No.177 父方の先祖 (2)

 時間は秋の遅い午後。

町役場から川沿いの道を通り、橋を渡り、坂を上ると公民館はあった。

観光課の優しい心遣いで、担当の方には連絡が入っていたようであった。

建物の二階に上がり、文献の閲覧室に通して頂いた。

数冊の分厚い本が長い会議机の上に置かれ、付箋がつけられていた。

「XX家の人については、探しましたが、ここではこれらの本にあります。」と係の方がすでに探していてくれたのです。


県の人名辞書、郷土歴史の本、雑誌。

人名辞書に、父の戸籍にある名前を見つけた。曽祖父(ひいじいさん)に当たる人であり・その人について、以下のように書かれている。

「明治三年より農を本業とし、傍ら鐵物商を営む、七年穀物商を開業 .........を営み、農業を廃止す。村会議員となり、二十四年呉服太物商を始む。........... 長男XXXX、近衛歩兵一聯隊付きにて日露戦役に従ひ..........二男XXXXは一年志願軍医にして.......」と読み進み、なんと、祖父の名前が続いていた。

「三男XXXXX(祖父のこと)近衛歩兵一聯隊付きとして現役にあり.......」とあり、最後に同じひいじいさんは、「氏は現に町会議員たり、」と締めくくっていた。

日露戦争は、1904-1905年の出来事。明治37-38年のこと。112年前の記録である。


例のテレビ番組を見た後、インターネットでその土地の実業団員の名簿をみつけた。

ひい爺さんと婿養子の方が高額納税者として名前を連ねていた。他の資料でも、ひい爺さんの業績が載っていた。

祖父の兄は東京の有名私立学校を卒業後、千葉医学専門学校へ。軍医として志願。除隊後、千葉医学専門学校付属医院に勤務。地元に戻り、医者として開業し、病院を建てた。

病院の棟上げ式の写真もあった。当時も医者になるには、学費、東京、千葉での生活費、そして、病院建築の多大な資金が必要であっただろう。当然、ひいじいさんの資金によって達成されたはず。


人名辞書にひい爺さんと祖父の名前が載っていることで点が線で繋がった。

番組で言われていた「豪商」はべつのXX家の人ではなく、同じXX家の私のひい爺さんであった。

*写真は昭和天皇と護衛の近衛歩兵

                 *********


歴史の確認はできた。父方の家系には、豪商、医者、呉服商、近衛兵がいた。名の知れた町の名士であった。


しかし、私の中では、腑に落ちない。どうしても、私が知っている祖父と歴史に出てくる祖父とその輝かしい家系がつながらなかった。

私はじいさんに会ったことがない。私が生まれる前に亡くなっていた。


祖父は大酒のみで、私の叔父のお嫁さんを日本刀振り回して追いかけて暴れたという噂は聞いている。事業に失敗したらしく、長女を芸者にしなければならなかった。私の叔母である。



公民館の方に先祖の事が書かれているページのCopyをお願いした。

そして、子孫の方は誰か生きていて、この町にいないのでしょうか? と尋ねた。

連絡を取れる方がこの町にはすんでいない。電話番号は個人情報なので頂けなかった。 


しかし、公民館の方が電話で誰かとしゃべっている。気を利かせて下さり、豪商の末裔の人に電話をしてくれたのだ。

偶然にも、その方は、たまたま遠くからその街に一週間だけ滞在しているとのこと。

電話を譲って頂き、電話口の方に簡単な自己紹介ーXXXXの孫のXXXXです。父の兄弟の名前を全て羅列し、私が知りえることで、私の身元がわかる多くのことを伝えた。


なんと、そのお電話で、翌日の午後、町でお会い出来ることになった。


ちょっと信じられなかった。


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