投稿

No. 44  探し物は見つかる  その一

探し物はなんですか 見つけにくいものですか かばんの中も 机の中も 探したけれど みつからないのに まだまだ探す気ですか それより僕と踊りませんか 夢の中へ 夢の中へ  行ってみたいと思いませんか Wooo Wooo  Wooo Haa/// 井上揚水 「夢の中へ」より ご無沙汰であったのう。  先週から探し物をしていて、多忙であったのぢゃ。  今、二つの物を探している。 一つは、見つかったのだが、そのせいで、睡眠不足の毎日に、洗濯ばかりしている。 眠いので、今回のBlogはMixiに書いている日記からかなり引用して、手抜きをする。 ウチには、ぷっぷちゃんというラブラドールの雑種のとても良い犬がいる。 11歳だが。 命令は良く聞くし、いつもそばにいてくれる。   旦那、フロリダにいたときは、毎週末海にいってモリで魚を取ってきた人。 テキサスの海から6時間離れた、ここダラスでは、海がそばにない。 なので、かも、七面鳥、いのししなどの狩猟を始めた。 この冬のダックシーズンに、ぷっぷちゃんを連れて行った。 ぷっぷちゃんはラブラドールとシェパードの雑種であるが、泳ぎは得意だし、しっかりとRetrieve(獲物を取ってくる)が上手。  ダックの狩猟は寒い冬だし、水辺が多いので、ラブラドールリトリバーは、落ちたダックを泳いで取ってくるために、人間に「作られた」犬の種類である ある寒い冬の日、旦那はダックハンティングに行くため、朝の4時に起きた。 ぷっぷちゃんは、どてーっと私たちのベッドの上に寝そべっていて、起きやしなかったそうだ。  起こすと、「何よ?」という顔をしたらしい。  なんとか、たたき起こして、狩りにいった。 森の奥深くに入り、ダックに狙いをさだめた。   最初の発砲音で、ぷっぷちゃん、逃げた。  旦那、青くなって、探したけどいない。 なんと2マイル(3キロ)離れたところに停めて置いた車の横でがたがた震えていたそうだ。  旦那のオフィスの人たちの笑い話の種となった。 また、秋が来る。 旦那は純潔のラブラドールの子犬が欲しいという。 子供のうちから銃声にならしておくことが猟犬には必要である。  純潔、血統証もいいが、遺伝の問題が多すぎて、長生きしないし、血統証には私、まったく興味がない。 それより、不要犬として、ほっておけば安楽死が待っている犬を引き取ったほうが良いと

No. 43 ひろう神

子供の学校が始まり、一週間が経った。  去年と較べると、私には余裕が出来ていた。 去年は、アメリカの小学校に子供をいれるのは、初めての体験であった。 その上、入学一ヶ月で、転校という事態になった。 子供たちの英語力が足らないので、ESLという英語を母国語としない生徒のクラスにいれるように、との学校からのお達しがあった。 その上、日本では、母の入院先がわからなくなるという出来事も重なった。  学校では、いろいろな書類にサインしなければならない。 多くの書類を読んでサインするのが苦痛であった。 なので、ほおっておいたら、催促がきた。 聞いていたことであるが、アメリカの学校って親への負担がかなり大きい。 「○○を持ってきてください。」「家で○○をさせてください。」「○○の行事がありますので、ボランティアして下さい。」とやたら『うるさい』。 なので、最初は参った。  しかし、一年を過ごすと、慣れてきた。 今年は転校もないし、子供達も明るく元気に学校に通っている。 金曜日の夜はファンナイトとかいうものがあるのだが、それもPTAの勧誘と知っているので、行かなかった。 担任の先生を直接たすけるのはOKであるが、PTAという組織はあまり好きではないし、メリットを感じないので、自分自ら必要だ、と思えるようになるまでは、まあ、いいや、というスタンスである。 さて、昨日の金曜日の午後、子供たちを迎えにいった。 昨日のブログで話したミス・マリーの姿が見当たらない。 幼稚部で一緒だったお母さんが近づいてきて、ミス・マリーは他の小学校に転勤になりました、という。 「じゃあ、解雇ではないのですね!?」と聞くと、親指立てて、「そうです。」とそのお母さん。  「捨てる神あれば、拾う神あり」、というか、「捨てる学校あれば、拾う学校あり」。 あ~よかった、と安堵のため息が出た。 たとえ、学校が変わっても、収入の道が閉ざされることがない。 それに、別の学校で、もっといいことがあるかもしれない。 または、これは、「天のお父さんの御計画」かもしれない。  計画の一つかな?と思うのは、私たちの子供達たった6人の教師になるため、うちの小学校に来てくれたということ。 普通の教室は20人前後。 でも、去年は特別に6人という小クラスで、先生の目がよく届くクラスであったこと。 お陰で、私の子供達は落ちこぼれずに済んだ。

No. 42 幸運・不運 - 神様のえこひいき?

ジョンベネ・ラムジー ちゃん殺害(10年前)の容疑者がタイのバンコクで身柄を拘束された、というニュースが夕べ発信された。 当時、犯人は裕福な親か、兄か、という疑いもあり、メディアの注目をあびた事件であった。 今日の新聞の一面トップはそのこと。 レバノン情勢より上の段に出ていた。 朝のCNNのニュースもそのことでもちきりであった。 ただ、今日の段階では、詳しい情報はない。  容疑者のジョン・マーク・カーの発言がとても気になった。  まず、いとも簡単に罪を告白している。 「あなたは無実ですか?」 『ノー』 なんじゃ、こりゃ? 普通、どんな罪を犯しても、無実を主張するのが普通のアメリカ人だけど・・・。 そして、『僕はジョンベネ(当時6歳)を愛している。セックスしたが、死んだのはアクシデントであった。』 ラムジー家との関係は、という質問には、『ノーコメント』。 母親のパッツィーとは話したか? 『ノーコメント』。  あと、この容疑者は事件のあったコロラドのボゥルダーには住んでいなかった。 ただ、幼児ポルノ愛好者ではある。 この人、本当に容疑者であろうか? まあ、ジョンベネちゃんのつめから取れたDNAサンプルがあるし、容疑者がコロラドに移送されてから、調査が始まるので、時間の問題か。 ジョンベネちゃんのお母さんのパッツィーも元ミス・ぺージェントだったので、きれいな人であったが、真犯人がつかまるのを見ずに、今年の6月に卵巣がんとの長い闘病の末、亡くなった。 お父さんはビジネスマンである。 しかし、事件当時、一度も涙をTVで見たことがない。 どんな質問にも、感情を吐露せずにクールに答えていた。 だからか、この父親も疑いの目で見られていた。 社交界で華やかな存在で、裕福であったラムジー家はジョンベネちゃん殺害事件で、一転して、家族がばらばらになる、という状況に落とされた。 こういうことってあるんだなぁ・・・。 今日、いつものように子供達を学校に迎えに行った。 ぴかぴかの一年生である。 お迎えのとき、幼稚部のときの担任のMs.マリーに会った。 彼女、「ちょっと話が・・」と私を呼び寄せた。 「校長先生が今年度は幼稚部の生徒が少ないので、あなたを解雇するかもしれない、と言われました。 なので、私の為に祈ってください。」 これにはショックであった。 だって、過去10年、家庭内暴力の末、離婚し

No. 41 夢で逢えたら ~このBlogのきっかけ~

昨晩、夢を見た。 父と母が出てきた。 それ以外に、父方、母方の亡くなった多くの親戚が出てきた。 仲の良い、生存中(?)の母方のいとこも二人とも出てきて、皆でどこかへいく、という。 東京のどこかで、皆で泊まったあと、身支度を整えていた。 地方にある、いとこの取引先にいくようであった。 さあ、行こうか、というところで目覚ましのアラームが鳴った。 目覚めて、はっとした。 今日は、8月の14日である。 お盆の中日。  わたしの父と母は東京出身なので、お盆に田舎に帰るという習慣がなかった。 なので、お盆、と言われても、だからなんなの?で生きてきた。 なのに、日本から遠くはなれたアメリカで、今日、お盆を思い出した。 お盆を検索したので、 お盆の意味はここ 。 しかし、親戚一同、夢の中にでてきちゃったのは驚きである。 夢というと、この和歌が、心に何十年も残っている。 思ひつつぬればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを (小野小町・古今集) 意味: 思い慕いながら寝たので、あの人が夢にあらわれたのだろうか。 もし、夢であると知っていたならば、目を覚まさなかっただろうに。 これは、恋歌である。 しかし、歌の中の「人」は広範な意味の愛するひとでもいいではないか。 今年の春、何故だか、いらいら、せわせわ、というか、やたら自分を追いまくる気分になっていた。 頼まれたら嫌といえない性格だから、自分の能力以上のことを引き受けてしまったのか、自分でやります、といっておきながら、忙しくなって、どつぼにはまったのか。 ちょっと疲れてしまったのである。  ウチの教会のWebsiteを、ががががーって、秀吉の 墨俣一夜城 (すのまた いちやじょう)のごとく作ったのは良かったが、その反動が来たのか。 何故ならば、今年の春は母が亡くなって、まだ3-4ヶ月しか経っていなかったときであった。  お葬式の時、年配の方に、「亡くなったあと、暫くしてから、『きます』からね。それは、そのときで通り過ぎるしかありません。」と言われた。  今、思えば、そのいらいらした日々が「きた」ときだったのだろう。  ボクシングのボディーブローだね。 いや、冷酒か? 「親の小言と冷酒はあとから効く」と父が良く言っていた。 その後、亡き母が恋しくて、天のお父さんに、「お願いします。 母に逢わせてください。 母に逢わせてください。

No. 40 ちょっと一息

いつもなら、ばかげたことをぶちまかす私もNo. 39「沈黙」では、中学校のような読書感想文になってしまった。 これじゃぁ、息もつまるだろうな。  ということで、今日は息抜き手抜き栓抜きだ。 あのテロ騒ぎの木曜日(日本は金曜日)、旦那はメキシコから帰ってきた。 メキシコシティーの空港では、もう混乱状態。 そりゃーそうだ。 普段でさえ、のんびりしていて、混沌としているメキシコがテロ厳戒態勢でセキュリティーチェックを始めたら、もう混沌を超えた、ブラックホールだ。 今、メキシコでは登場時間の3時間前に空港にいくようにとのお達しがでているそうだ。 でも、金曜日はメキシコの駆け出し航空会社の社長が仕事場に来たそうだ。 彼は、自分専用の飛行機を飛ばしてきたから、ボトルに入った水もワインも堂々と持ち込んで来たんだろう。  旦那のオフィスにて、仕事を済ませた後、その社長がオフィスの人たちをお昼に連れて行ってくれたそうだ。 美味しいワインとステーキ。 旦那、赤い顔して帰宅。 この会社の為に、ずっと一生懸命やってきたから、これくらいのご褒美はいいんじゃない。 賄賂か? いや、認定が終わったあとだから、いいか。 それにマネジャーも一緒だから、いいのよん。 それまでは、メキシコの担当者たちがきたら、旦那たち自腹切ってお昼ごちそうしていたから。 実際のところ、日当にあたる金額までの食費はおごってもらっても違法ではない。 我が家は金曜日がステーキなんだが、旦那、すでに食べてきたので、いらないって。 なので、冷凍の鮭を子供たちと食べる。 こちとら、給料日前で、きついし、買い物面倒くさいから助かった。 さらに、冷蔵庫の中身がからに近くなったので、今日、冷蔵庫の掃除が出来た。 冷蔵庫、ピカピカしてきれいよ、今。 そのあと、トイレにいったら、ウ○チが床に擦り付けられた跡が・・・ウ○チがついた小さいパンツがぬぎすててある。 便器の中も、流れていないウ○チが・・・。 ああ、うちの息子、またやった。 早く言えばいいのに。 と、トイレ、洗面所を掃除した。 拭きながら、「このうんこたれめ。」と噴出してしまった。 古い日本語だなって。  洟垂れ小僧って昔よくいて、袖の先が乾いた鼻水で光っていたらしい。 だから、うんこたれ小僧ってのもいたんだろうな。 漫画で、とりいかずよしの「トイレット博士」を知っている人は読者のな

No. 39 「沈黙」

イメージ
ぐうたらママをしていても、本は読んでいた。 この2週間で読んだのは、 「沈黙」 遠藤周作    「春琴抄」谷崎潤一郎  の2冊。 両方とも、地元の日本人学校のバザーで一冊50円で買ってきたもの。  バケーション中に「沈黙」を読もうと、もっていったが、Sedonaのおばさんの家においてきてしまった。  バケーションから戻り、「沈黙」が家に届くまで、「春琴抄」を読んでいた。 「沈黙」のあらすじはWikipediaに書いてあったので、 リンク を貼るので、割愛する。 まず、あらすじを読んでください。   「沈黙」 を読み続けていくうちに、キリシタン迫害の拷問の仕方にいろいろあって、だんだん気分が悪くなってきた。 たとえば、海の中に柱を立て、そこに人をくくりつけてほおって置くやり方。 穴つりといって、耳のうしろに穴をあけて、その人間を蓑虫のように蓑でぐるぐるまきにして、逆さに穴のなかに吊るすやりかた。 熱湯をかけるやりかた・・・。    それぞれの拷問で、受刑者がどういうメカニズムで苦しみ死に至るのかは、私には具体的にわからない。 Slow Death=じわじわと苦しみながら迎える死、であろうから、想像を絶する。 十字架の刑も、体の重みで肩、胸の骨や筋肉が気管を締め付けるのであろうか、これもSlow Deathで極刑とされている。 「パッション」=「Passion of Jesus Christ」の最後ではイエス没後、地震が起こり、ローマ兵が他の受刑者のすねを折る場面があるが、すねを折ることによって、すべての体重が肩、うでにかかり、結果として、呼吸ができなくなる、ので、死を早めるのであると思う。 日本でのキリシタン弾圧は豊臣秀吉の命であり、江戸時代も続けられた。 踏み絵、隠れキリシタン、フランシスコ・ザビエル、という名前は歴史の教科書にのっているので、日本人の間でも一般常識である。  インターネットで当時の日本の信者の数、そして殉教者の数を調べたかったが、出てこない。 本の紹介はあるが、その本を買って読むまで気力がない。 せめて、学者の文献くらい、サーチできないものか。  ウチの教会のパタリロ先生によれば、当時、日本人の三分の一がクリスチャンであり、多くの人たちが殉教した、ということだ。 では、1600年代の日本人の人口は約1,220万人くらい。 

No. 38 ぐうたらな一週間

長距離運転したバケーションからもどってきたとたん、ダラスの相変わらずの猛暑にKOされた。  あとで、立ち上がって、逆転判定勝ち、という怪しげな勝ち方もしようとは思わなかった。 なんというたとえだ? サンタ・フェやグランドキャニオンでは華氏60度台(15度前後くらいかな?)の涼しさであり、夕方はジャケットが必要な日々であった。  夜中、テントの中を風が通ると、涼しくて気持ちよかったが、明け方は寒くなり、寝袋を子供たちにかぶせ、私ももぐりこんだ、という日々であった。 なので、体が楽ではあった。 しかし、ダラスに戻ってからの猛暑の応酬にはまいった。 また、最後の日の運転が田舎道のハイウエイで、いつも強い風が吹くところ。 運転に神経を使う長丁場であったので、疲れた。  ということで、旦那も私もしばらくぐったりしていた。 旦那はお仕事があるから、可愛そうに、毎朝、7時には起きて、出かけていた。 一緒にバケーションにいった、犬のぷっぷちゃんも疲れていて、朝、旦那が起きても、私たちのベッドの上で、ぐーっと寝たまま。 忠犬とは程遠い。  旦那には、悪かったけど、私は、ぐうたらの極致を窮めることとした。  朝、旦那の朝食を作ったあと、パジャマのままで、コンピューターに向かうか、また、ベッドに戻った。 帰ってきて3日目は、朝、子供たちが「マミー、おきて~」 といっても、「やだよ~」と起きなかった。 二人とも、勝手にコーンフレークを食べて、近所の友達の家に行ってしまったようだ。 気がついたら、朝の11時。 子供はいない。 犬も文句言わずに(トイレをがまんしているのかどうかはわからない)、寝ていた。 なんといい加減な母親であろうか。 子供に何かあったらどうすんの、だよね。 我が家はカル・デ・サック(フランス語らしい:リュックサックが軽いという意味ではない)という、日本語で言えば、袋小路に住んでいる。 つまり、この道の先は行き止まり。 なので、通過する車は訪問者を除いてはほとんどおらず、すべて顔見知りのご近所さん。 ご近所さんたちの家には、子供か、犬か、子供と犬のいるのがほとんど。 なので、週末の午後には、子供たちと犬たちが一斉に外にでて出てくる。 幼稚園か小学校の校庭かというありさま。 スケボーやローラーブレードで飛んだり、野球したり、とね。 なので、子供たちが家から消えても、外に出て呼ぶ

No. 37 我回家了:かえってきたで~

我回家了: (うぉぁ ふい じゃ ら:”我、家に戻る”) うろ覚えの中国語ですが、家に帰る、というのに「回」という漢字をつかうんですね。 了(ら)は完了を表す言葉なんで、一応つけたけど、果たしてこれでいいのか・・・。   閑話休題(=それはさておき)、大変、ご無沙汰しています。 7月23日から、家族でバケーションというか、親戚まわりとキャンプに行ってきました。 行きはダラスから12時間運転して、ニューメキシコ州のサンタ・フェへ。 旦那の両親が住んでいます。 確か二人とも第一次世界大戦前の1914年くらいの生まれなので、もう92歳くらい。 小さなトレーラーハウスに二人で住んでいます。  お父さんは、片目をだいぶ前に失明し、腰痛があり、家の中にいるだけですが、それでも、BBCのWorld News をちゃんと見てるし、Time Magazine を定期購読して、しっかりと時勢を追っている人。 最近はそうでもありませんが、以前は一日本を1冊読んでしまう人でした。 判らないことがあれば、まず、お父さんに聞けば、殆どの答えが返ってきました。 季節によるハリケーンの動き方とか、コンクリートに打つ釘の種類に始まり、世界の宗教、それも回教からアメリカ・インディアンのGreat Spritのことまで、とても詳しく知っていて、本当に博学な人です。  我が家に滞在していたときは、夜は私と二人でスコッチとかテキーラを飲みながら、いろいろな話をしてくれました。 クレーン技師に頼んで、パナマ運河の向こう岸まで、クレーンをかけてもらい、そこへよじ登り、向こう岸に渡った。 向こう岸には、貧民窟(Shanty Town)があったそうです。 でも、そこの人たちと仲良くなり、車をあげた話とか。 ヴェネズエラにいたときは、「うちの娘と結婚してくれ。 そうして、娘をヨーロッパからここに連れてきてくれ。」とユダヤ人に頼まれた話。 また、ドイツ人と仲良くして、FBIに尾行された話などなど・・。 冒険談というか、20世紀の始めの時代の多くの物語。 本になるくらいの、わくわくする話が満載です。 お父さんは、1978年にパナマ運河のDredge船(運河にたまる泥を取り出すための船)のパイロットとしてリタイアするまでは、中南米のいろいろな国に住んでいた人です。 北欧系なので、背は180cm以上あるし、多分金髪だったと思

No. 36 親切・不思議な予感

この月曜日、7月17日(アメリカ時間)、またインドネシア、ジャワ島南部で地震が発生。 津波が来た。 死者行方不明者は今日の18日で800人を超える模様。 ダラスの今日の新聞には、「沖を見ると、黒く高い波が襲ってくるのが見えたので、生後11ヶ月の息子を抱えて逃げた。 振り返ると、我が家に津波が襲い掛かって、めちゃくちゃになった。 そして、私は波にたたきのめされ、子供が腕から抜けてしまった。 息子は波にさらわれた・・・」とIta Anitaという母親の弁。  自分の子供たちが一瞬にして、いなくなったら、私と旦那は生きていかれるだろうか。 可愛いあかちゃんをさっきまであやしていたのに、次の瞬間は、その我が子が波にのまれてしまう、という事実。 老若男女、富めるもの、貧しいもの、なんの分け隔てもなく、一瞬にして、召されてしまう、という "Act of God" 。 日本語では、不可抗力と訳すが、これも主の計画なのか・・・・。 インドネシアにこれから何がおこるというのか。  インドネシアの津波 その一  を書いたのはなんと2ヶ月も前になってしまっていた。 そろそろ、思い指を上げて書き始めなければならぬ。 と、今晩書こうと思っていたんだけど・・夕方、というか夜、ちょっとしたことがあって、もうだめよ。 疲れたので、そのちょっとしたことを書く。 ***************************************************************** MixiというアメリカのMy Spaceのようなコミュニティーサイトが日本にもMy Spaceの一年後発足した。 そこに、私の別のNetサークルで知り合い、香港で会った友達が紹介してくれて、入れてくれた。 このコミュニティー、紹介制です。  何かのきっかけで、私の出身高校ー神奈川県立希望が丘高校(旧制でいえば、神奈川一中、通称、神中、神校)出身の人がいたので、高校の名前を出して、サーチしたら・・・・あったあった! もう、懐かしく、うれしく、トピック読み始め、書き込み始め、よく通った喫茶店の消息のトピックに燃えてしまった。 じゃあ、中学校と小学校(同じ希望が丘)のコミュニティーはあるかな?って検索したら、ありました。 ありました。 校歌も覚えているよ、しっかりと。 母に手をひかれていった小学校の

No. 35 ズブロッカと東中野の長い夜

三十番地教会の牧師先生、おまたせしました。 やっとズブロッカの話です。 20代も終わる頃の、バブル真っ盛りの1988年の年明けに、ものすごい飲み友達-それも私をいれて9人ものメンバー、が出来てしまった。 ホイチョイプロダクションによる「私をスキーにつれていって」に感化されたやつらがスキーツアーを計画した。 どういうわけだか、ほとんどが初対面で斑尾のペンションで出会う、という形で始まった。 そのツアーでも、はじめからぶっ放しのめちゃくちゃな騒動がはじまったが、これを書いてしまうとBlog一つ出来てしまうくらいのことばかりなので、割愛。 山から下りた後、再会を約束した。 そのあと、女性二人が参加し、それで9人になり、「ムカデーズ」というパワー全開のめちゃくちゃ集団が出来上がってしまった。 メンバーは錚々(そうそう)たるもんで、マスコミ、宣伝業界、プー太郎、メーカー社員と、80年代の波にのったやつらばかりであった。 プー太郎でも一目(?)置かれていた。 今で言う、フリーターという言葉の出始めであったが、ニート、という言葉は無かった。 日本が金余りの時代の話さ。 私らムカデーズはみな独身で、仕事柄、結構収入があったと思う。 いつのまにか、毎月1回か2回は集まるようになってしまった。 金曜日、または土曜日の夜集まることがあった。 が、まず、家にまともに帰れたことがなかった。 また、週末に皆で泊りがけで出かけることもあった。  いやー、思い出すなあ、めちゃくちゃな日々。 見舞い先の病室での酒盛り、代沢での花見と喧嘩、人の歌うカラオケに「踊りつけましょうか?」、斑尾ナンパ大会、カラオケ歌っていたら朝だよ葉山の別荘、ホテルパシフィックどんちゃんパーティー・・・・。 でも、それなりのやつらばかりで、知的レベルが高かったから、話題が豊富だった。 めちゃくちゃしたけど、どこかでお互い尊敬しあっていたと思う。  さて、ここでは、数え切れない破天荒な集まりの一つを書こう。 題して、「ズブロッカと東中野の長い夜。」 その日は、金曜日だったと思う。 とある、経済誌系の雑誌会社に勤務のOが地元だというので、東京は新宿の西にある、「東中野」のバーというか、食べ物と飲み物を出すところで集まった 。 (ムカデへの個人通信:あそこ、Oさんがさがしたんだっけ? それとも、Sさんだったけ? あまり覚えていない

No. 34 神様、助けて!

Houstonから戻りました。 按手式はよかったなぁ。 あそこの教会の人はダラスのここの教会よりも、平均年齢が高く、50-80歳代の人が多いようである。 なので・・・・ポットラックの食事が美味しかった。 のり巻きで、卵、花鰹、ほうれん草、にんじん(だったかな?)の入ったものがあって、具も一番だしをとったもので味付けをしっかりしてある。 これは、美味しかった。 いいなぁ、大魔神先生。 出発の前日、私は35度を優に越えるくそ暑いダラスの炎天下で、庭の藤棚(日よけ棚)に防水剤を塗っていた。 結構疲れたが、出かける前にやっておこうと無理をした。 私たちの不在中、旦那が続きの工程をしてくれるから、私の分をなんとしてでも、終わらせておきたかった。  終わったあと、荷造り。 なにせ、子供の分もあるから、時間のかかること、かかること。 夕飯はスーパーからスペアリブを買ってきて、ご飯を炊いて夕飯とした。 結構、おそくなってしまった。 床に就いたのが12時半。  2時半ごろか、突然目が覚めた。 少し気持ち悪かった。 パターンが韓国でなった食中毒のパターンであった。 腸がぐるぐる動くのがわかる。 トイレに行って、用を足した。 なんか変だぞ。 なので、ピンクの胃薬を飲んだ。 う~ん、吐くかもしれん。 でも、そうしたら体力がなくなるから、明日Houstonに行って、賛美が出来ないぞ、どうしよう。 それに、吐くのいやだ。 これは、たぶん、昼間働きすぎたので、脱水症状なんだろうなぁ・・・・。 ということで、苦しいから、神頼みした。 天のお父さん、明日Houstonに行かなきゃならないので、治してください。 吐いたら、がっくりきて、長距離の運転は無理になります。 そしたら、賛美できません。 天のおとうさ~ん! 治してください!! 助けてください!!! と、必死に祈ったのである。 それでも、胃の調子には波のように、上下がある。 もっと祈る。 祈った祈った。 30分?一時間位であろうか、少し肩の力が抜けてきて、「さあ、眠るが良い。」という声が聞こえたような気がした。 そのあと、眠りに落ち、翌日、6時には起きることが出来た。 Houstonまで4時間半の運転をこなし、無事に賛美もできた。 ほっとした。 実は、イエス兄さんを信じる前に、同じようなことがあった。 教会に二回ほど行ったあとの去年(2005年)

No. 33 神の名の元に出来た国

明日、Houstonに発つ。 うちの教会のHouston支部というのか、Houston Missionというのか、とにかく、ICC-Houstonが正式に出来て、一年前に行かれた大魔神牧師先生の按手式があるのだ。 按手式というのは、その教会で正式に牧師として伝道を始めるための式である。 そこで、賛美のため、ピアノを弾く。 へただけど、一生懸命やってみよう。 そのあと、私とじゃみらさん家族は南下して、Freeportという海へバケーションだもんね。 戻りは、7月4日のアメリカの独立記念日。 明日は、朝早いから、早く床に就かなければならない。 今日は手短に。 小泉純一郎首相がアメリカへ最後の訪問となった。 昨日は、仲の良いBush大統領に招待されて、エルビス・プレスリーの住んでいた家、Grace Landという博物館へ行った。 かなり、特別な計らいであった。 アメリカのメディアの間でも、前評判高く、到着の前からニュースになっていた。 小泉の純ちゃん、プレスリーのフアンということで、さぞかし喜んだらしく、さっそく、ぎらぎらのプレスリーのめがねをかけて、プレスリーの歌を次から次へと披露した。 振りも付いていた。 そこんとこが何回もニュースで流れた。 CNNなぞ、かなりの時間を割いて放映していた。 日本はイラク戦争を支援した。 なので、Bush大統領は、純ちゃんのことを、”Buddy(相棒)だよ”と言っていた。 W.Bush政権の前の、Clinton政権、お父さんBushの政権の時は、国内の問題がでると、日本をたたいて(Japan Bashing) 円為替のこと、日本からの輸出のItemのことなど、貿易関係のことで、日本にプレッシャーをかけてきたアメリカである。 息子のW.Bush政権になってからは、狂牛病のことでの米国産牛肉の輸入制限のちょっとしたことがあったくらいで、日米はまあまあな関係を保ってきたと思う。 日本と中国の関係が少し悪化してきていたから、日本としては、やはりアメリカ寄りでないと、だめなんだろうな。 以前、小泉純ちゃんは、社会党元代表の菅氏から、「アメリカがイラクに侵攻した理由の大量破壊兵器がみつかんねーじゃんかよ~、見つからなかったら、どうすんだよ~。」と国会でこづかれていた。 でも、純ちゃん、「兵器は必ず、見つかるであろう。」と言い切っていた。 あれから、

No. 32 気ちがい家族

今日は、旦那が出張先から帰ってきたので、コンピューターの前に座っていないで、早く床に就こうか、と思っていた矢先のこと。 また、親子のばか遊びが始まった。 話は昨晩のことに遡る。 何かを取ろうとして、冷蔵庫のフリーザーをあけたら、なんとそこには、双子が赤ちゃんの時から大事にしている、小さい縫いぐるみ、ブランケット、その他のものが入っていた。 なんで? 子供たちを見て、「なんじゃ!これは!」といったら、二人で「いーっひひひひひひ!!!!」とゲラゲラ高笑を始めた。 冷たくっていいんだよーだって。 いったい何を考えているのか、うちのやつらは! すぐに、旦那に国際電話して笑ってしまった。 お風呂のお湯を貯めるので、蛇口を開けてお湯を流して待っていた。 しばらくして、チェックにいったら・・・! 床がお湯だらけ。 なんと、蛇口の先には、手袋のような、韓国製のあかすりミットがかぶさっていて、横から出たお湯がとびちって、タイルの床の上に広がっていた。 これには、少し怒った。 でも、やつらは一向に堪える気配がない。 今日の午後、旦那が帰宅して、子供たちに冷凍庫にある小さい縫いぐるみを見せてもらっていた。 そしたら、旦那、いいか、これは今は、「冷たい」だが、水をつけると「凍っている」になるんだ、といって、小さい縫いぐるみなどに水をつけ始めた。 よしゃいいのに、なにやってんの、旦那。 さて、就寝時。 明日の用意をしている私の背後から息子と旦那がけたけたいいながら近寄ってきた。 なんと、その「凍った」縫いぐるみを私のパジャマの下から背中にいれたのである! やったなー!! と今度は息子を捕まえて、おしりの後ろにいれてやった。 「ひえーー!!」と息子。 でも、喜んでる。 マゾだこいつ。 それからは、私と息子の応酬戦。 今度は、旦那が「マミーを捕まえているから、背中にいれろ!」と私を捕まえようとする。 「ぎえー!」と私も逃げ回る。 子供部屋から、居間、玄関を逃げ回る。 犬のプップちゃんも追いかけてくる。 プップちゃんはだいぶ前に旦那が私にいたずらをすると襲うように躾けておいた。 「Get Daddy!]と命令すると、「がおー!」っと飛び掛るのである。 また、私に触れている手に噛み付くのである。 本気ではんないが、半分マジで噛む。 「プップちゃん! Get Daddy!]と叫ぶ。 プップちゃんの攻防

No. 31 聖歌・賛美歌・ゴスペルソングMIDI  「いつくしみ深き」

イメージ
とあることから、賛美歌の「いつくしみ深き」の歌詞を探すことになった。  ネットサーチしたところ、   というとても良くできたサイトにめぐり合った。 昨日も、アメリカのコンテンポラリーな賛美の曲をサーチして、歌詞やコードを探していたが、オーソドックスな、オルガンのふにゃら~という音を伴奏にして歌う 「賛美歌」はこのところ、ご無沙汰である。  母の葬式の時に、歌ったくらいであった。  このサイトに行ってびっくり。 まず、画像がきれい。 そして、音もMIDIの単調な旋律ではなく、8トラック使って録音したような素晴らしい演奏が聴ける。 歌詞も絵もそこに載るコメントも素晴らしい。 このサイトは、かなりの労力を費やしているどころか、サイトに来た人、一人一人の質問に丁寧に対応している。 大変なことである。 平安朝にいえば、「あなおそろしや」 「妙」である。 おそろしや=すげ~。 妙=お見事。 まろは感銘をうけたぞよ。 ほほほ。 「いつくしみ深き」の歌詞は文語調である。  まろなりに、口語体で訳してみた。  では、歌ってみよう。  仕事中でない人で、または、音楽を聞けるひとは、以下題名ををクリックする。 いつくしみ深き 讃美歌 312番 オリジナル               あかしや版口語訳 いつくしみ深き   友なるイエスは   ごーっつう優しい ダチのイエスは 罪とが憂いを    とり去りたもう    悪徳なやみを 帳消しにした こころの嘆きを   包まず述べて    胸のいたみーを さーらけだして などかは下ろさぬ  負える重荷を   なかなか言えない いーやなことさえ いつくしみ深き   友なるイエスは   ごーっつう優しい ダチのイエスは われらの弱きを   知りて憐れむ   おらのー弱さを  知ーってるんだよね 悩みかなしみに   沈めるときも    涙がちょちょぎーれて 落ち込む時に 祈りにこたえて   慰めたもう      祈るーおいらを  だきしめたのさ いつくしみ深き   友なるイエスは   ごーっつう優しい ダチのイエスは かわらぬ愛もて  導きたもう      絶えーず微笑む 船頭親分   世の友われらを  棄て去るときも   おまえはくずだと ののしられても 祈りにこたえて  労りたまわん     死んでおいらを すーくってくれた おそまつさんでした。

No. 30 父の日 <長文>

イメージ
今日は父の日。    今朝は、子供たちが作ったカードと、クリップオン(お札を挟む幅広のクリップ)が付いた、カード入れを子供たちから、旦那に渡してもらった。旦那は出張先でカード入れを紛失したきたので、とふと思いついて、この機会に購入した。   旦那はとても、良い父親である。  一緒に子供たちと遊んでくれるし、毎晩、子供たちの歯ブラシに歯磨き粉をつけて、洗面所においておいてくれる、という人である。  子供たちが悪いことをしたときで、いつもがみがみ言うマミーでは、効き目がない、というときは、旦那に登場してもらう。ちゃんと、理論で説明して躾けるので、感情で叱りがちな母親の躾とのバランスが取れる。 しかったあとは、子供をしっかりと抱きしめて、「愛しているから、怒るんだよ。」と言う人である。    一度、子供たちに 「ダディーとマミー、どっちが偉いの?」と聞かれたので、「そりゃー、ダディーだよ。」と答えると、神妙な顔をして、それ以上聞いてこなかった。  やっぱ、一家の中では、お父さんが大黒柱だな、と私らしくないようだが、そう思う。 また、そう思わせてくれる夫である。 ********** 私の父は2004年8月20日に自宅で一人死んでいるのを警察に発見された。 入院中の母が何度も電話をかけても誰もでないので、近所の人に見に行ってもらった。そしたら、郵便受けに新聞が溜まっていたので、警察を呼んで天窓から入ってもらい、発見となった。  検死の結果、脳内出血が原因であった。検視医が注射針をうなじの方から刺して、注射器のピストン部を引いた所、血がでてきたので、死因がわかったそうだ。 猛暑の中の 寂しい死に方であった。  目撃者は犬一匹。    この犬は、私がアメリカに留学したあとに両親が保健所から引き取ってきた犬。  父はこの犬をとても可愛がっていて、二人でよく晩酌をしていた。犬もビールを飲んだ。私が両親の為に買ってきた高いトロも、私たちが「あー!!」と言っているうちに、その犬にあげてしまっていた。               ********** 父はお酒が入ると、私たちのことをよく怒鳴った。私たちが子供の時は、よく殴られた。人を傷つけることを平気で言った人であった。 母のこともよくいじめた。 一度、私はあまりにも傷ついたので、母に「なんでこんな人間と結婚したんだ!」と、泣きながら、

No. 29 とっつあんと子供の祈り

事前にいっておくが、この投稿は書かれている本人たちの事前の報告をせずに書いた。 なので、本人たちがいやだ、という場合には、消去することもある。 ********************************************************************************* 「男らしい」というのはどういうもんかなぁ。 どうしても、外見で判断しちゃうよね。 体ががっしりしていて、髪の毛は七三分けではなく、ちょっとぼさぼさ気味。 めしをがんがんかっくらって、「おいしっすよ!これ!」とにっとわらった歯が白い。 お酒にはめっぽう強い、スポーツマン。声が低くてでかい・・・てなことかね。 昔の私は、面食いで、背が180cm位の男性がいいな、と思っていた。 実際、そういう男性とも付き合ってきた。 (旦那は背は低いし、ハンサムでもないよ。カエルみたいな声してるし。) 年輪を重ねるごとに、本当の男らしさというのは、外見からは計り知れないのではないか、と思うようになった。 以前、仕事の上の失敗を上司に助けられたことがある。 その上司は、私が批判していた人間だった。 どちらかというと、「男らしい」というより、ちょっと「女々しい」感じの人であった。 でも、そんな私を助けてくれたんだよね・・・・。 今は、連絡をとっていない人だけど、この人には一生足を向けて眠れないと思う。 さて、うちの教会にも、私が密かに「男らしい」と思っている男性がいる。 「とっつあん」と呼びたい。とっつあんは関西出身で、日本人だけの礼拝(うちの教会は日本語英語の合同礼拝と言語で分かれた礼拝がある)の時、いつも、パタリロ牧師に指名されて、聖書を朗読する役目を担っている。 気に入ったのは、関西弁そのまんまで、ごっつう朗読してくれちゃうんだよね。 お国言葉を堂々と喋る人って好きなんだよね。 それに声がやや高音で、頭のてっぺんから出てくるようで、通る声をしている。  私は江戸浜っ子だから、日本の今の標準語で育ってきてしまったので、けっこうつまらない。 かといって、関西弁を真似するとかなりの無理がある。 いつかどつかれるだろうな。 「おんどりゃー!下手な真似しくさって!」と。 そのとっつあん、着物着せて、扇子持たせたら、吉本興業並みにいい話をしてくれそうな、ちょっとひょうきんな感じもする。 関西弁だ

No. 28 誕生日と化け物

ご無沙汰っす。 一昨日まで、朝は惰眠をむさぼる毎日で、今日からまた、朝6時に起きる生活になってしまった。 子供の夏のESL(English for Second Language)夏講習が始まった。 ということで、遅く床に着くと明日がつらいので、今日は手短に。 先週の金曜日の6月2日は誕生日であった。 その朝は、旦那が起きたのがわかったが、「敢えて」起きて手持ちの朝食をつくらなかった。 学校がない一週間、惰眠をむさぼる快感がこれまた、風呂上りのビールみたいに気持ちがいい。 「今日は、何の日だか、わかっているでしょ?」と言わんばかりに起きなかった。 ベッドのなかで、旦那が自分でサンドイッチを作っている音を夢うつつに聞く。 目が覚めると、なんと双子たちが両脇で寝ている。 いつ、忍び込んだんだぁ~? しかし、出かける旦那に何か言われて、起きて、どこかへいって、戻ってきた。 カードをくれた。 そして、"Happy Birthday!" といってくれた。 翌日の土曜日は、旦那が、ダラスのNobuというレストランに連れて行ってくれた。 高いんだけど、なんと旦那、出張手当てをこの日の為にちょこちょこ貯めていたんだと。 お陰で、とても美味しいデイナーでした。 Nobuでは、シェフのおまかせコース。 最後に出てきた握りすしがなんと、昔通っていた築地の寿司清(すしせい)の握り方に似ていて、懐かしかった。 ご飯は少なめで、ゆるく握るのであるが、それでいて崩れない、そんな握り方。 帰りがけ、寿司カウンターの人たちにお礼をいって、今度昼来ます、と言い残した。 でも、ここ、昼の定食が$50。 こんな金額だから、いつ来れることやら。  46年前、私は東京は渋谷の日赤病院で生まれた。 朝の2時ごろだったらしい。 母は微弱陣痛をおこし、難産の末、やっと私が生まれたそうだ。 生まれたときは、私はなかなか泣かなかったそうである。 昭和35年ころは、Epidural(硬膜外麻酔)も子宮収縮剤というのも、一般的ではなかったので、大変だったんだろうなぁ。 私が生まれたあと、父と祖母は板橋の家まで、歩いて帰ったそうだ。 その道すがら、朝日がのぼり、そのなかを歩いていったのが印象的だった、と父が言っていたっけ。 今年は、XX歳になりました、と電話して報告する両親もおらず、ちょっと寂しくもある。

No. 27 ひげさんからの素晴らしいコメント

このBlogを通して、未知の方たちとの出会いがある。 こういった出会いも、天のお父さんが導いてくれているような気がする。 今回、ここに紹介したいのは、私のBlogをみてくださって、貴重なお時間を費やして、メールにてコメントを下さった「ひげさん」の文を紹介したいと思う。 ご本人には、了解をとってある。 メールでお話していて、ひげさんと私はかなりの共通点があるようだ。 もちろん、天のお父さんとイエス兄さんを信じるということで、イエス営業部の兄弟ってことであるのはもってのほか。 今回のメールにて、私がまだ、漠然としか把握していない、「創造主」と地球の歴史、という点で、とてもよいお話をしてくれて、理解が一歩深まった。 とても有難い。 では、以下、ひげさんの文です。 テキサスの時間で、2006年5月31日に受信しました。 *******************************************************************************  <引用はじまり> こんばんはあかしやさんヒゲです。 今回のブログで遙か前方に熊がいる事に感じたあかしやさん、素晴らしい!!  それを読んでちょっと違うのですが、ヒゲは仕事で山の中へ行くことがよくあり(測量をしていたころ)道無き山の中を進んでいて谷を越えるときに向かいの山の目標物に向かって進むのですが、谷へ降りていくとその目標物が見えなくなるので、自分が真っ直ぐ進んで行っているかわからなくなるのです、目標までは今いる山と向かいの山の同じ高さの場所ですからかなりあります。そんな時にふと後ろから自分を呼ぶ感覚があるので振り返りました。そしたら大きな一本の木が目に入りそれを見た瞬間に「私を後ろの目標物にしなさい」と言う感じがすぐに沸いてきました。誰もいない山の中でとっても心強く思えました。 むかしからこういう動かぬ物、道具やそういった物達には母親からは命がぜんぶあると教わり、その後インディアンなどでは「精霊」マニトゥともいっていましたが、きっとそれがあるんだと感じ、物を投げたり無造作に扱うのが好きではありませんでした。 ですからきっと山にいても孤独はかんじませんでしたが、きっと人がいないだけで山の中はそういった霊が沢山いるのだと感じておりました。ただ良い霊と悪い霊はいるのだと思います。 そんな時、今では自分

No. 26 見上げてごらん、夜の星を

5月29日の月曜日は、アメリカでは、戦没者追悼の日である。 Memorial Dayという。 しかし、第二次世界大戦に行った兵士たちはすでに80歳はなっているだろうから、戦争のことを伝える人たちは減っている。 朝鮮戦争はアメリカでは忘れられた戦争と言われる。 この戦争に行った人たちも70歳代、80歳代、となり、戦争のことを後世に伝える口の数が減ってきている。 だからかどうかわからんが、このMemorial Dayは一般アメリカ人にとっては、子供たちが夏休みに入ってからの最初の3連休であり、夏の始まりである。 なので、ちょっとした外出や、バーベキューをする日、となっている。 また、商戦日でもある。 メモリアル・デーのセールの広告がとても多い。  そんな世事には見向きもせず、うちら家族は旦那のオフィスの人が週末を過ごしている、”Ranchito”(ランチート)に2泊3日で行ってきた。 別荘というと、日本人にとっては、軽井沢の涼しい林の中の一軒家、と思い浮かべるが、このランチートはその「別荘」からは程遠い。 トレイラーランチとして、一部の土地を売りに出すことがある。 その土地の一角を買う。 30平米くらいの土地である。 それも日本の首都圏では考えられない20万円とか50万円である。 コンクリートを自分たちでといて、流し、平らにして、土台を作ったあと、ピックアップトラックの後ろにつけてあるキャンピングカーを持ってきて、置く。 下水、水道、電気などは自分で溝を掘って設置したという。 木にかこまれているので、日陰があって、とてもよい、が、蚊もいる。  「ランチート」は英語のRanch、つまり農場みたいのかな、そのスペイン語は「ランチョ」である。 スペイン語の「~ito」は小さいという意味なので、ランチートは小さい農場、といういう意味である。 Davidという招待してくれた人は、奥さんと二人で、デッキ(縁側の大きいやつ)をつくり、週末ごとに広げていったそうだ。 デッキだけで、日本のワンルームマンションの2-3倍の大きさである。 10年以上、毎週末、ランチートに来ているそうだ。 ダラスから2時間かからない距離なので、気楽に行かれる。 一週間、オフィスで忙しい時や、いやなことをこなし、週末はここに逃げてくる、ということである。 何年か前に隣の人が所有の区画を売りたい、というので隣接し

No. 25 主が語られます - 祈り

あーもう、眠いぞ。 本当は、「ズブロッカ 東中野の長い夜」という題で書こうと思っていたんだが。 ズブロッカってポーランドかな? 東欧のお酒です。 ビンの中にわらだか、薬草だか、もしかして、その手の草か? みたいのが入っている。 あれがやばいのかなぁ。 30番地教会の牧師さんと話していて、「是非、ズブロッカの話をしてください。」と言ってこられた。 そうか、この人もズブロッカで失敗してんのかな? むふふふ・・・。 ズブロッカという「酒」、それもこれを飲んで失敗するやつが多いという「酒」と「天のお父さんとイエス兄さん」をどうやって結び付けようか・・・と10日以上考えていて、今日、ふとアイデアが浮かんだ。 しかし、教会のWebの更新をしたので、あらま、時間がないわ。 ということで、今日は、簡単に、まったく別の話題、それも、短くいたしやしょう。 ***************************************************************************** 「主が語られます」と通っている教会の牧師さんにいわれたことある? 「言葉があたえられました。」 とか、「神様に言われました。」とか、人がいっているの聞いたことある?   イエス営業部の皆様にとっては、結構聞きなれた言い回しかもしれない。 イエス兄さんのこと、あまり知らない人、クリスチャンなんて・・・、と思っている人、超まじめっぽい教会に行っている人たちの反応は、「なに言ってるんだ、このバカ。」 「頭、大丈夫?」 「やりすぎなんじゃない?」(何をやりすぎかは、自分で勝手にあてはめてよ。) 更に、「これって、カルトですよ。」 「異端じゃあないの?」 「こまるんですよね~そういうの。」 では、ここでは、あっしがこの短い間、どんな形で天のお父さんに「言われたか」を箇条書きで書いてみる。 うそじゃないよ。 誰が、こんな夜更けに眠いの我慢して嘘かくんだよ。 何百人という人がみているBlogなら、そりゃー、大ほらを吹くだろうけど、まだ、始まったばかりのBlogだよ、これ。 あー眠いぞ。 だから、まじめにみてよ。 ほんとうなんだから。 1. 声が聞こえる。   大きな声の時が一回あって、夜中の3時に飛び起きたこともある。 実家に電話したら、母が「自殺しようと思っていた。」だって。 その後、すぐに日