味だったのか、ゆるい状態のもの。 見事、カーペットの模様になじんで、カメレオンのように、擬似体となっていたうんちであった。 掃除機をひっくり返して、底をみたところ、結構奥

No. 60 うちのばか犬

うちにぴっぴちゃん、というラブラドール雑種の犬がきてから、6ヶ月になった。 今は、生後8ヶ月。 ここんとこ、ぴっぴちゃんは、「Idiotta! (イディオッタ)」と呼ばれている。 つまり、「おばかちゃん」「ばかもの」転じて、「ばか犬」となってしまった。 なんでかっていうと・・・ (1)未だに、ちゃんと外に出しておしっこさせないと、家のなかで、「じょー」ってしてしまう。 この間は、人の目の前でしてくれた。 (2)子供のぬいぐるみ片っ端から引きちぎる。 家に外出先から帰るたび、詰め物の綿が、床一面に広がっている。 (3)人の(特に子供達の)食べ物をテーブルから盗む。 鶏の骨など、犬の腸には良くないのだが、テーブルの下から、長い舌を出して、ものすごい勢いで盗む。 「こらーー!!」と追いかけると、逃げ回る最中に、骨を飲み込んでしまう。 すごい芸当だ。 それでも、翌日、生きている。 (4)人に飛びつく。 娘は、ほっぺたに引っかき傷をつけられた。 (5)家の庭の大切なもみじの根っこを掘り出した。 ばかものー!! そして、泥だらけの足で家のなかを走り回る。 (6)そのくせ、怒られると、すぐ仰向けになり、服従の姿勢をとる。 いや、ただ単に、おなかをさすってもらいたいだけか。 (7)私のベッドの足元で寝るんだが、動かそうとすると、「う”--ん」とうなる。怒る。 私のベッドだぞ! (8)呼んでも来ない。 車に轢かれても知らんぞ! (9)まだ、歯がすべて生え終わっていないので、人の指をかみかみする。 痛い。 (10)車のシートベルトをカチッとはめるところを、がりがり噛んでくれた。 食卓に使っている椅子も噛んでくれている。  (11)子供をお風呂にいれたあと、湯船のお湯を抜くのを忘れていた。 お湯を抜きに行ったら、ちゃっかりと、「いーい湯だな」と浸かっていた。 (12)犬2匹と旅行した帰り、知人の家に一泊した。 そこで、しっかりと、じゅうたんの上にうんちをした。 $100払ってきた。 (13)庭は、うんちだらけ。 毎週、拾い集めるのだが、2-3キロにはなる。 そして、そのうんちに、子供の色付きねんどが入っていて、うんちがピンク色交じり、緑色まじり、青まじり、となっている。 この間は、ドラムスティックの先のプラスチックを発見。 いろいろな家庭にあるものが、混じってでてくる。 それでも、生きて

No. 59 骨なし野郎の試作品

このBlogはGoogleのBloggerを使っている。 新機能ができたというか、Beta版から脱却したということで、変換したら・・・あじゃぱ~~、右のE-mailとLinkが文字化けしとるわ。 海外にいて、海外使用のコンピューターで、日本語を書こうとすると、IME(Input Method Editor)を使って日本語を書く。 でも、相手方によっては、文字化けすることもある。  まあ、しょうがない。 ゆっくり直していきます。 ********************* 昨日、ダラス地域に雪が降った。 これで、3-4回目。 ダラスでの3回目の冬であるが、今年は冷え込む。 気温もぐっと下がる。 こちらは、華氏を使っている。 華氏32度は摂氏の0度だから、華氏30度台は寒い。 これが20度台だと、零下を十に越えているから、凍る気温、っちゅーわけ。 昨日の朝の気温は28度であった。 子供を学校に送っていったあと、いつものように、犬2匹連れて、森の中へ行く。 犬たちって、あんな薄い毛皮しか着ていないのに、寒さや雪は大丈夫。 まったく、人間だけだよ。 服着なきゃいけないの。 まったく、アダムとイブのやつ。 どうしてくれんだよ。 駐車場から、森の遊歩道に行くまでのたった、30メートルの道のりには、なんと橋がある。 その橋を下を流れる大きな運河というか下水を見ながら通り過ぎる毎日である。 しかし、昨日は、歩みを慎重にした。 だって、凍ってるんだもーん。 ちらちら降った雪が解けて、それが凍って、すべりやすくなっている。  こういう日は橋の上を運転するときには、注意が必要。 スピードを緩めて、決して、橋の上では、ブレーキを踏んだり、ハンドルを切ってはいかんのだ。 車、好き勝手な方向にワルツ踊っちゃう。 事故になる。 ということで、昨日、25マイル離れたところで聖書の学びの会があって、そこでピアノ弾きしとるんだが、それを、「わたしゃ、お休みやで。」と休んでしまった。 ごめん、じゃみら。 凍った橋を通り過ぎて、森の中の遊歩道にはいる。 土の上に積もった落ち葉の上に、雪がちょっと積もっている。 小枝、木々も銀世界になっている。 いやー、きれいっすねぇ、お父さん! 寒いことより、景色の美しさにしばし、とどまっていたんだ。  地面に目をやると、土の上は雪が解けはじめている。 やっぱ、土って暖か

No. 58 怠慢への大反省

あれまー、この前の投稿が1月3日ということは、今日がもう1月20日だから、2週間以上、ほっておいた。 また、やったわ。 この週、ダラスには寒波が来て、雪も降った。 娘も熱を出して学校を休んだ。 まあ、今週はそういう理由で忙しかったから、ここにこれなかったけど、先々週、私は何をしていたんだろう?  うーん、思い出せない。 健康診断のフォローアップにいったくらいかなぁ。 同じく、私は、去年一年、何をしていたのか、あまり思い出せない。 母が亡くなってからの一年であったから、喪中ではあった。 そして、その夏はくそ暑かった。 秋から冬にかけて、悶々としていた時もあり、断食して祈った。 そして、12月に日本に帰った・・・、位しか思い出せない。 ただ、すべきことをあまりしなかった一年であった。 引越し荷物の片付け。  教会の会計のシステム構築。 家計の経費の削減(ケーブルキャンセル・インターネット電話に切り替え)  本の翻訳。  発声練習。  ジャズピアノの練習。 やらなければいけない、やらなければいけない、と思う一方、体と心がついてこなかったと思う。  また、「~せねばならぬ」と考えるから、自分自身にプレッシャーをかけるんだけど、実際、なにもしなかったから、良心の呵責(かしゃく)も芽生える。 特に、教会への奉仕で、自分で言っておきながら、何もしていなかったことが心の中で重くなっていた。 だから、自分の心のなかで、ひとりずもうして汗かいているようなもんだった。 体も多少は年をとっているけど、何もしなかったのは、むしろ、心が疲れていたからだろう。 あることにとらわれていて、何も手につかなかったという一年でもあったんだろう。 また、親の死のあとの「ずーーん」と来るものは、以外にも大きかったんだろう。 なにか達成したかなぁ、と考えたら、ピアノを買ったんだ。 このことのBlogもかきそびれている状態だけど。 それで、毎日ピアノを練習しているから、多少は上達したと思う。 歌の練習も始めたけど、もう少し家で腹筋つけたり、トレーニングをしないとだめだから、これは、「達成」のうちには入らない。 ということで、去年は、あまり達成感が得られなかった、悶々とした、ぐうたらな、怠慢な一年であった。 でも、喪中ってこういうもんなんだなぁ、と自分で勝手に理由をこじつけて、自分を勝手にゆるしていた。   私の

No. 57 がまん強さ

新年おめでとう! 昨日の夕方、サンタ・フェから戻った。 本当は、12月28日に戻り、お正月を自分の家で過ごそう、という計画であったのだが、戻ったのは、5日後の1月2日。  サンタ・フェでは、記録的な大雪で、帰路の高速道路がすべて通行止めになってしまったのであった。  お陰で(?)、一日余分に息子にスキーを教えてあげることが出来た。 さすが、私と旦那の息子である。 教えて2日目には、すいすいと、ゲレンデを滑って行った。  スピードの制御がまだであるが、急勾配でないスロープなら、転ばずにすいすいと滑っていくことができる。 学生のころ、横浜のYMCAで子供たちにスキーを教えていた。  子供に教えるには、まず、最初にスキーのバインディング(スキーとスキー靴を留めるデバイス)の調整をしっかりする。 これを怠ると、骨折事故に簡単につながる。 だから、自分の担当の子供たちには、時間をかけてでもひとりひとりバインディングを調整する。 ゲレンデで転んだとき、負荷がかかってバインディングが外れるように調整する。 大きな負荷がかかっても外れないときは、捻転骨折につながる。 一方、バインディングがちょっとした負荷で簡単にも外れてしまうと、スキーをしている最中にスキーがはずれ、これまた怪我の元となる。  なので、必ずドライバーを用意して、一人一人の調整をしてあげた。 調整して、スキーを履かせる。 そのスキー靴を横から思い切り蹴って、外れれば良し。 外れなければ、ちょっと緩める。  自慢ではないが、こうやって無駄に思える時間を一人一人に費やしたので、私の担当のグループからは怪我や骨折した子供は一人も出なかった。 一人の子に時間を費やしている間、子供達には勝手に雪の中で遊んでいてもらう。 これも重要なトレーニングの一つ。 「雪慣れ」してもらうのである。 バインディングの調整が終わったら、次は転び方と立ち方。 転び方は、女性の横座りのごとく、お尻をスキーの外の「山側」、つまり斜面の上に落とす。 両足の間にお尻を落としたって、スキーはなかなかとまらない。 そのまま「ぎゃぁーー!」と奈落の底に滑っていくのを眺めるしかない。  起きるには、まず、寝そべって、上体を「山側」、つまり、斜面の上、に置き、足を「谷側」、つまり斜面の下側に持っていく。 寝そべって両足を宙に振り上げてでも、その体勢に持っていく。 

No. 56  いのちある限り

先日、日本から帰った。 鼻かぜを引いたまま。 サイナス・インフェクションといって、眉間の内側、鼻の周りにある空間というのか、日本語でなんというのか、「びくう」というのか? 文字変換がでないので、なさけない。 まあ、とにかく、そこのところが痛い。 感染しているんである。 幸い、今、日本で流行っている「ノロウイルス」ではないので、胃腸は大丈夫。 時差ぼけもすこしとれてきたところ。 ということで、明日の早朝4-5時に出発して、ここから600マイル(960km)の距離にあるSanta Feという町にいく。 ニューメキシコ州にある古い町である。 コロラド州の南に位置する。 古くから住み着いたプエブロインディアンとメキシコ人の文化があり、アメリカで一番古い町である。 クリスマスは、ファロリトといって、Brown Bag(茶色の紙の袋)に砂を入れて、そのなかにろうそくをいれて点火する。 サンタフェやニューメキシコ州独特のAdobe(アドビ)という建物の作り方がある。 (興味のある人は検索してね。) そのアドビの上にずらーっと並べる。 町中がそうだ。 とても美しい。 その美しい町のなかで、トレーラーハウスに住んでいるのが、旦那の両親。 二人とも、92歳。 第一次世界大戦のころ、生まれたということである。 お父さんは、腰が痛く、もうあまり外には出たがらない。 しかし、お母さんは、この間も一人で故郷のパナマに行ってきたほど、元気。 パーティーで一晩中、踊ってしまうひとでもある。 200歳まで生きる、といっても過言ではない。  このお父さんとお母さんには、私は今まで一度も嫌な思いをさせられたことが無い。 むしろ、家族として、しっかりと受け入れてくれている。 そして、私の両親亡き後は、残された唯一の私の親でもある。 だから、子供の学校が休みのときは、出来る限り、会わせてあげたい。 こんな体調の悪い時でも、無理して行こうと思う。 92歳、いつ、何があってもおかしくない。 ご両親の命あるかぎり、心を尽くして、会いに行こう。 一人になったら、面倒を見てあげよう。 あなたの両親を敬え。 それは、あなたが、与えられた地で長く生きるためである。 クリスマスです。 アメリカにいて、日本の親と遠く離れている方、ちょっと電話して、「元気?」の一言でもかけてあげようね。 明朝、かなり早いので、今日は、この辺で

No. 55  主夫(しゅふ)、Mr. Mom

12月10日から19日、日本にいた。 野暮用と実家の母の遺品やら、私の荷物をアメリカに送るという、海外引越し屋まがいの作業であった。 引越しは、7-8回しているので、パッキングはなれたものである。 しかし、日本では、友人にあったり、いろいろな用事も飛び込んでくるから、滞在時間のすべてを荷造りにはかけられなかった。 だから、ものすごいスピードで、それこそ、「鬼」のように、荷造りをしたのであった。 やっぱ、私には頭を使わないこういった肉体作業の方があっているようで。  私の不在中、子供は近くのDay Care Centerで面倒見てもらおうかと思っていた。 そうしたら、旦那が、お金もったいないし、これが始めてじゃないから、俺が面倒みる、とかってでてくれた。 子供の面倒見の良い旦那。 安心して、出発した。 日本では、携帯をもっているので、そこに旦那から毎日電話とメールがくる。 そんなある日、「あの犬、殺す!」とのメールが・・・。 あの犬、とは、今年の初めに事故にあった13歳のぷっぷちゃんではなく、8月に我が家にきた、仔犬のぴっぴちゃんのことである。 そのやんちゃなぴっぴちゃん、池の鯉を取ろうとして池におちた。 そしてずぶぬれのまま、家にはいり、ベッドによこたわたそうだ。 もちろん、ベッドは水浸し。 さらに、石鹸を食べて、一晩中、吐いていたとか。 なんでも食べてしまうんだよね。 あの子。 さらに、子供のおもちゃやら、いろいろかじったらしい。 旦那、「君が帰るころは、もういないかもしれない」だって。 さて、帰国したのが一昨日。 顔つきから、旦那、限界だったみたいよ。 でも、帰った日の夕飯は作ってくれたのである。 それに、「密輸」した「毛蟹」を出してあげて、少しホットしたみたい。 旦那が、子供の弁当箱、洗っといてね、という。 ん???  見ると、ご飯と豚肉の焼いたのが残っていた。  旦那、子供に弁当まで作っていた!  それに、きちんと毎晩、宿題の読書をちゃんと子供たちにやらせていた。 大変だったろうに・・・・。 旦那の仕事は連邦の国家公務員で、かなりの年月努めているので、休暇が貯まっている。 だから、子供の面倒を見ながら仕事もできる。 料理も自分で出来る人である。 だから、結婚したんだが。 過去10年、日本との往来をした私にとって、普通の男性だったら、続いていなかったのではない

No. 54  落ち葉を踏みしめ、ワーズワースの詩をおもふ

前、ブログを書いたあと、なんと胃に来る風邪に子供と一緒にかかり、一週間ほど機能しない状態になっていた。 お腹は痛いし、気持ち悪いし。 子供たちはげろげろでその洗濯やら。 そんな時に、日本の盆暮れ正月のような季節が到来したアメリカ。 11月23日はサンクスギビングって言って、親戚家族一同が集まる日。 陸、空ともに、往来の多い忙しい日。  やっと調子が戻ったが、今度は、日本に野暮用で帰国する。 その準備で忙しいんだが、なんか神さんに「書け」といわれとるようなので、帰国前に、書くことにした。 ******************************************* 毎朝、森の中で祈りの時を持つようになってから、もう一年以上になる。 いつも歩く小道の上は、今は、落ち葉で一杯である。 祈りの場所へは、森の中にはいる小さな道がある。 落ち葉を踏みしめて、祈りの場所にいく。 さくさく、という音があり、雨のあとは、ぐしゅぐしゅと音を立てながら。 母は膠原病を25年以上、わずらっていた。 常用していた多くの薬があったが、そのなかの薬で骨髄をやられ、白血球が激減する症状を死までの2年間繰り返した。 一年の間に、入退院を10回近くくりかえした末、実家から2-3時間かかるところに訳あって連れてこられてしまった。 去年の10月、入院中の母の元に帰った。 自分の家から引き剥がされて、狂ってもいないのに、精神科の病棟にいれられ(そこしか受け入れ先が無かった)、周りはまともな話が出来る人間は看護婦以外にはいなかった。 母は長期入院がたたり、歩けなくなっていた。 自分が好きだった身の回りのものも一切もってこれず、ただ、一人、病室のベッドにいた。 母は、私が死ぬのはここかねぇ、とぽつんと言った。 奇跡的なことが起こり、普通では起こらないことが起こった。 婦長さんが独自の判断で、私は母の病室に泊まって良い、ということになった。 海外から遥々来た人でも、普通はそういう待遇はしない、といわれたが、特別に、と言われた。 荷物を病室に運び、私は病室で母と時間を過ごした。 疲労と戦いながら、夜中に体が痛いという母に起こされ、背中をさすり、寝れない日々であった。 それでも、母に按手し、祈り、聖書を読んであげた。 本当に疲れたある夜のこと。 ある聖書の箇所を読んでいた時、母はイエス兄さんの元に回帰した。

No. 53  なんで忙しいんだ?

「ご無沙汰しています」が挨拶になりつつあるこのBlog。 別のところから、「Blog更新されていないんですが、どうしてるんですか?」「元気ですか?」などというメールやら掲示板の書き込みがある。  はいはい、すんまへん。 ほんまに、いそがしゅうて、なかなかかけへんやったんや。 しかし、なんでこうも時間が急になくなったのか?? 私にも謎である。 今日の一日を振り返ろう。 朝、6:45起きて、子供の朝食をつくり、7:45に学校に送り出す。 その後、いつもの森の中をぷっぷちゃんとぴっぴちゃんと歩く。 2日前の強風で倒れた大木はそのまま遊歩道をふさいでいる。 でも、草むらへ迂回して、いつもの祈りの場所にたどり着く。 祈りを終えて、車にもどるのが、9時。  それから、今日と明日の食事のお買い物。 家に帰ると、9:45. 買い物の荷物をだして、冷蔵庫にいれる。 皿洗い機の中の食器を棚に戻す。 朝食を立ち食いして、ピアノに向かう。 明日のバイブル・スタディーで伴奏する曲の練習を兼ねた賛美。 そして、祈り。 と、もう10:45. 日本の教会へのクリスマスプレゼント、日本にいる親友の新居のプレゼント、安いオーガニックの豆乳などを買いにウオールマートへ。 そのあと、新しくできた楽器屋にいき、本などを買って帰宅。 午後1:00. 昼はスープ。 食い意地のはるぴっぴちゃんが私のパンを狙うので目が離せない。 そこそこに食べ終えて、プレゼントの荷造り。 箱を探すのが一苦労。 寝室のベッドメーキングをする。 ぴっぴちゃんのおしっこがついたラグをひろい、洗濯する。 洗濯物をたたむ。 そのあと、ちょこっとピアノで賛美する。 祈る。 コンピューターに向かい、E-mailをチェックする。 そして、急いでシャワーをあびて、3:00pm。 忙しいと、風呂にもはいらないときがあるのよ。 きたないでしょ。  そして、いそいで、子供たちを迎えに行く。 3:30pm。 小学校より帰宅。 おやつのカステラを一緒に食べる。 友人に出しかけのE-mailを出す傍ら、娘が泣くのが聞こえる。 なんと、けずってほしくなかった鉛筆を私が削ったので、怒っていた。 まったくもう、勘弁してよー。 部屋で大声でなく娘をよそに、息子に日本語の宿題をさせる。  4:00pm。 旦那、メキシコ出張より帰宅。 その足で娘をなぐさめる旦那。 息子を

No. 52 わしらと神さんとの距離 その2: その後  

昨日、旦那のオフィスのボスがジムの家に行った。 そこで、どういういきさつかが、少しわかってきた。 ジムの息子は、病気だらけの大変な一生だったらしい。 へその緒が首に巻き付いて、生まれてきた。 それも原因なんだろうか、いろいろな病気をしてきたらしい。  確かに、一年前ほど、その息子さんが脳膜炎で首のところにShank(日本語わからないけど、チューブか小さい棒状のものであろう)をいれておいたのが、うまくいかず、床に伏したままである、との話を聞いた。 病気だから、仕事もしておらず、健康保険もない、という状態だった。 Austinに一人暮らしか、彼女と暮らしていたようでもある。 ジムと奥さんはAustinに車で出かけていって、世話をしていたと記憶する。 でも、今年の春あたり、処置がうまく行き、通常生活が送れるようになった、という良い知らせを聞いたので、ほっとしていた。 それが、今年もおわろうとしているこの時期に、突然、「死」という結末になってしまった。 何がおこったのか。 ずっと医学的な問題を抱えてきた人生だったので、いろいろな薬を飲んでいたらしい。 強い薬も含まれていたそうだ。  この金曜日の10月27日の夜、どこかに行って飲んできたらしい。 お酒と強い薬。 副作用が出たらしい。 ぴりぴりしたのか、多少錯乱したのか、それでも、車を運転していて、住んでいるAustinから離れた田舎道に迷い込んでしまったそうだ。 一軒屋をみつけて、その家のドアどがたがたとこじあけたそうだ。 夜中に人里から離れた一軒家のドアをたたいたり、がたがたこじあけようとすれば、アメリカでも、日本でも、笑顔をもってドアをあけるところなんかない。 アメリカだから、銃が迎える。  私も旦那の出張中、そういうことがあれば、旦那の狩猟用のライフル持ち出して、威嚇するよ。 子供を守らなければいけないから。  ということで、玄関先で、銃でもって、頭に弾丸2発、ぶちこまれてしまった、といういきさつらしい。 しかし、死人に口なし。 本当に何がおこったのか。 目撃者もいないだろう。 正当防衛をたてに、無実を主張してくるだろうな。 10年以上前、ルイジアナ州バトン・ルージュで、ハロウィーンの日に、日本人留学生が銃で撃たれて死んだ事件があった。 そういやぁ、明日は、ハロウィーンだけど。 この事件の場合は、日本人留学生がTric

No. 51 わしらと神さんとの距離

お久しぶり。 前投稿の「断食」に愛の行為を始めた、と書いたよね。 それ、やっと完成した。 ほかに、いろいろやらなきゃならないことがあって、あんれまー、いそがしかったよ~ん。  今日、土曜日の午後は、時間がとれるそー、と思っていたら・・・・・・・・ 旦那の同僚で、もう私の友達でもあるジムの息子が死んだ、という連絡が入った。 30代の人で、先妻との間にできた子供だけど、一人息子である。 連絡をうけたときは、日本語学校で当番していた時であった。 ジム夫妻の家は日本語学校からさほど遠くないので、私が旦那の代わりに行くことにした。 家に行くまで、天のお父さんに、言葉を与えてください、と頼んだ。 だって、子供の死って私は経験したことないし、したくもない。 その息子さん、結構大変な人生だったらしい、とは聞いていたし。  家に着いたら、すでにジムのクリスチャンの友達が沢山いた。 ジム夫妻は、寝室で休んでいるということで、待つことに。 夕飯の準備もあるが、旦那はわかってくれるだろうし。 暫くして、出てきたジム夫妻は、しっかりと立ち、微笑みを浮かべていた。 そして、クリスチャンの友人とともに、イエス兄さんありがとう、ありがとう、と感謝していた。  いったい何がおこったんですか? と聞くと。 頭に銃弾2発打ち込まれて死んだ。 殺人であった。  ダラスから3-4時間南のオースティンというテキサスの首都に住んでいた息子さん。 亡くなった場所はそこではなかったそうだ。 仕事関係らしい親子がいて、その父親に殺されたらしい。 詳しいことは、父親であるジムもわからないそうだ。 今、警察が捜査中である。 葬式は火曜日ー水曜日らしい。 私は暫くだまって、ジム、奥さん、友人たちの話をじーっと聞き入っていた。 私の目は息子さんの写真にそそがれていた。 6時半になり、夕飯の支度をしなければならず、家に帰ることにした。 そして、ジムの横に座り、肩を抱き、手を握り祈った。 いつも祈るのは日本語なので、英語がでるかどうか・・・。 でも祈ることが大切だと祈った。 お父さん、 私たちは、こういうことがあると、何故ですか?? 何故なんですか?? と問います。 あなたは、それには答えてくれないときもあります。 答えてくれるときもあります。 でも、こういったこともあなたのプランの一つなんでしょう。 聖書の中に、 生まれるとき

No. 50 断食

またまた、ご無沙汰してしまいました。 子供たちは小学校一年生となり、幼稚園とは違い、「成績」がついてくるようになったので、宿題を見てあげたり、学校で行った学習の復習をする時間が増えてきた。 そのうえ、日本語学校の宿題も毎日、すこしずつするので、子供の帰宅後から夕飯、そして寝かしつけるまでの9時までは、まったく自分の時間がない、という日々。 これは、どのお母さんもおんなじか。 さらに、私には、ピアノの練習もある。 毎週金曜日の聖書研究会でピアノの伴奏しちゃってるので。 あとは、ジャズピアノの理論と練習。(私にとっては、不得意だった化学の授業のように思える。) ピアノのことはなかなかかけずにいるなぁ。 これもおもろい話だから、書かなきゃね。 自由時間が無いのに、2週間前から、あることを始めてしまった。 なので、なかなかBlogを更新できずにいる。  母の死から、はや10ヶ月が経った。 その間、私の感情と体力に上下が激しくあった。 そりゃー、去年まで、実家に何かあれば、30時間かけて帰国していた、という生活を10年していたし、父と母の最期にまつわるいろいろなこと -本当にいろいろなこと-があった。 そのいろいろなことの中には、まだ実質的に決着がついていないこともある。 感情の中でも決着がついていないことがある。 解決の為、祈ってきた・・・かな? 多少は祈ったが、ある問題からは、「逃げていた」んだと思う。 それは、その問題を性急に解決しようとすると、自分の心に秘めた汚い部分、ずるい部分を直視しなければならない、と私は無意識のうちにわかっていたんだろう。  だから、人を雇って、問題解決をしようと試みた。 しかし、それは成就しなかった。  神さんがそれはあかん、といっていたんだろうな。 いや、そう私もうすうす感じていたけど、私は「人間らしく」否定していた。 かなりの時間がたってから、やっぱり自分が手を下さなければいけないのだな、という思いがすこーしずつ、湧き上がってきた。  でも、どうしていいかわからないので、私は一週間断食して祈った。 過去一年の間に3-4回断食したけど、今回は旦那が出張中ではないので、夕飯だけ食べる、という変則的断食。 実は、断食をするのなら、一日中、何も食べないほうが実は楽。 夕飯だけを食べると、そのあとがどーんと疲れるので、実は、こういった断食の方がきつ

No. 49 死んだら、驚いた!のかなぁ?

ご無沙汰しています。 先先週の終わりごろから、体調が思わしくなくなってきて、先週は毎日昼寝をしないと体が持たなくなってきていました。 更年期障害か? ついに私も? と疑いましたが、どうやら風邪ともう一つのことが理由らしいです。 この日曜日から、やっと回復して、前進力が出てきました。  先日、俳優の 丹波哲郎 さんが84歳で亡くなった。 私くらいの年代の人には、テレビ番組のGメンのボスみたいな役で出演していたし、たしか千葉真一がでていた「キイハンター」にも出演していた、という記憶のある人もいるだろう。 Gメンには、夏木マリ、范文雀(はん ぶんじゃく:半分弱ではないぞ)、今は料理の鉄人でピーマンかじっている鹿賀丈史などが出演していた。 これは、70年代くらいのことだから、若い人たちは知らないだろうね。 それが、日本のバブルの最中か、はじけた時あたりに、丹波哲郎さんは急に、「霊界」のことを話すようになった。 まるで、昼の奥様向け番組で、夏に特集を組む、「あなたの知らない世界:霊界のありさま特集!」みたいな下世話なことみたいだったので、あまり興味をもたなかったのである。 でも、そのうち、映画まで作ってしまったようだ。 新聞の広告に、「丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる」という映画の宣伝がでていて、あれまー、ここまでやったか、と思っていたら、次は「丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!」 なんてきたから、こけてしまった。 驚いたよ。 その後、渡米した私には、日本の芸能界のことなんて、だんだん疎遠になってきたので、丹波哲郎という名前さえ忘れてしまっていたのである。  そこで、彼の訃報をネットで知った。 なので、それとなく、彼のことをちょっとネットでサーチしてみた。        丹波哲郎の霊界サロン   http://www.tamba.ne.jp/ma.html ここを開けると、彼の系図のことに少し触れていて、スクロールダウンすると、「あの世では、台所、寝室どころかトイレも不要」というパラグラフがある。 ここで、簡単に霊界とはどういうことか、書いている。 かいつまんでみると、霊界とは以下の様なところらしい。 1.おカネなんてものは存在しない。財産や資産なんて発想もな~い。 2.ほとんどの霊界の家というのは諸君が想像する以上に小さいんだ。一見したところでは、茶室のつくりによ

No. 48 "9-11"

ピアノの続きを書こうと思っていた。  今日の午後、気がついた。 今日は9月11日。 同時多発テロにアメリカがショックを受けた日。 今日は、5周年で、ABC,CNN等で特集を組んでいた。 私は以前、マンハッタンに住んでいた。 最初は、Upper West Sideという、セントラルパークの西側。 84丁目に住んでいた。 ユダヤ人が多かった。 男性で、頭の後頭部に黒い円形の布をピンで留めている人が多い。 私は、あれは「はげ隠し」と思っていた。 それは、ユダヤ人が着用する「ヤマカ」というものであると後で知った。 日本人とユダヤ人の夫婦も多くいたところだと記憶する。 大学の数学と統計学の教授も、ヤマカをかぷった上に、山高帽のようなものをかぶり、黒い服をきて授業をしていた。 はげ隠しはともかく、84丁目のあとは、20丁目に引っ越した。 通っていた大学が18丁目、23丁目あたりにちらばっているので、早朝の授業のスケジュールにあわせるために引っ越したのである。 今の自宅のトイレより狭い19階にある自分の部屋からは、Brooklyn Bridgeが遠くに見えた。  私は日本で会社勤めを11年したあとに、すべてを捨てて、ニューヨークに飛んだ。 貯金と好きな沢山の本だけを抱えて。 学生ビザだから、正規には働けない。 違法で働いている人は沢山いたけど。 でも、働く時間もなかった。 勉強に忙しくて。  しかし、貯金通帳の残高がどんどん目減りしていくのは、恐怖であった。 部屋代、授業料・・。 ニューヨークでは高い。 でも、学生ビザでは、働いてはいけない。 8月にニューヨークに行ったが、ニューヨークは8月下旬となると、涼しくなる。 9月の下旬にはコートが必要。 日も短くなる。 お金使えないから、切り詰めるのは、食費となる。 結構ひもじかった。 なので、たまに教会に誘われて「食べ」にいった。 寿司が頭の中を飛ぶ夢もみた。 そういうときに限り、悪友が寿司の写真をはがきに貼って送ってきたのである。 ニューヨーク時代の極貧生活とある困難を乗り越えた話は別途。 ともかく、ひもじく、寂しく、つらい思いをしながらも、なんとか2セメスターを終えた6月のある日、就職課に足を運んだ。 そしたら、日本語ができるということで、そこからとんとんとアメリカの某大会社への就職が一ヶ月以内に決まってしまった。 留学生もキャン

中間報告: ねむい、体痛い

「探し物はみつかる」シリーズで前回を書いたのが9月1日。 いやはや、忙しかったよー。 毎日、ここに定期的に来てくれる人たちがいるんで、一週間まるまる書いていなかった。 ごめんね。 このところ、仔犬のぴっぴちゃんは、夜、クレートっちゅー小屋に入れてしまう。 出ないと、ぴっぴちゃんが起きるたんびに、私たち夫婦のどちらかが飛び起きて、外にトイレに連れて行く、ということをしていた。 当然、睡眠不足になるから、ぴっぴちゃんが来てから2週間となった先週、ついにぴっぴちゃんは夜、小屋にいれてしまおう、という結論に達した。 こちとら、体が持たない。 ぷっぷちゃんのときも、夜中起きて、トイレにつれていったけど、そんときゃ、私、11歳若かった。 それに、学生していたから、夜中まで勉強していたので、あまり睡眠不足でふらふら、とうい思い出がない。 でも、ぴっぴちゃんは、ぷっぷちゃんとは、違う。 ものすごいウンチの量。 あの小さい体のどこからでてくるのか? 夜中に5-6個していた。 もう、これはだめ。 ということで、小屋に入れることとした。 小屋にいれて、鳴いても無視。 そのうち、敵も静かになるから、こちとら、睡眠がとれるようになった。 それでも、2-3時ごろと5時には、くんくん鳴くから、起きてそとに連れて行く。  ということで、少しはよくなったが、まだ睡眠不足である。 今日は、昼寝しそびれたし・・・。 おまけに、皮のくそ重たいソファーを家の中で移動し、それを掃除したから、ちょっと腰の筋肉が痛いのである。 ということで、「忘れ物・・・  その三」は、今日はもう、体が休息を求めているので、もう寝床に行く。 明日の安息日が過ぎてから時間を見つけて書くこととする。 しかし、ぴっぴちゃん、なかなかの「くせもの」であった。 私が旦那に犬の保護施設から電話して、「この子、一番おとなしいのよ。 だから、この子にするね。」といったのだが、旦那はこのごろ、「一番おとなしいのねぇ・・」と、猫を追いかけ、私のスリッパをくわえて走っていくぴっぴちゃんを見て言う。 ぴっぴちゃん、結構頑固。 ぷっぷちゃんに、うーっといわれても、めげない。 ものすごい太い精神の持ち主。 旦那は、良い猟犬になるぞ! と今日は、Fetch!)とってこい!を訓練していたが、ぴっぴちゃん、投げたものをくわえて、旦那と反対の方向へ走っていった。

No. 45 探し物は見つかる  その二

二つ目の探し物を見に行く、と書いた。  行ったのだが、ちょっと調子が変で、古い。 悪くはないんだが。  帰り道、車を運転していて、天のお父さんに言われたような感覚があった。 「それ、ちがうんじゃないのかな。」って。 ああ、そうですね、とひとりごとを言った。 家に帰って、専門家に相談したら、その年代に作られたものは、ちょっと問題がある、とのこと。 ということで、売主には悪いけど、断った。 とても良いこれまたイエス営業部のご夫婦だったんだが。 そのもの、彼らのお子さんの為に残しておいたほうがいいと思った。  でも、それを売りたいのは、借金があって、大変だからだ、という。 お子さん1歳2歳3歳といれば、おむつ代だけで、月300ドルは超えてしまうだろうから、そりゃ大変だ。 でも、そのものは、お前のものではない、と天のお父さんにいわれると、悪いけど、断るしかなかった。 大変そうだから、30ドルほど、おむつに使ってくださいって、ウォールマートの商品券でも送ってあげようと思う。 さて、私の探し物はなんでしょうか。 それは、ピアノなんですよね。 ヤマハのアップライトのピアノ。 予算$2000以下。  $4,000あれば、いいのが買えるんですが。 あっしには、お金、ござんせん。 $2,000も借金をする。 もう、いいや。 借金して、どつぼにはまっても。 それでも、お父さん、有難う、って喜んでろって聖書は言うし。 本当に旗からみたら馬鹿だよ。 でも、馬鹿をまじめにやると、すんごいことが起こるって天のお父さんいうから、もういいや。 清水の舞台から飛び降りちゃえ。 今、滞っている事に対しても、「天のお父さん、こんな目になってますけど、それでも、ありがとう。 感謝します。 喜びます。」と祈るようにしている。 馬鹿みたいで、無理そうだけど、言っちゃおう。 ピアノは30年ぶりに弾き始めた。 そのいきさつは、 前Blog にいって、スクロールして、No. 5 ディスコICC その一とその二をを参照のこと。 先週の初めのパタリロ先生の礼拝でのメッセージが「どんなときにあっても喜びなさい」という内容。 とってもよかった。 それに感化されて、自虐的なマゾになった。 うそだ。 言葉でもいいから、どんな苦境にあっても、「天のお父さん、うれしいです。 喜びます!」といってしまうのである。 そうすると、とんでも

No. 44  探し物は見つかる  その一

探し物はなんですか 見つけにくいものですか かばんの中も 机の中も 探したけれど みつからないのに まだまだ探す気ですか それより僕と踊りませんか 夢の中へ 夢の中へ  行ってみたいと思いませんか Wooo Wooo  Wooo Haa/// 井上揚水 「夢の中へ」より ご無沙汰であったのう。  先週から探し物をしていて、多忙であったのぢゃ。  今、二つの物を探している。 一つは、見つかったのだが、そのせいで、睡眠不足の毎日に、洗濯ばかりしている。 眠いので、今回のBlogはMixiに書いている日記からかなり引用して、手抜きをする。 ウチには、ぷっぷちゃんというラブラドールの雑種のとても良い犬がいる。 11歳だが。 命令は良く聞くし、いつもそばにいてくれる。   旦那、フロリダにいたときは、毎週末海にいってモリで魚を取ってきた人。 テキサスの海から6時間離れた、ここダラスでは、海がそばにない。 なので、かも、七面鳥、いのししなどの狩猟を始めた。 この冬のダックシーズンに、ぷっぷちゃんを連れて行った。 ぷっぷちゃんはラブラドールとシェパードの雑種であるが、泳ぎは得意だし、しっかりとRetrieve(獲物を取ってくる)が上手。  ダックの狩猟は寒い冬だし、水辺が多いので、ラブラドールリトリバーは、落ちたダックを泳いで取ってくるために、人間に「作られた」犬の種類である ある寒い冬の日、旦那はダックハンティングに行くため、朝の4時に起きた。 ぷっぷちゃんは、どてーっと私たちのベッドの上に寝そべっていて、起きやしなかったそうだ。  起こすと、「何よ?」という顔をしたらしい。  なんとか、たたき起こして、狩りにいった。 森の奥深くに入り、ダックに狙いをさだめた。   最初の発砲音で、ぷっぷちゃん、逃げた。  旦那、青くなって、探したけどいない。 なんと2マイル(3キロ)離れたところに停めて置いた車の横でがたがた震えていたそうだ。  旦那のオフィスの人たちの笑い話の種となった。 また、秋が来る。 旦那は純潔のラブラドールの子犬が欲しいという。 子供のうちから銃声にならしておくことが猟犬には必要である。  純潔、血統証もいいが、遺伝の問題が多すぎて、長生きしないし、血統証には私、まったく興味がない。 それより、不要犬として、ほっておけば安楽死が待っている犬を引き取ったほうが良いと

No. 43 ひろう神

子供の学校が始まり、一週間が経った。  去年と較べると、私には余裕が出来ていた。 去年は、アメリカの小学校に子供をいれるのは、初めての体験であった。 その上、入学一ヶ月で、転校という事態になった。 子供たちの英語力が足らないので、ESLという英語を母国語としない生徒のクラスにいれるように、との学校からのお達しがあった。 その上、日本では、母の入院先がわからなくなるという出来事も重なった。  学校では、いろいろな書類にサインしなければならない。 多くの書類を読んでサインするのが苦痛であった。 なので、ほおっておいたら、催促がきた。 聞いていたことであるが、アメリカの学校って親への負担がかなり大きい。 「○○を持ってきてください。」「家で○○をさせてください。」「○○の行事がありますので、ボランティアして下さい。」とやたら『うるさい』。 なので、最初は参った。  しかし、一年を過ごすと、慣れてきた。 今年は転校もないし、子供達も明るく元気に学校に通っている。 金曜日の夜はファンナイトとかいうものがあるのだが、それもPTAの勧誘と知っているので、行かなかった。 担任の先生を直接たすけるのはOKであるが、PTAという組織はあまり好きではないし、メリットを感じないので、自分自ら必要だ、と思えるようになるまでは、まあ、いいや、というスタンスである。 さて、昨日の金曜日の午後、子供たちを迎えにいった。 昨日のブログで話したミス・マリーの姿が見当たらない。 幼稚部で一緒だったお母さんが近づいてきて、ミス・マリーは他の小学校に転勤になりました、という。 「じゃあ、解雇ではないのですね!?」と聞くと、親指立てて、「そうです。」とそのお母さん。  「捨てる神あれば、拾う神あり」、というか、「捨てる学校あれば、拾う学校あり」。 あ~よかった、と安堵のため息が出た。 たとえ、学校が変わっても、収入の道が閉ざされることがない。 それに、別の学校で、もっといいことがあるかもしれない。 または、これは、「天のお父さんの御計画」かもしれない。  計画の一つかな?と思うのは、私たちの子供達たった6人の教師になるため、うちの小学校に来てくれたということ。 普通の教室は20人前後。 でも、去年は特別に6人という小クラスで、先生の目がよく届くクラスであったこと。 お陰で、私の子供達は落ちこぼれずに済んだ。

No. 42 幸運・不運 - 神様のえこひいき?

ジョンベネ・ラムジー ちゃん殺害(10年前)の容疑者がタイのバンコクで身柄を拘束された、というニュースが夕べ発信された。 当時、犯人は裕福な親か、兄か、という疑いもあり、メディアの注目をあびた事件であった。 今日の新聞の一面トップはそのこと。 レバノン情勢より上の段に出ていた。 朝のCNNのニュースもそのことでもちきりであった。 ただ、今日の段階では、詳しい情報はない。  容疑者のジョン・マーク・カーの発言がとても気になった。  まず、いとも簡単に罪を告白している。 「あなたは無実ですか?」 『ノー』 なんじゃ、こりゃ? 普通、どんな罪を犯しても、無実を主張するのが普通のアメリカ人だけど・・・。 そして、『僕はジョンベネ(当時6歳)を愛している。セックスしたが、死んだのはアクシデントであった。』 ラムジー家との関係は、という質問には、『ノーコメント』。 母親のパッツィーとは話したか? 『ノーコメント』。  あと、この容疑者は事件のあったコロラドのボゥルダーには住んでいなかった。 ただ、幼児ポルノ愛好者ではある。 この人、本当に容疑者であろうか? まあ、ジョンベネちゃんのつめから取れたDNAサンプルがあるし、容疑者がコロラドに移送されてから、調査が始まるので、時間の問題か。 ジョンベネちゃんのお母さんのパッツィーも元ミス・ぺージェントだったので、きれいな人であったが、真犯人がつかまるのを見ずに、今年の6月に卵巣がんとの長い闘病の末、亡くなった。 お父さんはビジネスマンである。 しかし、事件当時、一度も涙をTVで見たことがない。 どんな質問にも、感情を吐露せずにクールに答えていた。 だからか、この父親も疑いの目で見られていた。 社交界で華やかな存在で、裕福であったラムジー家はジョンベネちゃん殺害事件で、一転して、家族がばらばらになる、という状況に落とされた。 こういうことってあるんだなぁ・・・。 今日、いつものように子供達を学校に迎えに行った。 ぴかぴかの一年生である。 お迎えのとき、幼稚部のときの担任のMs.マリーに会った。 彼女、「ちょっと話が・・」と私を呼び寄せた。 「校長先生が今年度は幼稚部の生徒が少ないので、あなたを解雇するかもしれない、と言われました。 なので、私の為に祈ってください。」 これにはショックであった。 だって、過去10年、家庭内暴力の末、離婚し